西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
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『祝杯』にみる女と男 2

2014年08月16日 | サンド・ビオグラフィ

ébauche

 III. 妖精の王女の死にみる女と男
(1) ソクラテスの死と妖精の王女の死
 『ラ・クープ』には、ソクラテスが毒杯を仰ぐ場面を連想させる妖精の死が描かれている。
では、ソクラテスはどのように死を迎えたのだろうか。

   いとも無造作にらくらくと」毒杯を飲み干すのを見て弟子たちが悲しみと嘆きのあま
   り慟哭する中、ソクラテスはしばらくあちこちをあるきまわっていたが、やがて足が
   重たくなってきたと言って、仰向けに身体を横たえた。足の方から麻痺してゆくこと
   を知っている毒薬担当官は、身体の部分を触れては感覚があるかソクラテスに聞いて
   いたが、下腹部辺りまで来た時、弟子のクリトンが師に「他に言う事はないか」と訊
   いたが、返答はなかった。少し後で、ぴくりと身体が動き、顔の覆いを除けてみると、
   その目はじっと固くすわっていた。

 以上が『パイドン』に書かれているソクラテスの最後の様子である。
 では、サンドは妖精の王女の死に方をどのように描いているのだろうか。
 毒杯を仰ぐ決心をした王女は、死を目前にしズイラに遺言を残す。それは、医療に関する妖精の知識をエルマンに教えること、それから、人間たちが科学の進歩により優れた治療法を開発し、叡智と徳により殺人や無駄な争いをなくすようにという願いの言葉だった。そして、最後に彼女が毒杯を仰いだ後、断末魔の苦しみに襲われるようであったら、「死、それは希望なり」 という言葉を繰り返し彼女に言ってほしいとズイラに頼んだのだった。  

  ズイラの涙を前にして決心が鈍ることを恐れた王女は、彼女に「永遠にこの世を去って
  ゆく前に、地上の美の純粋な発現を見たいから薔薇の花を持ってきて欲しい」と頼んだ。
  ズイラが戻ってくると、王女は氷河の塊の側に座っていた。頭を無造作に腕の上にもた
  れさせて。もうひとつの手はぶらりとぶらさがり、空の杯は衣服の端に転がっていた。
  ズイラは彼女が眠っているのだと思った、しかし、その眠り、それは死であった。
                           
  三日間待ったが、王女の覚醒はおこらなかった。ズイラは、静謐でおごそかな顔がゆ
  っくりと硬直してゆくのを見た。彼女は絶望して逃げ去った。氷は次第に彼女の顔の
  輪郭の上になお一層ひろがってゆく忘却を石化させ、その美しい生命を石像に変えて  
  いった。  
                    
 ソクラテスと妖精の王女の死に方の違いは歴然としている。哲学者は妻子や愛人を遠ざけ、男性のみの複数の弟子達にみとられ、男の死を迎えている。さらに今際の際の描写が科学的、実証的である。彼が遠ざけるのは女子供であり、同性の男たちは自分の側に置いている。そこには、女たちを傷つけたくないという気遣いもあるだろうが、それ以上に「男には男の世界」という男性性を男性のみの封じられた磁場に帰す、女性排除の論理が見え隠れしているとは言えないだろうか。
 ソクラテスは最後の最後に、毒薬担当官に杯の中の一部を神に捧げてもよいか、と尋ね、担当官に毒薬はきっちり致死量が測ってあるので不可能だと断われているが、この場面は死の直前のソクラテスに一瞬のためらいが生じたたことを匂わせている。最後の彼の言葉は、弟子のクリトンに言った「アスクレピオスに鶏のお供えをせよ」という一言だった。
 これに対し、女性である妖精は、妹と呼ぶ最愛の友に、薔薇の花をもってきてほしい、と言って故意に彼女を自分から遠ざけ、誰にもみとられることなく、孤立無援の中で死んでゆく。誰かがいると決意が鈍ると考えたからであった。ここには、一瞬の躊躇をみせたソクラテスより屈強の信念をもつ妖精の王女の決断力と勇気が垣間みられる。それは文化範疇の視点からみれば、男性的でさえある。氷にもたれかかって死ぬという死後の気遣いを垣間みせている点で、死後のすべてを周囲が面倒をみてくれる恵まれた男性ソクラテスとも異なる。男性哲学者の場合は、男が周囲に甘え、側近がそれを見守っている。王女の場合には、一切の甘えがない。これは文化表象の観点からみると、妖精の死に方は極めて男性的であり、情熱と理性を連想させる薔薇の花と氷は、妖精の王女にふさわしい女性性を象徴していると言えるだろう。

 一般に妖精の物語から連想されるのは、魔法の棒を一振りすれば魔法のお陰で奇跡の世界が目の前に広がる子供向けの楽しいおとぎ話である。しかし、サンドの妖精の世界では、魔法の棒を使ったおとぎ話は本当ではないと作者は断言している。サンドがある種の読者向けの保護を必要とする女らしいとされるか弱なヒロインを描くことは決してない。むしろ、その真逆のヒロインを創造しているところに、19世紀の男性中心のブルジョワ社会に対する女性作者の厳格な批判精神が認められる。サンドが想像/創造する妖精の国では、妖精の王女が国を治め、妖精たちが国の掟を遵守することにより一国が機能している。そこで展開されるのは、長い間、歴史的に男性の分野のものとされてきた哲学や政に携わる女たちの世界の物語である。サンドは妖精という非現実のモデルを駆使し、そこに愛と死といった極めて人間的なテーマを織り込み、現実世界ではあり得ない物語を重層的な虚構の世界の中に描いている。しかもそこには、暗黙の共犯関係を示唆する男と女のシンメトリーの構図が立ち現れる。
 先述した「死は希望である」というライトモチーフからも推測されるように、妖精の王女の死はソクラテスの死にオーバーラップしている。この物語を締めくくる最後の一行が「死、それは希望なり」であり、この言葉が弟子たちに残したソクラテスの教えとまったく同じであることは注目に値する。死んでゆく妖精は、毒杯を仰ぐという行為において、さらに死後の永遠の魂を信じるという点においても、ソクラテスと二重写しなのである。サンドはソクラテスの死に際の様子を熟知した上で理想的な死に様を王女に託して描いたと断言しても決して過言ではない理由がここにある。
 
 

コメント
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