さよなら北陸本線【その3・湯尾】

2024年05月18日 22時15分20秒 | 旅行記
5月も半ばを過ぎてしまいました。
書くことは本当にたくさんあるのですが(メモ書きだけが溜まっていきます……)、なかなか時間がとれず。
またしばらく間が空きましたが【その2】の続きです。

今庄から湯尾の営業キロは3.6km、今までにたくさん駅間徒歩を試みてきた身としては、歩けない距離ではありません。
列車の時間が近付いてはいましたが、先ほどの燧ヶ城址から見えていた旧線のトンネルが気になったので、思い切って歩いてみることにしました。


今庄駅構内のはずれから、いったん線路をくぐります。


ガード下につきものの、緊急連絡先の案内。
こうした掲示物の内容も経営移管に伴って変更されるのでしょうか?

少し歩いて、国道の信号を渡ります。


ワムが置いてありました。
伯備線のときも思いましたが、こういう貨車はかつてその地を走っていたのか、それとも全く別のところから持ってきたのか……?

少し歩くと、現在線の湯尾トンネルが見えてきました。



その隣に口を開ける、旧線の湯尾トンネル。
開通は1895(明治28)年頃、国の登録有形文化財に指定されています。


坑口よりも大きな擁壁が目立ちます。このおかげで現在も道路として使えているのかもしれません。


近付いてみると、行き止まりの標識にカラーコーン。
実はワムの置かれていた信号辺りから通行止めじたいは分かっていたのですが、近付けるところまでは近付いてみようと思い、ここまで。
中からは音が聞こえていて、何か作業をしているようです。ちょうど右手に伸びる道があるので、ここは大人しく迂回します。


歩いてきた今庄駅方向を振り返ります。
切り替えは1962(昭和37)年。切り替えの区間じたいは短いものの、複線化と電化が同時におこなわれましたから、それこそ今年の新幹線に匹敵するくらいの激変だったのではないでしょうか。


山をぐるっと迂回して(歩道のある国道で良かったです)、南越前町に入りました。

しばらく集落を進んでいくと、


古戦場跡にぶつかりました。
この辺りの北国街道は戦国武将のひとり・柴田勝家によって整備されましたが、それ以前からも木曽義仲が京へ攻め上る際に、そして南北朝時代にはここ上野ヶ原で湯尾峠の要害を争って、実に熾烈な戦いが繰り広げられたようです。
この後ろを振り返ると、湯尾トンネル直江津方の坑口となります。


作業車が見えます。
先ほどの音はこの車が出していたものでしょう。
両側には桜並木、鉄道の現役当時からあったものかは分かりませんが、もし今でも列車が走っていれば人気の撮影地になっていたことでしょう。

旧線跡をしばらく進むと、現在線との合流地点が見えてきました。


ちょうど普通列車が通過。
旧線との位置関係がよく分かります。

本線との合流地点の少し前では、小さな川を渡ります。
もしや……? と思って河原に降りてみると、


レンガ積みの橋台が残っていました。
強固で撤去の必要がないから残っているのでしょうが、やはりこうした面影を見つけると嬉しくなるものです。

合流地点には踏切があったので、渡ってみます。


背後には高速道路が立ちはだかりますが、鉄道のほうは防風林(?)に田園、集落の風景と、なんとも模型的です。
いまは冬枯れですが、季節や条件を変えて撮ってみたいですね。

ここまで来ると湯尾駅も近くなってきますが、もう少し寄り道をします。


沿線にある日吉神社。


境内のすぐ後ろを北陸本線が走っていて、ちょうど「サンダーバード」が通過して行きました。前6両は「和倉サンダー」です。


続いて「しらさぎ」が通過して行きます。
こういう「そこにしかないもの」と絡めて撮るのが今回の目的でした。

今庄から2時間近くをかけて、湯尾駅に着きました。


山小屋風の駅舎です。
十数年前に一度訪れたことがありますが、それほど変わっていないように思います。当時は「雷鳥」や、普通列車の419/413/475系が現役でした。

ちょうど敦賀行きの普通列車が入線します。


「米原方面」の文字も、既に直通列車はなく、経営移管後は福井県内の地域輸送がメインとなることから、いずれ消されてしまうかもしれません。


跨線橋を渡ってお見送り。
ここから隣の南条駅との間に有名撮影地が点在しているからか、乗降ともにカメラを持った撮影者の姿を見かけました。

私はというと、反対の福井行きに乗車して、


武生で途中下車。
久々の「街」で少しホッとしますが、ここからはしばし線路を離れて観光へ。

【その4】に続く