
『ブレードランナー2049』 デニ・ヴィルヌーヴ監督 ☆☆☆☆
去年映画館で観た時は話がよく分からなかったので、iTunesのレンタルで再見した。あの伝説的な名作の続編ということで、評価も色々と割れているようだ。私の感想は、かなり頑張っているし悪くはないけれども、やはり前作よりは劣るなあ、というものだ。
前作『ブレードランナー』の第一の魅力はなんといってもあの壮麗なビジュアルだったが、その点は、本作もかなりイイ線いってると思う。製作陣もそこに最大限の力を注いだに違いなく、そのことはスクリーンからビシバシと伝わってくる。その気合の入りっぷりは冒頭のカリフォルニア風景から全開で、前作とまったく同じではなく微妙に異なっていて、しかしちゃんと同じDNAを持つ美意識によって神経質なまでに貫かれている。音楽もまた前作を強烈に意識していて、最初はヴァンゲリス当人が担当したのかと思ったほどだ。実際は別人だが、見事なまでにヴァンゲリス風、しかしよく聴くとヴァンゲリスほどロマンティックではなく、そのかわりにクールなテクノ、アンビエント風味が加味された音楽となっている。
主人公のブレードランナー、K(ライアン・ゴスリング)が乗るスピナーや探索装置、ブラスターなどの小道具もちゃんと前作のスタイルを踏襲しているし、またそれを完璧な特撮技術でやってくれるのだから前作のファンはたっぷり愉しめる。東洋西洋入り乱れた電飾ケバケバしいロサンジェルス市内の光景もしかり。
さて、今回主人公のKは人間ではなくレプリカントという設定で、警察署内でもあからさまに人間から差別され、唾棄される存在である。そんな彼があるレプリカントを処理し、それに関連してかつてレプリカントの女が子供を産んだ事実が判明する。レプリカントたちはこれを「奇跡」と呼び、虐げられる階級を脱するために革命を起こそうとしていた。一方で警察は秩序維持のため、本件に関するすべてを破壊せよとKに命じる。Kはレプリカントから生まれた子供を探すが、ある事実から、自分こそその子供ではないかとの疑念を持つ。一方、レプリカント製造業者であるウォレスとその部下にして女レプリカントのラブは、また別の目的でレプリカントの子供を探していた…。
はっきり言って、映画全体の雰囲気が驚くほど押井守作品を想起させる。それもアクションが冴えていた『攻殻機動隊』ではなく、頭でっかちだった『イノセンス』『スカイ・クロラ』あたりの雰囲気によく似ている。会話が観念的で、アクションが少なく、躍動感に欠け、空気が冷え冷えとしている。ひとつひとつの場面にも押井っぽさを感じさせるところが多く、たとえば研究室の白衣を着た男や、記憶作りの娘、Kのバーチャルな恋人ジョイ、ウォレス社での新モデル誕生シーンなど、押井アニメに出てきてもおかしくないビジュアルばかりだ。この監督はもしかして押井守のファンなのではないか。特にウォレスのセリフがいかにもで、きわめて観念的かつ内容空疎。色んなことを言ったりしたりするのだが、何がしたいのかよく分からない。
映画のテンポものろく、尺も長い。また、アクションシーンの出来がぱっとしないのも減点ポイントである。この映画は基本的にはハンターと獲物が追いつ追われつするアクション・ノワールなので、アクション場面はきわめて重要なはずだ。そももそ映画の大部分が静謐感ただようスローな場面ばかりなので、せめてところどころに出てくるアクションシーンがカッコよくないと引き締まらない。
更に決定的な不満は、レプリカントが単なる「虐げられた人々」のメタファーになってしまった点である。もともとディックの『アンドロ羊』を原作とする『ブレードランナー』においては、レプリカントは決して「虐げられた人々」ではなく、人間の「ニセモノ」だった。ディックの強迫観念であるシミュラクラ、模造品である。しかし模造品がニセモノの記憶を埋め込まれ、自分を人間だと思い込まされた時、それははたしてニセモノなのか。そこに生まれる感情は本物と同じではないか、というのがディック的問いであり、前作『ブレードランナー』は原作から色々と変更されてはいたが、確かにその基本設定を踏まえていた。
