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人間の社会性と言葉

2005年05月21日 14時57分58秒 | 俺のそれ
以前に、人間が持つ他の動物と異った社会性は、言葉の獲得によるのではないか、と書いた(参考記事)。このことについてもう少し書いてみたい。普通の社会学者、行動学者や生物学者などはもっと別の見解があると思うので、全くの私見であることをお断りしておく。単なる想像に過ぎないので、厳しいツッコミは許してね。


人間は、言葉によって目の前に現実に存在しないものを理解したりできる。想像によって何かの意志決定をしたりできる。これはどの生物にもあるのか確かめることはできない。しかし、多分そういうことはないのではないか、と思う。例えばイルカは「お化け、幽霊」のような存在を考えたりできるだろうか。一度も見たこともないものを考えたりできるだろうか。


世の中には、生まれつき視力を失っておられる方がきっと存在すると思う。そういう方は、視覚的情報を取り入れられないから、視覚的なイメージとか視覚的先入観というものは恐らく形成されないと思う。だが、「言葉」という特別な記号によって、情報の質を変化させられるのではなかろうか。視覚情報がないのに、人間は視覚的に見たことがなくとも、恐怖の対象を感じることができる。通常乳幼児は見て不快であるとか、何となく恐怖を感じるというものはあるが、見たことがないものには恐怖しないと思う(動物としての本能的な反応はあると思うが)。だが、2、3歳くらいから「お化け」を怖がったり、病院とか注射を怖がるようになる。恐怖の度合いは、それより年少の方が少ないが(恐らく理解できないからであろう)、想像力がついてくると対象(例えば注射器とかお医者さんとか・・・)を見る前から恐怖心を持つようになる。これは言葉を理解することによって生じる、極度の不快とか身体侵害の恐怖などがあるんじゃないか、ということである。だから、1歳くらいの乳幼児は想像できないし、言葉の理解が不十分なので、注射器などを見たとしてもそれほど怖がらないし、お化けを怖がることもない。


動物は見たことがなくとも逃げたり、恐怖感を抱くこともあると思う。例えば、シマウマはライオンを見たことがなくとも、追いかけられると逃げるだろうと思う。それは、本能的に感じるシステムの一つに過ぎないのではないかと思う。振動、匂い、音や視覚的情報(急速に接近してくる、牙を持っている、体が大きい、等々・・・)などから、「逃げろ」という個体の防御機能が働くからだと思う。見たことがないためにライオンから逃げないとすれば、食われる確率が高くなってしまうよね。地震の前にナマズが感知したり、動物達が先に避難している(と考えられているのですよね?)のは、脳の容量がそういう体性感覚の鋭敏さに使われているんじゃないか、と思うのである。犬の嗅覚は優れているが、そういう機能に脳の容量が多く割り当てられているのではないかな。


大地震の前に起こる何かの変化要因―これが何かは不明のままであるが、地球環境の大きな変化があっても生き延びてきた生物が獲得した特殊な能力なのだろうと思う―多分違うだろうが、例えば地磁気の変化、大気のプラズマ変化、気温と湿度の変化、風の起こり方、大地と空気の微細振動・・・そういう何かの変化を感知して、その組み合わせによって地震とか火山噴火などを感じ取るんじゃないかな、と思う。動物の感知システムで、危険と判断するスイッチがいくつかあるとして、条件A、B、・・・Eというふうにあれば、どれもスイッチオン状態になるのは32通りの一つである。通常時にも似たような変化はあるが、全部が揃うことが滅多にないから、それで感知できるんじゃなかろうか。この解は、今のところ人間には見つけられないのであるが。生物進化の過程で、生物がこうした感知システムを持ったとしても不思議ではないと思う。だって、GPSもなければ慣性誘導もなければレーダーもないのに、渡り鳥は数千キロを飛んでいくし、サケだって自分の生まれ故郷に何千~何万キロも泳いで帰ってくるし、そういう特殊能力を持つのとあまり違いがないようにも思うからである。


