崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

東京大学コリア・コロキュアムでの講義録(要約)

2015年07月22日 03時47分01秒 | 旅行
今週の土曜日25日にいよいよ朴裕河氏の講演「慰安婦問題」を行います。参加者は私が去年東京大学大学で講演した慰安所日記の講演録と合わせて聞いて下されば幸いである。

東京大学第二回のコリア・コロキュアムで講義録

司会:
慰安婦帳場人の日記を読んで』というテーマで昨今にぎわっているいわゆる慰安婦問題について人類学者でいらっしゃいます崔吉城先生がどういう風に考えられているのかということをお聞かせ願いたいと思っております。
私:
今日は日韓関係の悪さに乗るのではなく、最近私の読書会で読んだ本の話をしようと思います。韓国では今我々が書くような日記を書く習慣はありませんでした。日本の影響を受けて近代になってから現れたものであり、しかも書かれた日記も多くありません。今日ここで紹介する日記は慰安所に直接関係した帳場人のものですので、慰安婦関係の本としては非常に貴重な資料だと思います。1943年から1944年の2冊は慰安所管理人としての日記です。日記はハングルと日本語の漢字やひらがな、カタカナ混じりで私のような立場の者が翻訳しやすいのではないかと思います。なぜなら当時植民地教育を受けたとしても彼の日本語の使い方は私が使う日本語と似ているからです。濁音や長音などが私とほぼ同様に間違っているところが多いのです。その時に日本語を習っても、日本語のレベルは私よりはちょっと上かもしれませんが、基本的な日本語の間違いは私と同じであることが分かりました。
また日本語と一番異なる部分は距離の単位です。日本では「一里」「4キロ」、朝鮮ではその10分の1です。日記ではいろいろなところで混同し、間違いが出ており、時には日本式、時には韓国式で書いています。彼は日本帝国に忠誠を尽くした人だと言えます。日記は万年筆で書いたので、インクが薄くなったりしています。毎日書いたのか2,3日まとめて書いたのでしょうか。色は鮮明ではないですが、青色です。漢字とハングルと混合して書いていますが、日本語の固有名詞などはほぼ例外なく日本語の片仮名を使っています。朝鮮人たちは全員創氏改名で書いてあり、朝鮮人同士では朝鮮語、日本人とは日本語を使っていたようです。彼が乗った軍用船の名前を「○○」と伏せています。その○○という部分を伏せているのは、もしかしたら読まれることを恐れたのではないでしょうか。この日記から戦地の慰安所で稼いだ様子、戦争もお金の力でやっていたように感じます。3万2千円を本国の実家へ送金、今のレートでは低く見積もっても1000倍、ある方は3000倍から5000倍、つまり3万2千円というのは今のお金で3000万円か、5000万円ぐらいということになります。一つの慰安所でこういうようなやりとりがあって、銀行も数多くあるし、そのような慰安所がアキャブだけで36か所あったわけですから、どれくらいのお金がその地域で動いたのかが想像できます。
 釜山から船に乗ってビルマへ、インドと国境の地、アキャブという大変激しい戦地でも、慰安所がおそらく30軒ほどあったようです。車で高さ3050メートルの険しいアラカン山を越えていく過程がきちんと書かれています。そこからラングーン、シンガポールなどへ移りながら慰安業を営んでいて、その人間関係のネットワークはインドネシアやボルネオなどまで広がっていました。当時朝鮮人たちは東チーモル地方まで人が往来しながら女性を連れて行って慰安業を行ったことがわかります。マレーシアで食堂をやった人が料理店をはじめ陶器屋、餅屋、お菓子屋などの商売をし、その国の人も巻き込んで、牧場や農園などの開発まで、あらゆるところに商売を広げていったということがわかります。
