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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(15)


■旧暦9月20日、日曜日、

(写真)午後5時の後の月

今日は蒸し暑かった。夕方、神輿の掛け声がしきりに響いている。今日は秋祭らしい。そう言えば、昨日、埼玉新聞記者のSさんが、3.11以降、俳句と短歌の投稿がずいぶん減ったと話していた。確かに、ポスト3.11の状況で、自然や人間をめでる気分はなかなか起きにくい。逆に、根源的なことをもっと考えてみたい、という気分が増している。



昨日は、夕方から、「哲学塾」。この数カ月、体調不良で参加できなかったので、久しぶりに、みなさんと議論した。この会は、はじめに主宰者の社会哲学者、石塚省二先生のレクチャーが3時間あり、その後、場所を居酒屋へ移して、2時間ほど議論するのが、恒例になっている。昨日のテーマは、近代哲学のどこが新しいのか、デカルト、ホッブス、ベイコン、バークリー、スピノザ、ライプニッツをめぐって。日本語で、「近代」はmodernの訳だが、この言葉の核にはmodeがある。流行。つまり、新しいもの、という含意がある。近代哲学の系譜を形成するこれらの哲学者たちは、中世を通じて主流になっていたアリストテレスの学問を意識している。アリストテレスに対して、どこかしらみな「新しい」わけである。大枠はそんな感じで、各哲学者の議論のポイントを解説していただいたわけだが、毎回、頭の整理になる。中でも、フランシスコ・ベイコンのイドラ論は、とても興味深い。イドラ論は、イデオロギー論として、マルクスで、はじめて展開され、ルカーチやカール・マンハイムに流れ込んでいる。この問題は、現代でも、科学技術のイデオロギー性の問題として、マルクーゼやハバーマスによって、展開されている。とてもアクチュアルな問題だと思う。

後半は、ヘーゲル解釈の歴史について、レクチャーがあった。ぼくは、80年に大学に入学したのだが、80年代でも、ヘーゲルの理解は、「反動哲学者」というものだった。いわば、マルクスの敵役だった。封建的・反動的・プロイセンの御用哲学者といった解釈は、実は、スターリンの解釈が基になっている、というのを初めて知った。この解釈は、世界的には、60年代に盛んだったが、現在では、進歩的な存在論哲学者という解釈が力を持っている。この新しい解釈の系譜は、1948年のルカーチの『若きヘーゲル』が源流になっている。そののち、ジャン・イポリットやジャック・ドントなど、おもに、フランスのヘーゲル学者が、実証的に、その哲学の進歩性や存在論としての重要性を明らかにしてきている。ぼくは、なぜか、昔から、ヘーゲルが気になっていて、20年前に、岩波から新しく出た全集を揃えた。当時は、長谷川宏などの新しい翻訳は出ていなかったので、金子武蔵などの古い世代の哲学者の訳であるが、金子武蔵のヘーゲル解釈は、フランスのジャン・イポリットの影響下にあったことが、今回、わかった。

「認識論的な科学」と言うと、現代の常識では、同語反復になるが、近代の経験科学が、カント哲学の認識論的な側面で基礎づけられていることを踏まえると、「存在論的な科学」という理念があってもおかしくないと思える。デカルト-カント-ヘーゲルという近代哲学の一つの系譜について、カント後期の「判断力批判」には、後のヘーゲルにつながる存在論的な萌芽があるという先生の話を聞いて、そんなことを思った。ヘーゲルやマルクスの理論を継承すると、自然に、そうなる気もする。逆に、今までのマルクス解釈は、カント的な認識論の文脈での解釈に傾きすぎたのではあるまいか。問題の解決が新しい問題を生み出すという科学の構造が、そのままマルクス解釈に引き継がれ、旧ソ連・東欧に典型的に見られたように、疎外の克服が新しい疎外を生み出す、という事態になったのではあるまいか...。



164. Erfahrung lehrt mich freilich, wie die Rechnung ausgeht; aber damit erkenne ich sie noch nicht an. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 98 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

もちろん、経験はわたしに計算の結果を教えてくれる。だが、それだけではまだ、わたしは、その計算を承認しない。

■「論理と時間」というテーマに関心をもって、考えをまとめている。一見、対立する二つの事項の間にある内的連関はどうなっているのか。ヴィトゲンシュタインを検討してみて、「論理」は基本的に二つにわけられることがわかってきた。一つは、「数学命題」。もう一つは「経験命題」である。数学命題は、外的な条件から独立して存在するから、命題に時間は関与しない。1+1=2は今だけ、成立する命題ではない。しかし、数学命題は、一つ一つが独立して存在するのではなく、一つの系を構成している。この体系自体には、生成プロセスがある。そこに時間は関与する。経験命題は、因果を語り、関係を語り、つねに「○○と呼ぶ、○○と意味する、○○として使用する」が隠されている。経験命題は、外的な環境や条件に依存する。したがって、命題に時間が関与する。

時間は、過去・現在・未来という単線的な流れをしているが、これは、もともと、キリスト教の救済の時間の流れが、世界化したものだろう。時間の単線的な流れは、資本主義の目的合理的な行為システムによって、世界化したものとぼくは思っている。資本主義は、目的や計画を将来に投企し、労働システムをそれに応じて再編していく。時間は、このとき、未来・現在・過去の順で比重が置かれ、未来の時間が現在の中に同居する。これと並行して、過去のニュアンスが著しく平板化し、空洞化する。時間は、「言葉の使用法」が規定するので、過去のニュアンスの消滅は、「言葉の使用法」を跡づけることで、はっきり見えてくると思う。

ところで、新しい時代である「近代」は、生産様式から見れば資本主義であるが、それ以前の時代の時間感覚は、過去のニュアンスの豊かさと同時に、過去の現在への侵入があるとぼくは睨んでいる。それを跡づける面白い事例が、古代ヘブライ語である。古代ヘブライ語には、時制がない。どの事態も終了せずに現在と同居する。これは、過去・現在・未来という単線的な時間意識ではなく、歴史意識でもなく、「過去」という意識が、そもそも、ない。また、古典日本語の過去形の豊富さは、伝統社会の官僚制を背景にして構築されたもので、このとき、比重があるのは、過去と現在のつながりである。古典日本語の過去形に流れる時間は、近代の秩序づけられた単線的な未来・現在・過去の時間とは異質のものだろう。われわれが考える時間とは、実は、資本主義的な労働時間のことなのだということが、以上のことからわかるのではなかろうか。

「論理と時間」という問題は、「合理性と労働時間」の問題とも言いかえることができる。このとき、科学技術の時間支配という問題設定ができるはずである。科学技術の合理性に、そもそも、内在する、時間を再構成・支配する契機が明らかになるという意味で。時間支配は近代の時間の誕生と同時に生まれているが、後期資本主義の、時間の再構成・支配の新しい段階は、科学技術による時間の再構成・支配の強化なのだと思える。当然、時間の再構成・支配の強化は空間の再構成・支配の強化と一体である。ルカーチの言うように、空間(商品)は時間(労働時間)の凝縮したものであるから。

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一日一句(246)






祭笛ちかくてとほき音したる





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