verse, prose, and translation
Delfini Workshop
L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(14 )
■旧暦9月19日、土曜日、
(写真)秋の径(京都、双ヶ岡、二の丘)
雨で蒸し暑い。この頃、詩も短いものを好むようになってきた。たとえば、
Water, is taught by thirst.
Land - by the Ocean passed.
Transport - by throe -
Peace - by its battles told -
Love, by Memorial Mold -
Birds, by the Snow.
Emily Dickinson
ヘルダーリンのように、長くても、読ませる詩もあるけれど、たいていは、だらだら長いだけで、退屈なものが多い。それなら、俳句を読んだ方がいいと思ってしまうこの頃なのである。
☆
Marcuse(1898-1979)の『ONE-DIMENSIONAL MAN』(1964)のアクチュアリティーに気がついて、読み返している。副題は、Studies in the Ideology of Advanced Industrial Societyである。フランクフルト学派の中で、フロイトにいち早く着目し、60年代、70年代、新左翼運動の理論的支柱とされてきた人物だが、今、そういった枠組みを外して、再読する時期にしているとぼくは思っている。とくに、3.11以降の状況には有効だと思う。フランクフルト学派の中では、戦後、ドイツに帰らず、めづらしく、亡命先のアメリカに帰化した人物である。その点も興味深い。ユダヤ教徒のための大学ブランダイスで1954年から1965年まで教鞭を執る。その後、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授。ブランダイスは、面白いことに、政治哲学者、マイケル・サンデルの出身校でもある。
Marcuseのテーマの一つは、科学技術の政治支配である。科学技術による政治支配ではなく、科学技術のベースになっている合理性そのものに、隠微な政治支配が隠されているというテーゼがとくに注目される。われわれは、日頃、科学技術による生産力の巨大な力の前に、科学技術の政治性を疑うことなく、それを受け入れているが、科学技術は、もはや、生産力の増大だけに寄与しているのではなく、現行体制を基礎づけ正当化している。福島原発事故を踏まえると、原発をめぐる事後的な構造的利権の存在は、いろいろなところで、明らかにされてきているが、原発という科学技術そのものに内包している政治支配力には触れられていない。もちろん、ただ、科学技術を否定しても始まらない。
ただ、現行の政治支配は、露骨な抑圧という形は取らずに、「合理的な姿」をしているという洞察には、もっと注目していいと思う。科学技術が、個人の生活を安楽なものにし、生産性と自然支配の増大に目を奪うために、科学技術に内在する抑圧(自由時間の私的性格のはく奪や原発労働に象徴されるような労働の破壊的な面など)が意識されにくくなっている。また、技術は、ある社会とその支配的利害が、人間と事物をどう扱おうと考えているがが投影されているという考え方は、原発の核燃料の制御不可能性や、事故で放出されたセシウム、ストロンチウム、プルトニウムの半減期を踏まえると、大変考えさせられるものを持っている。原発は、支配的利害のegoisticで無責任な姿を映し出す鏡の役割も果たしているのである。
しかし、こんなに高いセシウムやストロンチウムの値と長期間、共存して生活しなければならなくなった社会って、世界史上、これまであったんだろうか。しかも、プルトニウムは、大半が海へ流れたと言われている。精密な海洋調査をすべきだろう。地上観測は100キロ圏外は未測定のままである。同心円状の調査区分に意味がないことは以前からわかっていたことではなかろうか。安易な仮説や前提は排除して、広範囲で精密な核種ごとの観測システムを国と自治体は早急に構築すべきだろう。
☆
156. Ist es nicht so: Solange man denkt, es es kann nicht anders sein, zieht man logische Schlüsse.
Das heißt wohlä solange das und das gar nicht in Frage gezogen wird.
Die Schritte, welche man nicht in Frage zieht, sind logische Schlüsse. Aber man zieht sie nicht darum nicht in Frage, weil sie sicher der Wharheit entsprechen ß oder dergl. ß sondern, dies ist es eben, was man Denken, Sprechen, Schließen, Argumentieren, nennt. Es handelt sich hier garnicht um irgendeine Entsprechung des Gesagten mit der Realität; vielmehr ist die Logik vor einer solchen Entsprechung; nämlich in dem Sinne, in welchem die Festlegung der Meßmethode vor der Richtigkeit oder Falschheit einer Längenangabe. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 96 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984
このほかにありえないと考える限り、人は論理的な結論を引きだすのではなかろうか。これが意味するのは、これこれのことが、問題にならない限りで、ということだろう。問題にならない進め方は、論理的な推論である。しかし、人がそれを問題にしないのは、それが真理、あるいはそれに類するものに一致するからではない。これは、人が「考えること」「話すこと」「推論すること」「議論すること」と呼んでいるものにほかならないのである。ここで問題なのは、言葉と実在のなんらかの一致ではまったくない。むしろ、論理は、こうした一致に先立つのである。つまり、測定方法の確立が、測定した数値の正誤に先立つのと同じように。
■この断章で、興味深いのは、論理(これは数学命題、文法、規則と言ってもいい)は経験命題(測定値)に先立つということだけでなく、その論理自体も、人が「考えること」「話すこと」「推論すること」「議論すること」と呼んでいるものにほかならないと洞察している点である。つまり、論理は外部条件から独立して無時間であるが、「論理の生成プロセス」はあるということになる。人が○○と呼ぶというのは、○○と意味する、ということと同じだからだ。つまり、そこには、時間性が存在している。これは、どういうことだろうか。この後の断章で、ヴィトゲンシュタインは、このテーマを展開するが、もっとも印象的なのは、「数学者は発明家であり、発見家ではない」という言明である。ここに集約されているのが、「論理の時間性」なのだろう。この時間は、「今日は成立したが、明日は成立しないかもしれない」という経験命題の時間とはあきらかに異なっている。
Marcuseには、科学技術の合理性は歴史的に形成されてきたものという洞察があるが、科学技術の合理性は、論理命題(数学命題)の合理性が経験命題の合理性に先立って運動をすることで成立しているのだろう。そこに流れる時間は質的に異なっている。数学命題(論理命題)の無時間性は、イデオロギーとしての近代世界(像)が、将来的に、いつまでも続くように見える、という意味での無時間性と、その世界化力の強靭さとに対応している。
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