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一日一句(245)






秋深し蕎麦に跳ねたる蕎麦のつゆ





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一日一句(244)






秋深し歳時記に飛ぶ蕎麦のつゆ





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一日一句(243)






日雇ひの日は暮れなくも秋の風





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蕪村の俳句(106)


■旧暦9月16日、水曜日、、満月

(写真)秋の風

今日は、いやなニュースが続いた。横浜でストロンチウムが検出された。ここから>>> ストロンチウムは、産経新聞を始め、マスコミや「専門家」の方々が、比重が高いので、遠くへ飛ばない、福島の観測値も低いので、首都圏は飛散の心配がない、という想定・仮説で、結果的に未測定を「基礎づけてきた」核種である。ストロンチウムという核種についてはここから>>>  検出が技術的に難しいことも測定がされなかった理由であろうが、こうしたマスコミや「専門家」と同じ、想定・仮定を国や自治体が共有していたことは、否定できないだろう。たとえば、文科省は「プルトニウムやストロンチウムの沈着量はセシウムに比べ非常に小さい。今後の被曝の影響評価や除染対策はセシウムに着目するのが適切」としている(9月30日朝日新聞)。仮説は、所詮、人間の想像力の産物でしかない。データは、仮説枠組みと解釈枠組みという二重の社会的条件に、媒介されて存在している。したがって、仮説枠組みを物象化せず(そもそも、仮説の物象化が、「福島原発事故」を招いたのではなかったのか)、国民の生命を守るという価値観で、データの収集と解釈を行う義務が公的機関にはあると思う。それは、憲法13条および25条で規定されているとおりである。

憲法第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

これと関連するが、福島の新米が全域で出荷可能になった。ここから>>>  暫定基準値が500bq/kgである。これをクリアしたというのがいったい、どんな意味があるのだろうか。しかも、ストロンチウムは測定されていないのである。ウクライナ基準40bq/kgの13倍もの暫定値が、なぜ、基準となるのか、その基礎づけは明らかにされていない。福島を助けるという大義名分は、憲法違反ではないのだろうか。福島も自分も助けるべきなんじゃないだろうか。テレビなどを観ていると、「首都圏で高い数値が出たことに驚くのではなく、福島のみなさんの状況を想像してみましょう」などと馬鹿馬鹿しいほど頓珍漢なコメントが放送されている。福島の助け方が、あまりにも安易で、日本社会全体の共同責任にされていくプロセスは、どこか狂っている、と感じるのはぼくだけだろうか。これは、自然災害ではないのである。加害構造が明確に存在するのである。



Ustreamで肥田舜太郎(94)氏のインタビューを観る。広島で被曝、1,000人以上の被爆者の治療にあたる。とくに、2時間過ぎからの内部被曝と各種疾病の関連に関する知見が参考になる。ここから>>> 長いですが、原発とアメリカを結ぶ線が見えてくる。



負まじき角力を寝ものがたり哉   明和5年

■負まじき(まくまじき)=負けるはずのない。相撲取りの大男の可笑しみに惹かれた。その可笑しみは、鏡のように自分に返って来る...。




 
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一日一句(243)






人の世の命の昏さ曼珠沙華





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一日一句(242)






十三を一日遅れて月見かな





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一日一句(241)






シオランは余生の生や後の月





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(13)


■旧暦9月13日、日曜日、、十三夜

(写真)特養の午後の空

昨日、特養に叔母を見舞う。スタッフの人といくつか打ち合わせ。とても礼儀正しく安心できる。叔母も落ち着いている。ただ、「特養」という認識がなく、個室に入院していると考えているので、よくなったら家に帰るつもりでいる...。「正しい認識」を与える必要もないので、そのまま、話に合わせている。

今日は、十三夜である。夕方、散歩がてら街の表情を撮ってみたので、御覧ください。「十三夜の午後」 ここから>>> 今夜は、ピザにビールで十三夜を愛でますか。そう言えば、小さい頃は、家族で十五夜と十三夜は縁側で月見団子など食しながら、月を観た記憶があるが、あれは、いつまでだったろう。ただ美しい月を観るだけの不思議な期待感。中学生のときは、すでになかった。ふたたび、十五夜と十三夜を意識し始めたのは、長いブランクののち、40歳になってからである。俳句を始めた時期と一致する。

カムイ外伝を読み始める。昔、テレビアニメで観たことを思い出した。ここに出てくるのは、忍者イメージの源泉でしょうね。



134. Die Logik - kann man sagen - zeigt, was wir unter Satz und unter Sprache verstehen. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 90 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