ところが、本作におけるレプリカントは「ニセモノ」ではなく「奴隷」である。人間vsレプリカントの対立は「本物」と「ニセモノ」の対立ではなく「支配者階級」と「被支配者階級」の対立となり、物語のテーマは奴隷階層の蜂起、弾圧への抵抗、というありきたりなものとなった。SFやアクション映画でもっとも安直に使われる戦争の理由づけである。おそらく前作のレプリカント・ロイのセリフ、「これが奴隷の一生だ」あたりからインスパイアされたのだろうが、これは『ブレードランナー』の根幹を骨抜きにする重大なミスだったと思う。
いや、「ニセモノ」であるレプリカントの哀しみは、母親から生まれたいというレプリカント全員の願望や、肉体を持たないジョイがKとセックスするシーンなどで十分表現されているじゃないかという声が聞こえてきそうだが、それは要するに下層階級である非=人間の「人間になりたーい」という哀しみであって、『妖怪人間ベム』の昔からあるテーマの変奏でしかない。先に書いたように、『アンドロ羊』そして『ブレードランナー』の衝撃は、レプリカントが自分をレプリカントと知らない、自分を人間だと思い込まされ、創造者によって騙されているという点にあった。
結果的に、この映画はビジュアルは壮麗で、見事な職人芸の結晶であり、スタイリッシュなSF映画としてはたいへん高品質だと思うが、前作をユニークなものにしていた鋭い感性と精神をコアの部分から失い、その代わりに凡庸な紋切り型が注入されてしまった。おまけに、その精神の喪失を糊塗し、形而上学的高尚さの煙幕を張るために用いられたのは、押井守式のムード的観念性である。正直、そこがどうしても気になる。
とはいえ、先に書いた通り、スタイリッシュなSF映画としてはよく出来ている。プロットはあまり気にせず、雰囲気とヴィジュアルを楽しめばいい映画なのかも知れない。旬の俳優、ライアン・ゴスリングもクールだし、ジョイもかわいいぞ。
去年映画館で観た時は話がよく分からなかったので、iTunesのレンタルで再見した。あの伝説的な名作の続編ということで、評価も色々と割れているようだ。私の感想は、かなり頑張っているし悪くはないけれども、やはり前作よりは劣るなあ、というものだ。
前作『ブレードランナー』の第一の魅力はなんといってもあの壮麗なビジュアルだったが、その点は、本作もかなりイイ線いってると思う。製作陣もそこに最大限の力を注いだに違いなく、そのことはスクリーンからビシバシと伝わってくる。その気合の入りっぷりは冒頭のカリフォルニア風景から全開で、前作とまったく同じではなく微妙に異なっていて、しかしちゃんと同じDNAを持つ美意識によって神経質なまでに貫かれている。音楽もまた前作を強烈に意識していて、最初はヴァンゲリス当人が担当したのかと思ったほどだ。実際は別人だが、見事なまでにヴァンゲリス風、しかしよく聴くとヴァンゲリスほどロマンティックではなく、そのかわりにクールなテクノ、アンビエント風味が加味された音楽となっている。
主人公のブレードランナー、K(ライアン・ゴスリング)が乗るスピナーや探索装置、ブラスターなどの小道具もちゃんと前作のスタイルを踏襲しているし、またそれを完璧な特撮技術でやってくれるのだから前作のファンはたっぷり愉しめる。東洋西洋入り乱れた電飾ケバケバしいロサンジェルス市内の光景もしかり。
さて、今回主人公のKは人間ではなくレプリカントという設定で、警察署内でもあからさまに人間から差別され、唾棄される存在である。そんな彼があるレプリカントを処理し、それに関連してかつてレプリカントの女が子供を産んだ事実が判明する。レプリカントたちはこれを「奇跡」と呼び、虐げられる階級を脱するために革命を起こそうとしていた。一方で警察は秩序維持のため、本件に関するすべてを破壊せよとKに命じる。Kはレプリカントから生まれた子供を探すが、ある事実から、自分こそその子供ではないかとの疑念を持つ。一方、レプリカント製造業者であるウォレスとその部下にして女レプリカントのラブは、また別の目的でレプリカントの子供を探していた…。
