(前回からの続き)
こうして、「おれの人生に足りないものは何もない」と豪語していたジャックが、ケイトや子供たちや友人たちとの(お世辞にもリッチとは言えない)暮らしの中で、本当の愛情や人間関係を学んでいく。そして再びドン・チードルが彼の人生に介入してきた時、ジャックはもう元の人生には戻りたくないと言う。が、夢の時間には避けがたく終わりがやってくる。必死の抵抗も空しく、ジャックは否応なしに元の人生へと送り返される。ケイトもアニーもジョシュもいない、たったひとりのペントハウスで彼は目覚める。その日はクリスマスの朝である。あのニュージャージーの日々は、ただ一夜の夢だったのだろうか?
しかしいずれにしろ、かつてあれほど必死に取り戻そうとした人生はもはや彼にとって灰色にしか見えない。ジャックは十数年前に別れたケイト、現実世界にいるケイトに会いにいく。いまだ独身のケイトはとっくにジャックのことは忘れ、バリバリのキャリアウーマンになっていて、仕事でパリに赴任しようとしていた。どうしても諦めきれないジャックは、空港まで彼女を追っていく。
そして、旅立とうとするケイトにジャックが空港で懇願するクライマックス・シーン。ケイトは、大昔に別れたジャックが突然よりを戻そうと迫ってくることに困惑顔だ(そりゃそうだろう)。が、ジャックは衆人環視の中で恥も外聞もなく、一世一代の告白をする。彼は「あれはただクリスマスに見た夢だったのかも知れないけど」と言いつつ、ニュージャージーの家のこと、アニーのこと、赤ん坊ジョシュのことを切々と語る。「ジョシュはまだ喋れない。でも僕たちは彼の表情を見て、彼がこの世界について何か新しいものを発見しつつあることを知るんだ。それはまるで、奇跡を見ているみたいな感じなんだよ」そして、だからもう一度だけチャンスをくれ、ほんの少しの時間でいいからと、必死に訴える。この時、ジャックの頭の中にもはやフェラーリ、高級スーツ、ペントハウスは存在しない。
ラストシーンはほろ苦い。もしかしたらこの後、二人には未来があるのかも知れないし、ないのかも知れない(それは誰にも分らない)。しかしたとえ二人がまた一緒になったとしても、ニュージャージーに住んでいたあの家族、あの夢の時間が戻ることはない。できるのは、次善の策としての修復のみだ。もしかしたら二人の人生にあり得たかも知れないあの家族は、失われ、決して取り戻すことはできないのである。これが時間というものの残酷性だ。人生の選択とはすべからく取返しのつかないものであり、そこに人生の根源的な哀しみがある。この映画はフェアリー・テイルであるけれども確実にその一点に触れており、だからこそ感動的なのだと思う。
更に言うならば、この映画はフェアリー・テイルであり、ジャックの成長譚であり、当然ながらすべての人々に教訓をもたらすクリスマス映画としての表の顔を持っていて、フェラーリ、高級スーツ、ペントハウスに憧れるすべての観客に「あなたはそんなものよりもっともっと素晴らしい宝物に恵まれていることに気づいていますか?」と問いかけてくる、そしてそれをかなりうまくやっていると思うが、実はその下に、すべての人の心の奥底に秘められた禁断の願望を刺激する裏の顔を持っているように思う。それは何かというと、過去への憧憬、ひいては、選択しなかった「もうひとつの人生」への憧憬である。
人は選択しなかった人生を振り捨てて前に進んでいくが、実は捨て去ったはずの人生の幻が心のどこかに残っていて、時折、もしあの時こうしていたら…と考え、その幻の人生にひそかな憧れとノスタルジーを抱くものではないだろうか。こういう思いは一般に後ろ向きで非建設的とされる(「たらればを言ってもしょうがない」)し、今の人生を構成するもろもろのもの(家族や、友人たちや、仕事など)に対して失礼だと言われても仕方がないが、しかしこうした「実現しなかった人生」への憧憬は、人間の避けられない条件の一つだと私は思う。そしてそういう思いは決してムダではなく、人生を情緒的にし、人の心を豊かにするものだと信じている。
この映画はそんな、「実現しなかった人生」の遠いこだまであり、私たちが通り過ぎてきた過去から呼び声である。ジャックとケイトのイフの物語は、もはや死んでしまった過去に対して私たちが抱くどこか後ろめたい憧憬を、最大限に拡大し、スクリーン上に万華鏡の如く繰り広げて見せる。この映画のやるせない甘美さは、間違いなくそこに起因している。ジャックが空港に駆けつけ、必死にケイトの姿を探す時、彼の耳が聞いているのは過去からの呼び声である。過去とはそれほどまでに魅惑的で、甘美で、抗いがたいものなのだ。あなた、そうは思いませんか?