論理というのは、規則と言語の枠内で、われわれが理解しているものを示していると言える。

■この場合、unter Sprache(言語の枠内)というのはわかるが、unter Satz(規則を前提に)というときのSatz(規則)がわかりにくい。論理学の規則を言っているとは思うが、この規則の検討は、一つのテーマとなりえるように思う。

Marcuse、Habermasは科学技術の政治支配をテーマ化し展開したが、ぼくは、科学技術の時間支配をテーマ化してみようと思っている。このとき、鍵になるのは、言葉の使用法が「過去」を形成するというアイディアであり、科学技術が、言葉の使用法をどう変容させたかが問題になる。ここに、論理規則が関わって来る...論理は外部条件によってどう変容するのか。あるいは、ヴィトゲンシュタインの言うように、完全に外部条件から独立した非時間的なものなのか。論理規則と科学技術の関係を検討してみるとどうなるのか。

※この断章134番は重要と思うが、日本語版の大修館書店のウィトゲンシュタイン全集第7巻では、きれいに、削除されてしまっている。校正ミスと思う。




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一日一句(240)






烏瓜つげ義春の懐かしさ





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(12)


■旧暦9月12日、

(写真)晴明神社

コミックの『陰陽師』を愛読していたので、晴明神社は、訪れたいと考えていた。この人気ぶり。映画やドラマの影響もあるのだろう。堀川今出川を少し下って二条戻り橋を西に入る。晴明の屋敷跡だという。コミックでは、都のはずれの場末感が漂っていたが、御所のすぐ北西にあったのか。



このところ、FBが面白く、blogがご無沙汰気味。11月に某大学でレクチャーを行うので、その資料を収集・検討している。当然、フクシマがテーマだが、この問題に対して、何か、新しい理論的なアイディアを提示したいと考えている。できるかどうか...。



京都への今回の旅で、盟友の哲学者から、佐村河内守(1963-)samuragouchi mamoruという作曲家を教示してもらった。そのライフヒストリーにも、音楽にも仰天した。クラシックの音楽家という分類になるが、ロックバンドへも一時期、参加していたらしい。その点、現代音楽の吉松隆と似ている。ぼくは、吉松さんは、あまり買わないけれど。

佐村河内守のライフヒストリー。ここから>>>

鬼武者というplaystationのsound track(これだけ聴いても、ゲームのsound trackながら、その非凡さがうかがわれる)と7月に発売されたばかりの交響曲第一番 "HIROSHIMA"の第三楽章を紹介したい(前衛的ではないが、きわめて現代的で、高く深い音楽。涙が出てくる)。現在、交響曲第二番まで完成しているらしい。早く2番の録音も実現してほしいものである。







133. Die Sätze der Logik sind Denkgesetze, weil sie das Wesen des menschlichen Denkens zum Ausdruck bringen. ― richtiger aber: weil sie das Wesen, die Technik des Denkens zum Ausdruck bringen, oder zeigen. Sie zeigen, was das Denken ist, und auch Arten des Denkens. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 90 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

論理学の命題は思考の規則である。というのは、それが人間の思考の本質を表しているからである。もっと正確に言えば、それは思考の本質、つまり、思考の技術を表し、示しているからである。それは思考とは何かを表すだけでなく、思考の種類も表しているのである。

■Sie zeigen, was das Denken ist, und auch Arten des Denkens. 論理学の命題が思考の本質だけでなく、思考の種類も表す、という件に、興味を覚える。論理学の合理性は、一つの合理性であることがここには示されているからである。これは、科学技術の合理性が、歴史的に形成されてきたものというMarcuseの洞察と近いものを感じる。ヴィトゲンシュタインは、断章101番で数学命題と経験命題の区別をしている。数学命題の非時間性、経験命題の時間性を区分特徴としてあげているが、この時間の問題は、命題の生成の問題とは異なることが、わかる。つまり、数学命題自身も一つの合理性にすぎないとすれば、それ固有の生成の歴史を有していることになるからである。普遍は歴史を持たないが、特殊は歴史を持つ。

数学命題あるいは論理命題が、外的条件から独立した、非時間的なものに見えるのは、なぜなのか。ベースにイデオロギーとしての近代世界像の世界化(普遍化)を考えることができる。近代世界像は、ギリシャ(あるいはそれ以前)から準備されていたのだろう。このことは、現存の論理学が通じない部族・社会も想定できることを考えてみるとわかる。西欧文明は、数学的合理性にしても、科学技術的合理性にしても、資本主義にしても、「世界化」する力が、ほかの合理性に比べて、桁違いに大きい。その桁違いさは、ごく最近のものだろう。科学技術と資本主義が一体化してからだろう。

時間は言葉の使用法で生成されるが、その使用法自体も、時間の拘束を受ける。つまり、社会の拘束を受ける。







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