 彼は慰安業を恥ずかしい商売とは思っていなかったようです。彼は日本の記念日などには慰安婦たちと積極的に公の行事に参加しました。人に誘われてビルマ人の遊郭に遊びに行ったのですが、つい怖くなって戻ったなど、そのまま帰ったのはちょっとビルマ人の遊郭は自分たちの慰安所とは違うという意識を持っていたようです。彼は教養のある人です。博物館とか映画をしょっちゅう見ていました。多いときは週に2回。あちらこちらの劇場で日本のニュースや舞踊なども観光を勉強と兼ねて行っています。一方では占いをしてもらったこともあります。
 移動する時に証明書を持って、軍施設を利用したということは注目すべきです。自動車とか、軍の施設を利用するということはどういうことだろうか。軍との密接な関係があったのではないだろうか。しかしなぜいちいち許可申請をしたのだろうか、軍人ではなかったからでしょう。軍人であればおそらくそこまではしないだろうとも思われます。軍の施設に便乗した記述が多いので、正式には軍人とか軍属ではなかったと思われます。そうだとすると、軍隊なら泊まるところが決まっているはずなのに、彼には決まった場所はなかったのです。ある個人の家を借りて使うとか、基本的には月にいくらというように支払って、食事も買って食べていたので、移動とか宿舎などを含めて考えると、彼は軍人でもないし、軍属でもなかったことは確かです。
 シンガポールの慰安所の菊水倶楽部は都会の真ん中にあるのです。都市の真ん中に慰安所がありました。軍人が訪ねて来るようになっていたようでした。経営者たちは慰安所を売買したりしました。どこの家にするか、保証金を払って、毎月いくらとかで借家にしたり買ったり売ったりしたので、基本的に売買によって慰安所が設立されたのは間違いありません。ただ軍の兵站から慰安所を移動させなさいという命令が来たことです。結局慰安婦たちが反対して、すぐには移動しませんでした。慰安婦を性奴隷にしたのか、そうではなかったのか、移動はどうしたのかなど気になる部分があります。 
 収入が最高記録の日だと喜んでいます。「軍人がいなければ退屈でしょうがない」という慰安婦もいました。彼女らは一人一人がお金をもらっており、韓国に送り、確認の電報を受けとっていました。慰安婦の生活はどうかというと、結婚していったん離れても戻されたりした人もいますが、そのまま家庭に入った人もいて、全体としては割と自由で、映画館に行ったりもしていたことが日記に書かれています。日本の占領地だったので、軍隊との関係は、軍政の時で、軍がコンドームを配ったりしていて、健康、衛生管理という点では軍が経営していたと言えるかどうかが非常に難しいところですが、これを読んでいると、基本的には軍が治安など、全体を担当しているので、そこに行くために入国許可証など色々なものが必要あり、基本的には一般人と軍との協力関係にあったのではないかと思われます
司会:
帳場人や似た人物が書いている日記であれば、それは大変重要な資料であることは事実だと思います。質問をなさる方は御所属とお名前をお願いします。
質問者1:
私はエッセイストなんですが、今日のお話の中で、日記の題名に慰安所という名前がつけてあります。しかし、ここで働いている女性たちはこのいただいた資料の中では、酌婦とかあるいは慰安婦、それからもう一つ「稼業婦」と呼ばれており、問題となっている慰安婦というのは、この日記から…慰安婦との違いは、
私:
酌婦というのが、警察に出す文書では「稼業婦」と「稼営業婦」となっています。売春婦という言葉は使っていないですね。全体としては、強制性のある慰安婦とは全く感じられませんね。日記には一つも強制して連れて行ったという文脈はないですね。
質問者2:
朝日新聞の桜井です。今の話と関係しますが、韓国ではこの日記ですね、日本軍による朝鮮人の強制動員の決定的資料だとされており、今も出ていましたが、この日記には募集の過程がない。そうすると韓国ではどの部分が決定的な資料なんですか。
先生:
韓国語の裏表紙に書いてあります。「戦時動員の一環として組織的に行った」という内容の文です。この部分は安氏が何を根拠にして書いたかわからないです。
質問者2:
要するに、安先生の序文には書いてあるけれども日記からは読み取れないということですか。
私:
裏表紙には第四次募集団の募集は軍の指示に従って強制連行したのではないかとか、軍が業者に強制して連れて行ったのではないかという文を書いています。
質問者3:
一つは、この日記の筆者は雇われているわけですよね。そういうことは、経営者とは別にいるわけですね。経営者と日記の筆者との関係とか、経営者について何かかが日記の中に出てくるのかをちょっとお尋ねしたいです。
私:
経営者の名前はだいぶ出ています。文脈から見ると、彼ら経営者は慰安所だけではなく軍事工場などにも手を出していますが、朴氏は実務をしていました。しかし朴氏は基本的には経営者にはなっていないんですよ。その慰安所の社会の中では最高の実務者だということですね。
質問者4
韓国朝鮮文化研究室の本田と申します。今の六反田さんの質問に関して、経営者というのは出資者、いわゆるスポンサーということでおっしゃっているのですか。
私:
その経営者たちは、家を買い慰安所として使い、車も買っています、そのお金がどこから来たのかはわからないです。その資本は朝鮮から持ってきたり、そこで商売したり、して儲けたものでしょうか。それ以上はわからないです。
質問者4
具体的な名前も出てくるんですか。出資者というか資本者というかオーナーの名前。
私:
オーナーの名前は出ます。夫婦であることがわかります。この日記からは朝鮮人だけで、30何か所で、大体計算して慰安婦が一ヶ所に16人から20人ぐらいいて、アキャブだけ600人から800人の女性が来ていたのではないかと思います。売春には「兵隊券」という軍票を使いました。
質問者4
「売春宿」とありますが、慰安所と違って売春宿があったということですか、慰安所というのはどういう意味で使われていますか。
私:
慰安所というのは、サービスだと言いますか、まさに「慰安」でしょう。この日記では経営者には慰安と言う意識があったようですが、基本的には実際に商売ですし、そういう意味では売春業であるといえます。補注:彼はビルマの慰安所を売春と言っていました。
質問者5:
当時解雇するような記述があるのか。そもそもこの人はどういう人なのか。どうしてビルマに行って仕事をするようになったかはその日記からわかるのか。
私:
まず朴さんという人がどういう人かというと、代書士という仕事をして、その後慰安婦の売春業を朝鮮でやっていた方です。その延長でビルマへ行ったと思われます。軍隊が彼を連れて行ったかどうかについては、この資料では直接軍が連れて行った印象は全くありません。
質問者6
神田外語大の林です。一つは女性の慰労に対してどこがお金払ったのかという記述、例えばシナ港内にも軍が来ていてという記述がありましたが、お金の移動、出どころが気になったのと、それから、私は台湾で韓国人にインタビューすることがあって女性の話にもありましたが、ケースによってはすでに両親にお金を払って娘だけを連れて来るというのは中にはあるようで、日記の中に女性を連れて来るとか、原因に関して書いてあるのかなと思って。
私:
それは韓国でも問題になりました、前借金ですね。行く前に準備金として貰って行ってから働いて返す。それが普通です。日本の映画でも前借金がよく出るんですね。親がそれを貰って娘を売ったりする。この本の解説にはその前借金があったはずだと書かれていますが、日記の文には出ていません。
質問者7
先ほど先生は韓国の日記は日本の影響で始まったとおっしゃいましたが、そういうことを評価することは韓国では問題になりませんでしたか。というのは両班あたりがかなり書いていたように私は感じていましたが。そういう意味で日本の影響でという表現でというのは韓国ではどうなのか。
私:
日本との関係で日記の書き方に注目したいです。日本植民地時代の教育によってきまったフォームに合わせて書くことを意味します。
司会
ということで時間ですが、さきほどのお話の中では、これが出版されるということで。もう一度先生に拍手を。どうもありがとうございました。

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