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一日一句(252)






火の国の焙じ茶甘し秋深む





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Cioranを読む(60)


■旧暦9月25日、金曜日、、土用入り

(写真)京都・広隆寺

このところの気温のアップダウンで、風邪気味だったが、葛根湯を飲んで早く寝るようにしていたら、だいぶ回復してきた。朝晩はすっかり晩秋の気配で肌寒い日が続いている。

いつものことだが、レクチャーの原稿作成がだいぶ、難航している。ニュートリノが光速を超えた記事に興味を惹かれて、アインシュタインの相対性理論に関連した資料を検討している。期せずして、特殊相対論の有名な方程式E=mc²は原爆・原発の生みの親である。ぼくのような、物理オンチには、相対性理論を理解するのは大変なことだが、この理論をどう考えるかについては、大変興味を惹かれる。特殊相対論について言えば、主体と客体がペアになって、相互運動(弁証法)を繰り返して、己の時空間を変化させながら、最終的に、これ以上の速度はありえないという光速、すなわち、絶対精神に到達する理論機制は、ヘーゲルの『精神の現象学』とまったく同じだと思っている。これだけでは、なにもまだ言えていない。このことが現実にどういう対応を持つのか、また、何を意味するのか、まだ、これから検討が必要。



Toute forme de progrès est une perversion, dans le sens où l'être est une perversion du non-être. Cioran Aveux et Anathèmes p. 89 Gallimard 1987

進歩はどんな形式であれ、一つの倒錯である。そもそも、存在が非在の倒錯だという意味で。

■進歩史観がいかがわしいのは、そこに流れる時間の均質さと、そこに含まれる隠微な政治支配に鈍感なゆえである。進歩に対して、なんらかの屈折した思いを持っているかいないかは、人間を判断する時の重要なメルクマールになるとぼくは思っている。この意味で、シオランは、きわめてまともだと思う。



Sound and Vision

東日本大震災 福島第一原発元モニターからの証言

※東電が地域社会と作った社会関係の皮相性と欺瞞性。













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一日一句(251)






秋蝶といへど一途や日に向ひ





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一日一句(250)






他人の顔どこか懐かし秋の暮





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一日一句(249)






支払ひと雑用ばかり暮の秋





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一日一句(248)






天心はしんとしづまる神輿かな





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一日一句(247)






凶年を生くるほかなき南瓜かな





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(15)


■旧暦9月20日、日曜日、

(写真)午後5時の後の月

今日は蒸し暑かった。夕方、神輿の掛け声がしきりに響いている。今日は秋祭らしい。そう言えば、昨日、埼玉新聞記者のSさんが、3.11以降、俳句と短歌の投稿がずいぶん減ったと話していた。確かに、ポスト3.11の状況で、自然や人間をめでる気分はなかなか起きにくい。逆に、根源的なことをもっと考えてみたい、という気分が増している。



昨日は、夕方から、「哲学塾」。この数カ月、体調不良で参加できなかったので、久しぶりに、みなさんと議論した。この会は、はじめに主宰者の社会哲学者、石塚省二先生のレクチャーが3時間あり、その後、場所を居酒屋へ移して、2時間ほど議論するのが、恒例になっている。昨日のテーマは、近代哲学のどこが新しいのか、デカルト、ホッブス、ベイコン、バークリー、スピノザ、ライプニッツをめぐって。日本語で、「近代」はmodernの訳だが、この言葉の核にはmodeがある。流行。つまり、新しいもの、という含意がある。近代哲学の系譜を形成するこれらの哲学者たちは、中世を通じて主流になっていたアリストテレスの学問を意識している。アリストテレスに対して、どこかしらみな「新しい」わけである。大枠はそんな感じで、各哲学者の議論のポイントを解説していただいたわけだが、毎回、頭の整理になる。中でも、フランシスコ・ベイコンのイドラ論は、とても興味深い。イドラ論は、イデオロギー論として、マルクスで、はじめて展開され、ルカーチやカール・マンハイムに流れ込んでいる。この問題は、現代でも、科学技術のイデオロギー性の問題として、マルクーゼやハバーマスによって、展開されている。とてもアクチュアルな問題だと思う。

