崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

着色写真

2014年01月11日 04時31分01秒 | エッセイ
 下関居住の曾根崎明子氏から鉛筆と筆のおプレゼントが届いた。彼女は戦前満州映画協会に勤務した方で私にいろいろな情報を提供してくださる。私はいま彼女の自分史の原稿を読み、出版に向けて作業を進行中である。彼女は戦後満州から引き上げてから書店などを経営しながらフォトショップから依頼を受けてモノクロ写真に着色する仕事もしたと聞いた。私は古い写真に人工的に着色したものを多く目にしたので詳しく聞きたかったが実現できず今になっている。先日画伯の堀研氏からアメリカでは日本人の女性の写真は金髪にしていたという写真芸術の話を聞いて、スケッチの代わりに写真から絵を描く分野の話をしたばかりなのに曾根崎氏から着色の道具をいただいて嬉しい。これを彼女の自分史に必ず入れることとしたい。(写真は曾根崎氏と娘、1966年)
 古い写真や書籍、絵葉書などをただのカーラー写真と大間違いになる危険性がある。目下絵葉書きの出版の監修をしてるが、中には白黒写真を着色したものが多くあるので解説に戸惑っている。朝鮮総督府の庁舎のドームの色が赤や青など色色である。また20世紀初めに朝鮮を旅行したヴェーバーの紀行文の本には着色写真が多く含まれている。絵か、写真か、区別し難い。私には絵と写真の意味を深く考える機会となった。絵より写真が真実に近いと思われるが必ずしもそうではない。いわばシャッターを押す前にチーズ、キムチという掛け声に合わせ作られた表情、いわ「やらせ」とレンズの使い方により変形されるのが普通である。フィクションとノンフィクション、ドキュメンタリーと映画を区別するのは難しい。しかしどちらも真実を表現することに関しては違わない。