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蕪村の俳句(106)


■旧暦9月16日、水曜日、、満月

(写真)秋の風

今日は、いやなニュースが続いた。横浜でストロンチウムが検出された。ここから>>> ストロンチウムは、産経新聞を始め、マスコミや「専門家」の方々が、比重が高いので、遠くへ飛ばない、福島の観測値も低いので、首都圏は飛散の心配がない、という想定・仮説で、結果的に未測定を「基礎づけてきた」核種である。ストロンチウムという核種についてはここから>>>  検出が技術的に難しいことも測定がされなかった理由であろうが、こうしたマスコミや「専門家」と同じ、想定・仮定を国や自治体が共有していたことは、否定できないだろう。たとえば、文科省は「プルトニウムやストロンチウムの沈着量はセシウムに比べ非常に小さい。今後の被曝の影響評価や除染対策はセシウムに着目するのが適切」としている(9月30日朝日新聞)。仮説は、所詮、人間の想像力の産物でしかない。データは、仮説枠組みと解釈枠組みという二重の社会的条件に、媒介されて存在している。したがって、仮説枠組みを物象化せず(そもそも、仮説の物象化が、「福島原発事故」を招いたのではなかったのか)、国民の生命を守るという価値観で、データの収集と解釈を行う義務が公的機関にはあると思う。それは、憲法13条および25条で規定されているとおりである。

憲法第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

これと関連するが、福島の新米が全域で出荷可能になった。ここから>>>  暫定基準値が500bq/kgである。これをクリアしたというのがいったい、どんな意味があるのだろうか。しかも、ストロンチウムは測定されていないのである。ウクライナ基準40bq/kgの13倍もの暫定値が、なぜ、基準となるのか、その基礎づけは明らかにされていない。福島を助けるという大義名分は、憲法違反ではないのだろうか。福島も自分も助けるべきなんじゃないだろうか。テレビなどを観ていると、「首都圏で高い数値が出たことに驚くのではなく、福島のみなさんの状況を想像してみましょう」などと馬鹿馬鹿しいほど頓珍漢なコメントが放送されている。福島の助け方が、あまりにも安易で、日本社会全体の共同責任にされていくプロセスは、どこか狂っている、と感じるのはぼくだけだろうか。これは、自然災害ではないのである。加害構造が明確に存在するのである。



Ustreamで肥田舜太郎(94)氏のインタビューを観る。広島で被曝、1,000人以上の被爆者の治療にあたる。とくに、2時間過ぎからの内部被曝と各種疾病の関連に関する知見が参考になる。ここから>>> 長いですが、原発とアメリカを結ぶ線が見えてくる。



負まじき角力を寝ものがたり哉   明和5年

■負まじき(まくまじき)=負けるはずのない。相撲取りの大男の可笑しみに惹かれた。その可笑しみは、鏡のように自分に返って来る...。




 
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一日一句(243)






人の世の命の昏さ曼珠沙華





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