後半は、ヘーゲル解釈の歴史について、レクチャーがあった。ぼくは、80年に大学に入学したのだが、80年代でも、ヘーゲルの理解は、「反動哲学者」というものだった。いわば、マルクスの敵役だった。封建的・反動的・プロイセンの御用哲学者といった解釈は、実は、スターリンの解釈が基になっている、というのを初めて知った。この解釈は、世界的には、60年代に盛んだったが、現在では、進歩的な存在論哲学者という解釈が力を持っている。この新しい解釈の系譜は、1948年のルカーチの『若きヘーゲル』が源流になっている。そののち、ジャン・イポリットやジャック・ドントなど、おもに、フランスのヘーゲル学者が、実証的に、その哲学の進歩性や存在論としての重要性を明らかにしてきている。ぼくは、なぜか、昔から、ヘーゲルが気になっていて、20年前に、岩波から新しく出た全集を揃えた。当時は、長谷川宏などの新しい翻訳は出ていなかったので、金子武蔵などの古い世代の哲学者の訳であるが、金子武蔵のヘーゲル解釈は、フランスのジャン・イポリットの影響下にあったことが、今回、わかった。

「認識論的な科学」と言うと、現代の常識では、同語反復になるが、近代の経験科学が、カント哲学の認識論的な側面で基礎づけられていることを踏まえると、「存在論的な科学」という理念があってもおかしくないと思える。デカルト-カント-ヘーゲルという近代哲学の一つの系譜について、カント後期の「判断力批判」には、後のヘーゲルにつながる存在論的な萌芽があるという先生の話を聞いて、そんなことを思った。ヘーゲルやマルクスの理論を継承すると、自然に、そうなる気もする。逆に、今までのマルクス解釈は、カント的な認識論の文脈での解釈に傾きすぎたのではあるまいか。問題の解決が新しい問題を生み出すという科学の構造が、そのままマルクス解釈に引き継がれ、旧ソ連・東欧に典型的に見られたように、疎外の克服が新しい疎外を生み出す、という事態になったのではあるまいか...。



164. Erfahrung lehrt mich freilich, wie die Rechnung ausgeht; aber damit erkenne ich sie noch nicht an. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 98 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

もちろん、経験はわたしに計算の結果を教えてくれる。だが、それだけではまだ、わたしは、その計算を承認しない。

■「論理と時間」というテーマに関心をもって、考えをまとめている。一見、対立する二つの事項の間にある内的連関はどうなっているのか。ヴィトゲンシュタインを検討してみて、「論理」は基本的に二つにわけられることがわかってきた。一つは、「数学命題」。もう一つは「経験命題」である。数学命題は、外的な条件から独立して存在するから、命題に時間は関与しない。1+1=2は今だけ、成立する命題ではない。しかし、数学命題は、一つ一つが独立して存在するのではなく、一つの系を構成している。この体系自体には、生成プロセスがある。そこに時間は関与する。経験命題は、因果を語り、関係を語り、つねに「○○と呼ぶ、○○と意味する、○○として使用する」が隠されている。経験命題は、外的な環境や条件に依存する。したがって、命題に時間が関与する。

時間は、過去・現在・未来という単線的な流れをしているが、これは、もともと、キリスト教の救済の時間の流れが、世界化したものだろう。時間の単線的な流れは、資本主義の目的合理的な行為システムによって、世界化したものとぼくは思っている。資本主義は、目的や計画を将来に投企し、労働システムをそれに応じて再編していく。時間は、このとき、未来・現在・過去の順で比重が置かれ、未来の時間が現在の中に同居する。これと並行して、過去のニュアンスが著しく平板化し、空洞化する。時間は、「言葉の使用法」が規定するので、過去のニュアンスの消滅は、「言葉の使用法」を跡づけることで、はっきり見えてくると思う。

