崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

羅南女学生であった

2014年03月25日 05時09分29秒 | エッセイ
昨日は朝鮮半島からの引き揚げ者、羅南生まれ拓殖恭子氏(82歳)と会った。彼女は川嶋氏が下関で講演した時に「朝日新聞」の記事を読んで、新聞社、大学に連絡をしてくださり、家内が仲を取り持ち、川島氏と電話通話ができたことからのが縁で会うことができた。終戦時咸鏡北道羅南高等女学校2年生、川嶋氏のようには詳しく記憶していないという。川嶋氏が書いている「羅南には竹林はなかった」ので彼女の本には違和感を感じ、途中で読むのを止めたとのことである。彼女は小説を証言として読んで、記憶の差を感じるという。引きあげの話は体験してない人には理解してもらえないのでしたくないといいながら数か月間かかって束草を経由して日本に引き揚げた話をしててくださった。
 父親は静岡のお寺の息子、神田で薬局に勤めて、1923年関東大地震の直後朝鮮に渡った。薬剤師として薬局をしていた。医者であった父の兄の息子と川嶋氏の兄が親友であった。従兄の医科生が溺死した時、川嶋氏が探し歩いたとか、提灯をつけたとか、その時の話が川嶋氏との電話で話題になり、泣いてしまったという。その従兄の妹と恭子氏は親しい。その彼女と川嶋さんが親しかったという。その彼女は最近亡くなられて残念ながら川嶋氏と会うことはできなかった。川嶋氏より彼女が2歳上であって、直接は知らなくともそのように近い関係であったことを話した。羅南には軍師団司令部があって、日本人が多く住んでいた。女学校であったので標準語で教育された。家政の裁縫なども習った。生け花の科目はなかったが、花屋はあったという。花屋があったという証言は初めて聞いた。
 8月9日清津にソ連軍による艦砲射撃があって避難した。日本のお金は無効になり、軍票を使い、坊主頭になって引き揚げてきたという。ソ連軍は噂の通り囚人による軍のようで乱暴な軍人であった。釜山から日本に引き揚げても栄養失調で髪が伸びなくて、男と思われたという。「その時の話はしたくない」。福岡で看護婦の免許をとって看護婦を務め、結婚して夫の職場の下関に長く住んでいる。
 羅南での生活レベルは日本より高く、標準語を使っていたとのこと。韓国は懐かしく思い、韓国語も学んでいる。その時朝鮮の友人の松原氏はほんとうに親切にしてくれた。今どうしているのか会ってみたい。当時の同級生、同窓生がマリンホテルで300数十人が集まったこともあったとのこと。北朝鮮行きは費用が高いので韓国の束草には行ってみたい。冬のソナタ旅行として春川に行ったことがある。韓国には友達もおり、大好きだという。