崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

翻訳作業は人生、そのもの

2014年03月20日 05時45分18秒 | エッセイ
毎週行っている読書会で目下読んでいるのは「慰安所帳場の日記」である。日記を書いた人は韓国人であり、日本語と韓国語の混合文であるので日本語訳が難しい。一〇里、二〇里は基本的に翻訳が間違いやすい。シンガポールの市内で「二〇里」と書かれたところでは日本語で表記したのか韓国語なのか戸惑う。日本語では1里が4キロで20里は80キロになるり、シンガポールをはるかに越える距離である。韓国語では10里が4キロであるので20里は8キロであり、この文脈では8キロが正解である。
 もっとも訳しにくい言葉は「놀다(遊ぶ)」である。帳場の日記を書いた人はほぼ日常的に「慰安所(遊郭)で遊ぶ」という言葉を多い書き残している。この言葉をそのまま日本語に訳すると変になる。韓国語のその語の意味は広い。韓国語では「노는 날(休日) 「노는 사람(職がない人)」は日本語とは文脈上異なることが多い。原文を忠実に訳した直訳は間違いやすい。意訳しなければならないというのが私の持論である。人の言葉を聞く時もそうである。韓国では老人が怒り、叱ることが多いが、後日それが愛情と分かるのが常である。逆に日本人の誉め言葉は怖い。「誉め殺し」という言葉があるくらいである。翻訳作業は人生、そのものである。