ところで、新しい時代である「近代」は、生産様式から見れば資本主義であるが、それ以前の時代の時間感覚は、過去のニュアンスの豊かさと同時に、過去の現在への侵入があるとぼくは睨んでいる。それを跡づける面白い事例が、古代ヘブライ語である。古代ヘブライ語には、時制がない。どの事態も終了せずに現在と同居する。これは、過去・現在・未来という単線的な時間意識ではなく、歴史意識でもなく、「過去」という意識が、そもそも、ない。また、古典日本語の過去形の豊富さは、伝統社会の官僚制を背景にして構築されたもので、このとき、比重があるのは、過去と現在のつながりである。古典日本語の過去形に流れる時間は、近代の秩序づけられた単線的な未来・現在・過去の時間とは異質のものだろう。われわれが考える時間とは、実は、資本主義的な労働時間のことなのだということが、以上のことからわかるのではなかろうか。

「論理と時間」という問題は、「合理性と労働時間」の問題とも言いかえることができる。このとき、科学技術の時間支配という問題設定ができるはずである。科学技術の合理性に、そもそも、内在する、時間を再構成・支配する契機が明らかになるという意味で。時間支配は近代の時間の誕生と同時に生まれているが、後期資本主義の、時間の再構成・支配の新しい段階は、科学技術による時間の再構成・支配の強化なのだと思える。当然、時間の再構成・支配の強化は空間の再構成・支配の強化と一体である。ルカーチの言うように、空間(商品)は時間(労働時間)の凝縮したものであるから。

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一日一句(246)






祭笛ちかくてとほき音したる





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(14 )


■旧暦9月19日、土曜日、

(写真)秋の径(京都、双ヶ岡、二の丘)

雨で蒸し暑い。この頃、詩も短いものを好むようになってきた。たとえば、

Water, is taught by thirst.
Land - by the Ocean passed.
Transport - by throe -
Peace - by its battles told -
Love, by Memorial Mold -
Birds, by the Snow.

Emily Dickinson

ヘルダーリンのように、長くても、読ませる詩もあるけれど、たいていは、だらだら長いだけで、退屈なものが多い。それなら、俳句を読んだ方がいいと思ってしまうこの頃なのである。



Marcuse(1898-1979)の『ONE-DIMENSIONAL MAN』(1964)のアクチュアリティーに気がついて、読み返している。副題は、Studies in the Ideology of Advanced Industrial Societyである。フランクフルト学派の中で、フロイトにいち早く着目し、60年代、70年代、新左翼運動の理論的支柱とされてきた人物だが、今、そういった枠組みを外して、再読する時期にしているとぼくは思っている。とくに、3.11以降の状況には有効だと思う。フランクフルト学派の中では、戦後、ドイツに帰らず、めづらしく、亡命先のアメリカに帰化した人物である。その点も興味深い。ユダヤ教徒のための大学ブランダイスで1954年から1965年まで教鞭を執る。その後、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授。ブランダイスは、面白いことに、政治哲学者、マイケル・サンデルの出身校でもある。

Marcuseのテーマの一つは、科学技術の政治支配である。科学技術による政治支配ではなく、科学技術のベースになっている合理性そのものに、隠微な政治支配が隠されているというテーゼがとくに注目される。われわれは、日頃、科学技術による生産力の巨大な力の前に、科学技術の政治性を疑うことなく、それを受け入れているが、科学技術は、もはや、生産力の増大だけに寄与しているのではなく、現行体制を基礎づけ正当化している。福島原発事故を踏まえると、原発をめぐる事後的な構造的利権の存在は、いろいろなところで、明らかにされてきているが、原発という科学技術そのものに内包している政治支配力には触れられていない。もちろん、ただ、科学技術を否定しても始まらない。