はっきり言って、映画全体の雰囲気が驚くほど押井守作品を想起させる。それもアクションが冴えていた『攻殻機動隊』ではなく、頭でっかちだった『イノセンス』『スカイ・クロラ』あたりの雰囲気によく似ている。会話が観念的で、アクションが少なく、躍動感に欠け、空気が冷え冷えとしている。ひとつひとつの場面にも押井っぽさを感じさせるところが多く、たとえば研究室の白衣を着た男や、記憶作りの娘、Kのバーチャルな恋人ジョイ、ウォレス社での新モデル誕生シーンなど、押井アニメに出てきてもおかしくないビジュアルばかりだ。この監督はもしかして押井守のファンなのではないか。特にウォレスのセリフがいかにもで、きわめて観念的かつ内容空疎。色んなことを言ったりしたりするのだが、何がしたいのかよく分からない。
映画のテンポものろく、尺も長い。また、アクションシーンの出来がぱっとしないのも減点ポイントである。この映画は基本的にはハンターと獲物が追いつ追われつするアクション・ノワールなので、アクション場面はきわめて重要なはずだ。そももそ映画の大部分が静謐感ただようスローな場面ばかりなので、せめてところどころに出てくるアクションシーンがカッコよくないと引き締まらない。
更に決定的な不満は、レプリカントが単なる「虐げられた人々」のメタファーになってしまった点である。もともとディックの『アンドロ羊』を原作とする『ブレードランナー』においては、レプリカントは決して「虐げられた人々」ではなく、人間の「ニセモノ」だった。ディックの強迫観念であるシミュラクラ、模造品である。しかし模造品がニセモノの記憶を埋め込まれ、自分を人間だと思い込まされた時、それははたしてニセモノなのか。そこに生まれる感情は本物と同じではないか、というのがディック的問いであり、前作『ブレードランナー』は原作から色々と変更されてはいたが、確かにその基本設定を踏まえていた。
ところが、本作におけるレプリカントは「ニセモノ」ではなく「奴隷」である。人間vsレプリカントの対立は「本物」と「ニセモノ」の対立ではなく「支配者階級」と「被支配者階級」の対立となり、物語のテーマは奴隷階層の蜂起、弾圧への抵抗、というありきたりなものとなった。SFやアクション映画でもっとも安直に使われる戦争の理由づけである。おそらく前作のレプリカント・ロイのセリフ、「これが奴隷の一生だ」あたりからインスパイアされたのだろうが、これは『ブレードランナー』の根幹を骨抜きにする重大なミスだったと思う。
いや、「ニセモノ」であるレプリカントの哀しみは、母親から生まれたいというレプリカント全員の願望や、肉体を持たないジョイがKとセックスするシーンなどで十分表現されているじゃないかという声が聞こえてきそうだが、それは要するに下層階級である非=人間の「人間になりたーい」という哀しみであって、『妖怪人間ベム』の昔からあるテーマの変奏でしかない。先に書いたように、『アンドロ羊』そして『ブレードランナー』の衝撃は、レプリカントが自分をレプリカントと知らない、自分を人間だと思い込まされ、創造者によって騙されているという点にあった。
結果的に、この映画はビジュアルは壮麗で、見事な職人芸の結晶であり、スタイリッシュなSF映画としてはたいへん高品質だと思うが、前作をユニークなものにしていた鋭い感性と精神をコアの部分から失い、その代わりに凡庸な紋切り型が注入されてしまった。おまけに、その精神の喪失を糊塗し、形而上学的高尚さの煙幕を張るために用いられたのは、押井守式のムード的観念性である。正直、そこがどうしても気になる。
とはいえ、先に書いた通り、スタイリッシュなSF映画としてはよく出来ている。プロットはあまり気にせず、雰囲気とヴィジュアルを楽しめばいい映画なのかも知れない。旬の俳優、ライアン・ゴスリングもクールだし、ジョイもかわいいぞ。
未見とはいえ、多分「更に決定的な不満は、レプリカントが単なる「虐げられた人々」のメタファーになってしまった点である」というご指摘は鋭いものだろうと推測します。レプリカントたちが革命を起こそうするというのも、ちょっと違う気がしますね。前作では、自分というものが存在していいのかという実存的・個人的な問いが中心になっていましたから。
まあ、いずれにせよ観るんですけど・・・