『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』 アントナン・アルトー ☆☆☆★
昔半分ぐらい読んで放り出していたのを今度は完読。例によって私が持っているのは安価な白水uブックスであって写真のものではない。
はっきり言って、何言ってるんだかよく分からない本である。昔挫折したのもそのためだ。訳者の多田智満子氏はあとがきで「この作品はいわゆる評論とはいえないし、伝記小説のジャンルからもはみ出る。いっそ一種の哲学詩と称すべきかもしれない」と書いているが、確かにそうだ。物語的な筋がなく、作者の考察ばかりがつらつら続くのは哲学だろうし、論考というにはあまりに感覚的な比喩が縦横に駆使されているところは明らかに詩の領分だろう。ヘリオガバルスという古代の少年皇帝を題材にその二つがミックスされているという、これはそういう本である。
ちなみに巖谷國士は解説でスーザン・ソンタグの言葉を引用しながら、アルトーは「いわば本質的に解読不能であるがゆえに知的古典となる」数少ない極端な作家たちの、もっとも現代的な一例かもしれない、と書いている。どうやら誰が読んでも分からない作家らしい。
それから多田智満子氏が言うように、ヘリオガバルスについてすでにある程度の知識を持っている読者を想定してあるので、「ヘリオガバルスのことならおれに任せておけ」という日本では奇特と思われる読者を除いて、巻末に収録されている多田智満子氏の「シリアの公女たち」を読んでから本文に取りかかった方がいい。多少なりとも分かりやすくなる。
先に書いたようにこれは哲学詩なので、物語的な場面というものがあまりない。一応ヘリオガバルスが皇帝になった経緯やその時の戦争などは描写されるが、主人公であるはずのヘリオガバルスの言動が生き生きと目に見えるように描かれるシーンなど全然なく、ヘリオガバルスがどんな人物だったのかというイメージを掴むことすらほとんどできない。これには驚いた。14歳で皇帝となり18歳で殺されるまでローマに君臨し、暴虐と性的倒錯の限りを尽くした美貌の少年皇帝ヘリオガバルスはそれだけで想像力をかき立てる存在だが、そういう古代ローマの異国趣味溢れる物語を期待すると肩透かしを食らう。その代わり原理と精神がどうとか、男根切除が云々とか、太陽信仰がどうしたとかそういう宗教的哲学的記述で埋め尽くされている。しかも意味がよく分からない。
じゃまったく面白くなかったのかというとそうでもなく、意外と愉しめた。まず、やはり文章はすごい。哲学的でありつつ詩的な比喩で埋め尽くされた、壮麗と言っていい文体である。そして全体としては何言ってるのか分からないが、断片的に現れる宗教的かつシュルレアリスティックなイメージ、たとえば石が生きているとか、ヘリオガバルスの名前に取り込まれている魔術的な意味の数々とか、そういう部分はかなり面白かった。チクチクと想像力を刺激してくる。それに書いていることがまともではなく男根切除だの太陽信仰だの祭儀だの、しかもアルトーはそれを学術的客観的に眺めるのでなく自らのめりこんで書いているので、古代ローマの強烈なエキゾチズムというか、人が神であった時代の戦慄は頭がくらくらするほどに充満している。
そして本書はヘリオガバルスが惨殺される場面で幕を下ろすが、この最後のシーンだけは強烈な叙事詩的昂揚を見せる。で、まるで斧でぶった切るように唐突に終わる。相当に変わった書物であることは間違いない。シュルレアリスムが好きな人なら多分いけると思うが、ストーリーや感情移入できるキャラクターがないと駄目な人にはお薦めしない。
昔半分ぐらい読んで放り出していたのを今度は完読。例によって私が持っているのは安価な白水uブックスであって写真のものではない。
はっきり言って、何言ってるんだかよく分からない本である。昔挫折したのもそのためだ。訳者の多田智満子氏はあとがきで「この作品はいわゆる評論とはいえないし、伝記小説のジャンルからもはみ出る。いっそ一種の哲学詩と称すべきかもしれない」と書いているが、確かにそうだ。物語的な筋がなく、作者の考察ばかりがつらつら続くのは哲学だろうし、論考というにはあまりに感覚的な比喩が縦横に駆使されているところは明らかに詩の領分だろう。ヘリオガバルスという古代の少年皇帝を題材にその二つがミックスされているという、これはそういう本である。
ちなみに巖谷國士は解説でスーザン・ソンタグの言葉を引用しながら、アルトーは「いわば本質的に解読不能であるがゆえに知的古典となる」数少ない極端な作家たちの、もっとも現代的な一例かもしれない、と書いている。どうやら誰が読んでも分からない作家らしい。
それから多田智満子氏が言うように、ヘリオガバルスについてすでにある程度の知識を持っている読者を想定してあるので、「ヘリオガバルスのことならおれに任せておけ」という日本では奇特と思われる読者を除いて、巻末に収録されている多田智満子氏の「シリアの公女たち」を読んでから本文に取りかかった方がいい。多少なりとも分かりやすくなる。
先に書いたようにこれは哲学詩なので、物語的な場面というものがあまりない。一応ヘリオガバルスが皇帝になった経緯やその時の戦争などは描写されるが、主人公であるはずのヘリオガバルスの言動が生き生きと目に見えるように描かれるシーンなど全然なく、ヘリオガバルスがどんな人物だったのかというイメージを掴むことすらほとんどできない。これには驚いた。14歳で皇帝となり18歳で殺されるまでローマに君臨し、暴虐と性的倒錯の限りを尽くした美貌の少年皇帝ヘリオガバルスはそれだけで想像力をかき立てる存在だが、そういう古代ローマの異国趣味溢れる物語を期待すると肩透かしを食らう。その代わり原理と精神がどうとか、男根切除が云々とか、太陽信仰がどうしたとかそういう宗教的哲学的記述で埋め尽くされている。しかも意味がよく分からない。
じゃまったく面白くなかったのかというとそうでもなく、意外と愉しめた。まず、やはり文章はすごい。哲学的でありつつ詩的な比喩で埋め尽くされた、壮麗と言っていい文体である。そして全体としては何言ってるのか分からないが、断片的に現れる宗教的かつシュルレアリスティックなイメージ、たとえば石が生きているとか、ヘリオガバルスの名前に取り込まれている魔術的な意味の数々とか、そういう部分はかなり面白かった。チクチクと想像力を刺激してくる。それに書いていることがまともではなく男根切除だの太陽信仰だの祭儀だの、しかもアルトーはそれを学術的客観的に眺めるのでなく自らのめりこんで書いているので、古代ローマの強烈なエキゾチズムというか、人が神であった時代の戦慄は頭がくらくらするほどに充満している。
そして本書はヘリオガバルスが惨殺される場面で幕を下ろすが、この最後のシーンだけは強烈な叙事詩的昂揚を見せる。で、まるで斧でぶった切るように唐突に終わる。相当に変わった書物であることは間違いない。シュルレアリスムが好きな人なら多分いけると思うが、ストーリーや感情移入できるキャラクターがないと駄目な人にはお薦めしない。
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