ただ、現行の政治支配は、露骨な抑圧という形は取らずに、「合理的な姿」をしているという洞察には、もっと注目していいと思う。科学技術が、個人の生活を安楽なものにし、生産性と自然支配の増大に目を奪うために、科学技術に内在する抑圧(自由時間の私的性格のはく奪や原発労働に象徴されるような労働の破壊的な面など)が意識されにくくなっている。また、技術は、ある社会とその支配的利害が、人間と事物をどう扱おうと考えているがが投影されているという考え方は、原発の核燃料の制御不可能性や、事故で放出されたセシウム、ストロンチウム、プルトニウムの半減期を踏まえると、大変考えさせられるものを持っている。原発は、支配的利害のegoisticで無責任な姿を映し出す鏡の役割も果たしているのである。

しかし、こんなに高いセシウムやストロンチウムの値と長期間、共存して生活しなければならなくなった社会って、世界史上、これまであったんだろうか。しかも、プルトニウムは、大半が海へ流れたと言われている。精密な海洋調査をすべきだろう。地上観測は100キロ圏外は未測定のままである。同心円状の調査区分に意味がないことは以前からわかっていたことではなかろうか。安易な仮説や前提は排除して、広範囲で精密な核種ごとの観測システムを国と自治体は早急に構築すべきだろう。



156. Ist es nicht so: Solange man denkt, es es kann nicht anders sein, zieht man logische Schlüsse.
Das heißt wohlä solange das und das gar nicht in Frage gezogen wird.
Die Schritte, welche man nicht in Frage zieht, sind logische Schlüsse. Aber man zieht sie nicht darum nicht in Frage, weil sie sicher der Wharheit entsprechen ß oder dergl. ß sondern, dies ist es eben, was man Denken, Sprechen, Schließen, Argumentieren, nennt. Es handelt sich hier garnicht um irgendeine Entsprechung des Gesagten mit der Realität; vielmehr ist die Logik vor einer solchen Entsprechung; nämlich in dem Sinne, in welchem die Festlegung der Meßmethode vor der Richtigkeit oder Falschheit einer Längenangabe.
Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 96 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

このほかにありえないと考える限り、人は論理的な結論を引きだすのではなかろうか。これが意味するのは、これこれのことが、問題にならない限りで、ということだろう。問題にならない進め方は、論理的な推論である。しかし、人がそれを問題にしないのは、それが真理、あるいはそれに類するものに一致するからではない。これは、人が「考えること」「話すこと」「推論すること」「議論すること」と呼んでいるものにほかならないのである。ここで問題なのは、言葉と実在のなんらかの一致ではまったくない。むしろ、論理は、こうした一致に先立つのである。つまり、測定方法の確立が、測定した数値の正誤に先立つのと同じように。

■この断章で、興味深いのは、論理(これは数学命題、文法、規則と言ってもいい)は経験命題(測定値)に先立つということだけでなく、その論理自体も、人が「考えること」「話すこと」「推論すること」「議論すること」と呼んでいるものにほかならないと洞察している点である。つまり、論理は外部条件から独立して無時間であるが、「論理の生成プロセス」はあるということになる。人が○○と呼ぶというのは、○○と意味する、ということと同じだからだ。つまり、そこには、時間性が存在している。これは、どういうことだろうか。この後の断章で、ヴィトゲンシュタインは、このテーマを展開するが、もっとも印象的なのは、「数学者は発明家であり、発見家ではない」という言明である。ここに集約されているのが、「論理の時間性」なのだろう。この時間は、「今日は成立したが、明日は成立しないかもしれない」という経験命題の時間とはあきらかに異なっている。

Marcuseには、科学技術の合理性は歴史的に形成されてきたものという洞察があるが、科学技術の合理性は、論理命題(数学命題)の合理性が経験命題の合理性に先立って運動をすることで成立しているのだろう。そこに流れる時間は質的に異なっている。数学命題(論理命題)の無時間性は、イデオロギーとしての近代世界(像)が、将来的に、いつまでも続くように見える、という意味での無時間性と、その世界化力の強靭さとに対応している。




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