『十二人の怒れる男』 シドニー・ルメット監督 ☆☆☆☆☆
DVDで再見。数限りなく観ているが何度観ても面白い。大傑作である。一種の変則的な法廷もので、陪審員が別室に入って出てくるまでを描いた密室劇。部屋の中で12人が議論しているだけ。なのにこれが滅法面白い。推理ドラマの面白さと、濃密な芝居による人間ドラマの面白さをたっぷり堪能できる。
最初はほぼ全員が「有罪に決まってるよね、チャッチャッとすませちゃいましょう」的ムードの中、ヘンリー・フォンダだけが無罪に投票する。最初は彼も「まだ18歳だし、可哀想な環境で育った少年じゃないか」なんて情状酌量を訴えているが、凶器、目撃者の証言の信憑性など、だんだん話はロジカルに緻密になっていき、ミステリ的興味が盛り上がり、緊迫感を増していく。裁判で提出された証拠の数々が理解しやすくスムーズに呈示されるあたり、練りに練られた脚本の巧みさを感じさせる。特に女性の「見た」証言と老人の「聞いた」証言で、単独だと分からないが組み合わせるとおかしくなってくる、というくだりはクレバーで感心した。それから外国人の時計職人が指摘する、ナイフの指紋とパニックについての疑問もなかなかいい。コロンボが好きな人はこういうの好きだろう。
それから忘れちゃいけないのが、この個性豊かな12人のぶつかり合いである。とにかくみんなキャラ立ちまくり。うるさい奴、短気な奴、いい加減な奴、理知的な奴、おとなしい奴、とぼけた奴などさまざま。話の中でちょっとずつ明かされるそれぞれの職業が、なんとなくマッチして思えるのがまた楽しい。ヘンリー・フォンダの「建築家」も雰囲気あるが、個人的に「ほお~」と思えたのが外国人の「時計職人」。言われりゃそんな感じだ。
私のお気に入りキャラクターは、あのやたらロジカルな株式仲買人(E・G・マーシャル)と、最後まで有罪に固執する短気な男(リー・J・コッブ)である。マーシャルは偏見に満ちたヒールが多い有罪派の中で唯一理論的な男で、もし彼がいなかったら有罪派はほとんどならず者集団である。彼の論旨は明快で聞いていて気持ちよく、偏見に満ちたスピーチをぶつエド・ベグリーに冷たく「話は聞いた。じゃ座って、二度と口を開くな」と言い放つシーンは爽快だ。そして有罪派の中でもいちばん短気な男、リー・J・コッブ。もう最高。最後、有罪派が彼一人になってやけくその演説をぶつシーンは渾身の演技で、見ごたえ抜群、爆笑度も抜群である。ほれぼれしてしまう。あそここそがこの映画のクライマックスであることを考えると、彼の重要性がわかるだろう。この映画のキーパーソンである。
ところでこの映画、「ほとんど全員有罪」からヘンリー・フォンダひとりのせいで「全員無罪」にひっくり返ってしまうことから、ディベートのうさんくささを指摘する人もいる。同じように「無罪」が「有罪」にされてしまう危険性もあるじゃないかというわけだ。一般論としては一理あるが、この映画の場合単にヘンリー・フォンダがディベート上手で他の人間を丸め込んだという話ではないので、そこは確認しておきたい。最初みんなが有罪に投票するのは偏見から、早く終わらせたいから、なんとなくそんな気がするから、他の人につられて、などずいぶんと無責任な態度から出ている。フォンダはその中で「自分達の判断に人の命がかかっているんだ、だから真剣に考えようじゃないか」という主張をまずするのであって、つまり、たったひとり陪審員としての責任を自覚した存在なのである。これに感化されて他の連中も真剣に考え始め、「なんとなく有罪」「パスしていい?」なんて言ってた連中がだんだん変わっていく。単にディベート云々でなく、他人の運命を握っていることの自覚と責任感を訴えているのである。
ずっと同じ室内ということで飽きさせないように、構図や照明など映像にも凝っている。12人の位置関係が非常に象徴的に使われて効果を上げているし、猛暑だったり土砂降りの雨が振ってきたり暗くなったりと、画面の変化も楽しめる。古いモノクロ映画で密室劇ということで躊躇している人がいたら、退屈する心配はいりませんと言っておきましょう。