話が逸れてしまったが、動物達はそういう感覚部分に脳の容量をたくさん使うが、人間はそういうものを縮小した代わりに言語能力や手の能力に多くの容量を割くようになったんじゃないだろうか。もっと大きな脳を持てば、色んな容量を増やせたかもしれないのだが、それほどの変化が起こるには時間が足りなかったか、生物として生き延びるには十分であったからなのかもしれない。また、単純に大きさだけで言えばイルカの方が大きかったと思うが、そういう大きさだけでは機能の比較ができないだろう。コンピュータの進歩と同じで、今のPCの方がはるかに小さいのに、昔の大型コンピュータよりも高性能であるようなものだろう。


言葉によって、「獲物がたくさんいる」「洞窟には化け物が棲み付いている」というようなことが、人間の集団に理解されるようになった。洞窟の中の化け物を見た人が1人だけであっても、仲間達はそれを理解することができるようになったのである。他の動物ならば、洞窟においしい実のなる植物がたくさん生えていると思えば、たとえ化け物がいたとしても「おいしい実」を食べに行ってしまうかもしれない。ところが、人間は言葉を得ることによって、「あそこの洞窟に入ってはいけない」ということが伝達され、「洞窟に化け物」という見ていない情報を知ることになるのである。このような積み重ねが、人間の特殊な社会性獲得につながったと思うのである。自分以外の人間との情報共有が言葉によって可能になり、ある人間が獲得した感覚情報(例えば、洞窟の中で吼える声が聞こえた、巨体のトラを見た、仲間が食われて引きずりこまれた、・・・等々)を知ることによって、自分が感じた感覚情報ではないのにその情報をインプットすることになるのである。そうすると、実際にその洞窟に近づけば、トラを見たわけでもないのに恐怖を感じたり、洞窟内からの吼え声を聞くだけで恐怖を感じるようになるのではないだろうか。


犬であっても、喜んでいる様子や好意的表現(本当にそうなのかどうかは知らないが、何となくそう感じる時がある)があると思うが、人間同士のコミュニケーションも言葉がなくとも可能であったはずである。そうじゃないと、求愛行動などが出来ないでしょ?恐らく社会性は言葉の獲得以前からあっただろうし、サルと似たような集団性もあっただろう。そのような環境にあって、更に言葉を獲得したことで、より複雑化した社会性を生じたのだと思う。それからさらに長い時間をかけて、世代を超えた伝達情報の蓄積が行われたはずだ。


そして、ついに人間はあるものを手に入れた。それは、多分抽象概念ではないだろうか。最初は、恐らく「死」(現象として見れば具体的でもあるが、凄く抽象概念でもあるように思う)ではなかったか。それか、「自分」かな?動物には、「自分」という認識はないような気がする(勿論、生物としての空間占有の物体として、本能的な体性感覚はあるだろうが)。「自分」と「他者」の区別は、かなり高度な概念だと思う。でも、それ以上に、「死」は生物的な感覚であるような気がするのである。だから、私の予想としては、「死」を認識してこれを言葉の世界に取り入れ、それ以後人間の言語能力は飛躍的に向上していったのではないかな、と思うのである。これはインドで「ゼロ」の発見をしたのと同じくらい凄い概念だと思う。このような抽象概念が言葉として表現されるようになって、「自分が体性感覚で感じる情報」「他人が体性感覚で得た情報」以外に、「誰も形として見えない(見ることができない、感覚として捉えられない)情報」というものが登場するようになったのではないだろうか。これは「想像」というか「脳内感覚」というか、凄く特殊なものなのではないか。それが発達して行けば、見たことがないのに、「道具」を作るとかが可能になるようにも思う。そうやって創造性(想像力)が備わるようになっていったのではないのかな。


このように推測しているので、人間の社会性は本能的には遺伝的にプログラムされているはずだと思っている。それ以外の社会性は後天的に獲得したものであって、言葉を知ることでそれが可能となると思う。もしも言葉のない生活をする人間がいるならば、遺伝的なプログラミング以上の生物的社会性はないだろうと思う。大昔にあった狼少女(本当に実在したのかどうかは知らないが)の話みたいに、言葉のない世界で人間が生活していたとすればその人は他の動物と大差ないのではなかろうか(サルや鯨と同程度?)、と思うのである。


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