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ネット言論の試練2

2005年05月04日 14時49分10秒 | 俺のそれ
―私的ブログ考、個人からメディアへのカスケード

ブログ記事には、他のメディアにないようなユニークな記事も沢山ある。具体的な説明とか専門的な解説などが書かれているものも、勿論ある。ある事柄に関して調べたり、検討される時に、ネットではどういった作業が行われるのだろうか。

例えば「富士山は高い山か」ということについて記述されるとしよう。普通のメディアは、1人若しくは数人が記事に書いたり、取材したりして報道する。ブログでは、富士山について「日本で一番高い山」という記事が多く書かれるだろうが、更に専門的知識がある人達は、他の山との高さの比較、火山としての種類、噴火歴、「登山した」という実際の体験、山小屋や観測所の位置は何処にあるか、初めて登頂に成功した女性は誰か、遭難歴・・・などといった様々な事柄が書かれていたりする。多分書く人の視点・知識・経験がたくさんあることで、まるで「カルトクイズ」のような(古すぎ?)感じで「隙間」が埋められる。「富士山」についての情報集積が効率的に行われる。数人の作業では追いつけないような作業量が、並列的に多人数によってこなされていくということだ。当初は相互に関係なく独立的に行われるが、これらの情報が相互の関係を持てば、情報に触発された人々がもっと踏み込んだ記事を書いていく。


スーパーコンピュータで計算すると膨大な時間がかかるような計算量が、無数の並列ネットワークPCで短い時間で計算されるのと似ているような感じである(このような仕組みがあったと思う、実際参加募集サイトがあるんですよね?)。書き手が多いブログは、こうした点が既存メディアに比べ優位性があると思われるが、同じような記事が増えたり有益・有用とも言えない記事も増えてしまうかもしれない。ネットワーク上からこれを抽出する作業というのは、記事の数が増えれば大変になるであろう。並列PCが増えることはいいことなのだが、逆に選択作業が困難になるということである。既存メディアは、情報の送り手の資質として予め一定の基準により選ばれているし、組織としてある程度の担保があると思う(行政の許認可や歴史あるブランド(?)などかな)。


こうした抽出作業を誰がやるのか?抽出された有益情報を世間に広く知らせるにはどうするか?この辺りに、今のブログの限界が見えつつあると思う。テレビでは1千万人単位で影響を与えることが可能であるが、ブログではそこまでの影響力はないだろう。新聞にしても数百万人単位であると思うが(読売は1千万以上でしょうか?)、ブログが頑張っても10万人単位であり、もっと少ないことも多いだろう。影響力を与えるオーダーが2桁以上違うとなれば、世の中全般での言論の1%以下にしか影響しない。以前にマスコミの「増幅器」としての役割を書いたが(参考記事)、これを利用できるかどうかではなかろうか。


ブログの影響力が追いつけそうな、弱い影響力しか持たないメディアは射程圏内と思われても仕方がないかも。オーダーが同じくらいか、一桁違いくらいなら、メディアの領分をいくらか侵される可能性があるということだ。出版業界とかラジオというのは、そういう意味ではネットの追い上げを受けている。言論の担い手としても、ネットから発した切込隊長氏やガ島通信の藤代氏のような人も登場するに到った。メディア側がネットに着目しただけという面もあるのかもしれないけれども。ネタ切れになれば、「何かないかな」ということで、「利用できるものは何でも利用する」ということなのかもしれない。出版業界では1万部も売れればヒットと聞いたことがあり、そういうオーダーで考えるとネット言論の手が届く範囲であるのかもしれない。ビジネスとしてどうなのか、ということはよく分かりませんが。


ネット言論の抽出・集積という点で言えば、やはり中核となる場が必要であると思うし、その方が効率的であることは確かであると思う。利用者個人が情報を捜し求めてネットワーク上を彷徨うことは不便で、面倒だし、非効率的である。なので、どこかにそうした集積所とか意見集約の場がある方が、探し出し易い。そういうモデルとしては、木村剛氏の試みは有意義であると思っている。

