崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

『見果てぬ祖国』

2014年01月21日 05時38分40秒 | エッセイ
 今日本でも韓国でも死語となったような言葉「杜門不出」を思い出す。人の出入りがない家や人を表現した言葉である。しかし子供の時に内向的だった私には親しい言葉であった。1週間でも家で本を読んでいて、母から外で遊んでくるようにとよく言われた。しかし私のその習性は長く続いて学者の道を歩むようになったのかもしれない。研究者を目指す学生にも長く座っている習性を身に着けるように話したこともある。こんな冬の寒さには「杜門不出」の日が多い。テレビから解放されて孤独なほどの時間を作り、まとまった作業をした。本も読んだ。
 フィリピンの独立運動家の医師・小説家のホセ・リサール著村上政彦氏の翻案小説『見果てぬ祖国』を読んだ。原語のスペイン語ではない英語から二つの小説を一本化したものである。スペインの300年間の植民地におけるカソリックの宗教組織や神父、修道会の弊害を告発した内容である。特にスペイン人のダマーソ神父の悪業に興味があった。「僧服を着ている神父」という表現は韓国語に直訳すると仏教の服装とカソリックの混合のように滑稽であっても日本文では可笑しくない。なにより注目したいのは西洋植民地とキリスト教の関係である。つまり植民地政策にキリスト教の宣教者が乗ったのか、植民者がキリスト教を利用したのかなど問題点があるが、フィリピンでは後者であったことが分かる。聖職者の悪業は訴え罰しにくい。彼らは信仰で偽善、逃げ道を用意しているからである。主人公のイバルラは無暴力運動によって植民と被植民を超えてヒューマニズムを主張したが、銃弾で死んだ。この本が翻案されたことには評価はいろいろであるが、私には聖書を読み直すような気分であった。この小説より著者のリサールがもっと劇的である。