ところで、ジャックが一時的に入り込んだもう一つの人生は、ケイトからの伝言が刺激となって見た単なる夢だったのだろうか、それとも本当にドン・チードルの天使が見せた奇跡だったのだろうか。その答えは、この映画の中にはない。それでいいのだ。その二つは同じものなのだから。
空港で始まり空港で終わるシンメトリックな構成も悪くない。ニコラス・ケイジはおかしくてかっこよくて感動的な、キャリア中ベストといえるキャラクター造形だと思う(彼の映画を全部は見ていないが、多分そうだ)。ケイトを演じたティア・レオーニもとてもいい。こんな奥さんならオレもがんばってタイヤ売るぜ、という気になるだろう。しかしなんといっても、この映画の最大の萌えポイントはアニーである。反則的なまでにかわいい。それをまた、あざといスタッフが最大限に利用してくるからたまらん。ジャックが本当の父親じゃないと知った時の泣きそうな顔、泣くのを我慢してジャックに言う「地球へようこそ」、口のまわりについたチョコレートミルク、下手くそなバイオリン。もう、どれをとっても萌え死ぬレベルである。
しかしまあ、ありきたりと言えばありきたりなストーリーかも知れない。斬新なプロットや芸術的映像はどこにもない。これはあくまでハリウッド流のエンタメ作品であって、フェリーニやヴィスコンティや黒澤ではない。が、もしもこういう映画がきれいさっぱりなくなってしまったら、この世界はどれほど寂しい場所になってしまうことだろう。こういう、ほっこりさせて、笑わせて、ごく当たり前のことでじわっと感動させてくれるフツーの娯楽映画が、私は大好きである。
こうして、「おれの人生に足りないものは何もない」と豪語していたジャックが、ケイトや子供たちや友人たちとの(お世辞にもリッチとは言えない)暮らしの中で、本当の愛情や人間関係を学んでいく。そして再びドン・チードルが彼の人生に介入してきた時、ジャックはもう元の人生には戻りたくないと言う。が、夢の時間には避けがたく終わりがやってくる。必死の抵抗も空しく、ジャックは否応なしに元の人生へと送り返される。ケイトもアニーもジョシュもいない、たったひとりのペントハウスで彼は目覚める。その日はクリスマスの朝である。あのニュージャージーの日々は、ただ一夜の夢だったのだろうか?
しかしいずれにしろ、かつてあれほど必死に取り戻そうとした人生はもはや彼にとって灰色にしか見えない。ジャックは十数年前に別れたケイト、現実世界にいるケイトに会いにいく。いまだ独身のケイトはとっくにジャックのことは忘れ、バリバリのキャリアウーマンになっていて、仕事でパリに赴任しようとしていた。どうしても諦めきれないジャックは、空港まで彼女を追っていく。
そして、旅立とうとするケイトにジャックが空港で懇願するクライマックス・シーン。ケイトは、大昔に別れたジャックが突然よりを戻そうと迫ってくることに困惑顔だ(そりゃそうだろう)。が、ジャックは衆人環視の中で恥も外聞もなく、一世一代の告白をする。彼は「あれはただクリスマスに見た夢だったのかも知れないけど」と言いつつ、ニュージャージーの家のこと、アニーのこと、赤ん坊ジョシュのことを切々と語る。「ジョシュはまだ喋れない。でも僕たちは彼の表情を見て、彼がこの世界について何か新しいものを発見しつつあることを知るんだ。それはまるで、奇跡を見ているみたいな感じなんだよ」そして、だからもう一度だけチャンスをくれ、ほんの少しの時間でいいからと、必死に訴える。この時、ジャックの頭の中にもはやフェラーリ、高級スーツ、ペントハウスは存在しない。
ラストシーンはほろ苦い。もしかしたらこの後、二人には未来があるのかも知れないし、ないのかも知れない(それは誰にも分らない)。しかしたとえ二人がまた一緒になったとしても、ニュージャージーに住んでいたあの家族、あの夢の時間が戻ることはない。できるのは、次善の策としての修復のみだ。もしかしたら二人の人生にあり得たかも知れないあの家族は、失われ、決して取り戻すことはできないのである。これが時間というものの残酷性だ。人生の選択とはすべからく取返しのつかないものであり、そこに人生の根源的な哀しみがある。この映画はフェアリー・テイルであるけれども確実にその一点に触れており、だからこそ感動的なのだと思う。
