崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

戦争映画の意味

2014年01月18日 06時10分38秒 | エッセイ
 昨日は神戸中心広く関西地方に大きい地震が起きてから19年目の日、私はその日、広島大学に赴任する準備のために名古屋から地震現場を通過したことを思い出した。私自身は朝鮮戦争を辛く体験したが日本に30年以上住みながら大地震は経験していない。戦争は私にトラウマであり研究の志向にもなっている。戦争のドキュメンタリーや映画をよく見るのもそのためであろう。1941 年 12 月 7 日に起こった悲劇について、3 時間の長編の米国映画『パール・ハーバー』(監督マイケル・ベイ、2001)を鑑賞した。戦争映画や史劇映画はただ背景が戦争か歴史であり、単純な恋愛物語りに過ぎないものが多い。戦争の場面だけを見るためにはドキュメンタリーを見ることも多い。
 タイタニックのような巨大な悲惨さのようにこの映画でもハワイと東京、飛行機の攻撃・空襲の場面に巨大な金額を使って撮影したのは見てわかる。なぜこの物語りを表現するのに巨額の経費を費やすことなく食卓とベッドくらいがあれば作れそうであるが戦争を背景にしているのか。戦争映画についてみるなら旧日本軍の真珠湾奇襲攻撃により壊滅的打撃を受けた米国、私はずーとアメリカ側を同情、応援してみていた。それは戦争を見ているよりスポーツゲームの観戦のようなものであった。競技運動場を背景にした方が制作費が安上がりになったかもしれない。攻撃されて復讐の反撃の復讐物語りにするにはもったない。
 この映画で戦闘と戦争は何を意味すのか。志願して出るアメリカ軍人の頻繁に見るキスシーンと日本軍の真面目な忠誠愛国の対比は私の胸に響いた。なぜ巨額の製作費と最新鋭のテクノロジーを駆使して製作したかその価値が納得できた。戦争映画の古典であれば出征した夫や恋人を待つ妻や女の物語りである。しかしこの映画は戦争文化の国際的な比較ともいえる、革新的である。この映画が公開されて10年も過ぎ、評価がなされているが私はそれらと違った感想である。