この他、切込隊長氏、「isologue」の磯崎氏、「極東ブログ」のfinalvent氏のような個人ブランドで書いておられる方も存在しているが、あくまで個々のPCのブランド価値が高いということであって、これ一つでスパコンに対抗できる程の奔流とはなっていないと思う。現実世界での各評論家とかコメンテーター個人の影響力が、個々のブランドとしては存在するかもしれないが、世の中全体の意思の潮流を大きく変える程の大きさを持たないことと同じである。なんとなくではあるが、一つひとつの意見だけで形成されるというわけではなくて、マスメディアを通じて全体像が形成されていくような感じがする。実体のない「雰囲気という大勢的意思」がまるで雲のように存在して、雲の構成要素としては極めて小さな粒子(=各個人の意見)で出来ており、中には凄く大きな粒もあったりたくさんの粒が塊になっていたりするものもあるが、全体像としてはもっともっとはるかに大きな雲となっている、というようなイメージである。この雲はもやっとしていて、誰もはっきりとは見えないし、表現として正確に言うことも出来ないが、全体像は誰でも理解できるという不思議さがある。雲全体を特徴付けるのは、やはりマスメディアなどの影響力の大きな論調ではないかと思う。


マスメディアは雲に大きな影響力を持つので、そこに声が届けられるブログや場があれば「増幅器」の効果が出てくることも有り得るのではないかと思う。少なくとも、マスメディアの元来有する判断基準というフィルタを通して抽出されれば、単なる個人の意見から脱皮して「雲の一部を形成する塊」となるかもしれない、ということだ。担い手としては、既存の評論家や言論人、実名ブロガーなどばかりではなく、一般のブロガーもなり得るかもしれない。現状でのブランド力とか信頼性などの優位性はマスメディアにあるのであり、ビジネスベースではネットのモデルがメディア内に取り込まれるが、言論の質とか言説のバリエーションではネットがメディアを補完して、拮抗的競合というよりもむしろ促進的共存が起こるのかもしれない。その意味では、私はネット言論がメディアを圧迫したり、代替となったりはしないような気がする。例えば「紙」ベースの”ビジネス”としてのモデル理論は多分色々あるのではないのかな、と思うのですけれども。


促進的共存は、あたかもカスケードのようであり、ネット上の個人発の意見→集積の場→仮想「ネット世論」→マスメディアというような流れが起こりつつある、と思うのである。従来取材する少数記者→マスメディアであったものが、少数記者の部分に至る過程で個人が参加しているということである。記者は、どのような視点・問題意識を持つか、ネットに散らばる情報の抽出能力や真贋見極め能力が必要になると思う(情報をネットレベルからマスメディアレベルにジャンプさせることは、個人ブロガー程度では今の所かなり難しい)。こうしたカスケードが割りと分かり易く見てとれたのは、NHKvs朝日の問題の時やライブドア問題の時などであった。マスメディアに先んじてネット上での情報集積が進められ、マスメディアはそうした流れを見つつ、報道にも反映させていたのではないかと思う。その一方で、情報の重要性は誰しも判ってはいるが、そういう情報を集めてその結果どのように考え、何に役立て、今後どういうことを考えていくか、という部分に関しては、言論の本質的な部分ですから、そこの部分に対しては各マスメディアとも専門家、文化人や著名人にコメントを取っていた。これはある意味、ネット上の言論についての公の検証作業とも言えるかもしれません。ここまで進められれば、単にネット上の情報とか意見というのを越えて、社会的に有用なものとなり得るのではないかと思います。


スパコンと無数の並列PCの単純な競合関係ではなくて、スパコン(=メディア)もネットワークの一部を構成し、それに繋がる無数の並列PCのネットワークが全体の演算を助けると思えば、ネット言論はカスケードの威力でマスメディアによって増幅効果を与えられることにもなるのではないかと思う。そういう関係を双方が築き上げるかどうかは、これからのネット言論の動向によるかもしれない。果たしてこれを選択するのだろうか。


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