更に言うならば、この映画はフェアリー・テイルであり、ジャックの成長譚であり、当然ながらすべての人々に教訓をもたらすクリスマス映画としての表の顔を持っていて、フェラーリ、高級スーツ、ペントハウスに憧れるすべての観客に「あなたはそんなものよりもっともっと素晴らしい宝物に恵まれていることに気づいていますか?」と問いかけてくる、そしてそれをかなりうまくやっていると思うが、実はその下に、すべての人の心の奥底に秘められた禁断の願望を刺激する裏の顔を持っているように思う。それは何かというと、過去への憧憬、ひいては、選択しなかった「もうひとつの人生」への憧憬である。
人は選択しなかった人生を振り捨てて前に進んでいくが、実は捨て去ったはずの人生の幻が心のどこかに残っていて、時折、もしあの時こうしていたら…と考え、その幻の人生にひそかな憧れとノスタルジーを抱くものではないだろうか。こういう思いは一般に後ろ向きで非建設的とされる(「たらればを言ってもしょうがない」)し、今の人生を構成するもろもろのもの(家族や、友人たちや、仕事など)に対して失礼だと言われても仕方がないが、しかしこうした「実現しなかった人生」への憧憬は、人間の避けられない条件の一つだと私は思う。そしてそういう思いは決してムダではなく、人生を情緒的にし、人の心を豊かにするものだと信じている。
この映画はそんな、「実現しなかった人生」の遠いこだまであり、私たちが通り過ぎてきた過去から呼び声である。ジャックとケイトのイフの物語は、もはや死んでしまった過去に対して私たちが抱くどこか後ろめたい憧憬を、最大限に拡大し、スクリーン上に万華鏡の如く繰り広げて見せる。この映画のやるせない甘美さは、間違いなくそこに起因している。ジャックが空港に駆けつけ、必死にケイトの姿を探す時、彼の耳が聞いているのは過去からの呼び声である。過去とはそれほどまでに魅惑的で、甘美で、抗いがたいものなのだ。あなた、そうは思いませんか?
ところで、ジャックが一時的に入り込んだもう一つの人生は、ケイトからの伝言が刺激となって見た単なる夢だったのだろうか、それとも本当にドン・チードルの天使が見せた奇跡だったのだろうか。その答えは、この映画の中にはない。それでいいのだ。その二つは同じものなのだから。
空港で始まり空港で終わるシンメトリックな構成も悪くない。ニコラス・ケイジはおかしくてかっこよくて感動的な、キャリア中ベストといえるキャラクター造形だと思う(彼の映画を全部は見ていないが、多分そうだ)。ケイトを演じたティア・レオーニもとてもいい。こんな奥さんならオレもがんばってタイヤ売るぜ、という気になるだろう。しかしなんといっても、この映画の最大の萌えポイントはアニーである。反則的なまでにかわいい。それをまた、あざといスタッフが最大限に利用してくるからたまらん。ジャックが本当の父親じゃないと知った時の泣きそうな顔、泣くのを我慢してジャックに言う「地球へようこそ」、口のまわりについたチョコレートミルク、下手くそなバイオリン。もう、どれをとっても萌え死ぬレベルである。
しかしまあ、ありきたりと言えばありきたりなストーリーかも知れない。斬新なプロットや芸術的映像はどこにもない。これはあくまでハリウッド流のエンタメ作品であって、フェリーニやヴィスコンティや黒澤ではない。が、もしもこういう映画がきれいさっぱりなくなってしまったら、この世界はどれほど寂しい場所になってしまうことだろう。こういう、ほっこりさせて、笑わせて、ごく当たり前のことでじわっと感動させてくれるフツーの娯楽映画が、私は大好きである。
そうでなければ過去に捨てられたみすぼらしい姿の男性の訳のわからない言葉を聞いて、乗る予定の飛行機をキャンセルしてまで話を聞こうとしないと思います。