DVDで再見。数限りなく観ているが何度観ても面白い。大傑作である。一種の変則的な法廷もので、陪審員が別室に入って出てくるまでを描いた密室劇。部屋の中で12人が議論しているだけ。なのにこれが滅法面白い。推理ドラマの面白さと、濃密な芝居による人間ドラマの面白さをたっぷり堪能できる。
最初はほぼ全員が「有罪に決まってるよね、チャッチャッとすませちゃいましょう」的ムードの中、ヘンリー・フォンダだけが無罪に投票する。最初は彼も「まだ18歳だし、可哀想な環境で育った少年じゃないか」なんて情状酌量を訴えているが、凶器、目撃者の証言の信憑性など、だんだん話はロジカルに緻密になっていき、ミステリ的興味が盛り上がり、緊迫感を増していく。裁判で提出された証拠の数々が理解しやすくスムーズに呈示されるあたり、練りに練られた脚本の巧みさを感じさせる。特に女性の「見た」証言と老人の「聞いた」証言で、単独だと分からないが組み合わせるとおかしくなってくる、というくだりはクレバーで感心した。それから外国人の時計職人が指摘する、ナイフの指紋とパニックについての疑問もなかなかいい。コロンボが好きな人はこういうの好きだろう。
それから忘れちゃいけないのが、この個性豊かな12人のぶつかり合いである。とにかくみんなキャラ立ちまくり。うるさい奴、短気な奴、いい加減な奴、理知的な奴、おとなしい奴、とぼけた奴などさまざま。話の中でちょっとずつ明かされるそれぞれの職業が、なんとなくマッチして思えるのがまた楽しい。ヘンリー・フォンダの「建築家」も雰囲気あるが、個人的に「ほお~」と思えたのが外国人の「時計職人」。言われりゃそんな感じだ。
私のお気に入りキャラクターは、あのやたらロジカルな株式仲買人(E・G・マーシャル)と、最後まで有罪に固執する短気な男(リー・J・コッブ)である。マーシャルは偏見に満ちたヒールが多い有罪派の中で唯一理論的な男で、もし彼がいなかったら有罪派はほとんどならず者集団である。彼の論旨は明快で聞いていて気持ちよく、偏見に満ちたスピーチをぶつエド・ベグリーに冷たく「話は聞いた。じゃ座って、二度と口を開くな」と言い放つシーンは爽快だ。そして有罪派の中でもいちばん短気な男、リー・J・コッブ。もう最高。最後、有罪派が彼一人になってやけくその演説をぶつシーンは渾身の演技で、見ごたえ抜群、爆笑度も抜群である。ほれぼれしてしまう。あそここそがこの映画のクライマックスであることを考えると、彼の重要性がわかるだろう。この映画のキーパーソンである。
ところでこの映画、「ほとんど全員有罪」からヘンリー・フォンダひとりのせいで「全員無罪」にひっくり返ってしまうことから、ディベートのうさんくささを指摘する人もいる。同じように「無罪」が「有罪」にされてしまう危険性もあるじゃないかというわけだ。一般論としては一理あるが、この映画の場合単にヘンリー・フォンダがディベート上手で他の人間を丸め込んだという話ではないので、そこは確認しておきたい。最初みんなが有罪に投票するのは偏見から、早く終わらせたいから、なんとなくそんな気がするから、他の人につられて、などずいぶんと無責任な態度から出ている。フォンダはその中で「自分達の判断に人の命がかかっているんだ、だから真剣に考えようじゃないか」という主張をまずするのであって、つまり、たったひとり陪審員としての責任を自覚した存在なのである。これに感化されて他の連中も真剣に考え始め、「なんとなく有罪」「パスしていい?」なんて言ってた連中がだんだん変わっていく。単にディベート云々でなく、他人の運命を握っていることの自覚と責任感を訴えているのである。
ずっと同じ室内ということで飽きさせないように、構図や照明など映像にも凝っている。12人の位置関係が非常に象徴的に使われて効果を上げているし、猛暑だったり土砂降りの雨が振ってきたり暗くなったりと、画面の変化も楽しめる。古いモノクロ映画で密室劇ということで躊躇している人がいたら、退屈する心配はいりませんと言っておきましょう。
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