キャンプも第一クールは新戦力が主役、今日はルーキーたちの動向が多く伝えられています。
ブルペンで101球を投げ込んだ酒居、4日連続ブルペン入りの有吉には伊東監督も即戦力と好印象のようで、今の感じであれば早い段階での実戦登板のチャンスが得られるでしょう。
酒居は朝の挨拶で二桁勝利宣言をして達成をしたら松永に車のおねだりと報じられましたが、涌井が角中にタイトルのご褒美で200万円の時計をプレゼントしたのに比べても値が張りますので松永がどう応じたのかが激しく気にもなりますが、もし達成できたら球団には車代ぐらいをイロを付けてアップ査定をしてやってください。
何にせよ紅白戦で結果を出してオープン戦の登板キップを手にできるかどうか、酒居はキレ、有吉はコントロールを評価されているようですが、守りに入らないよう期待しています。
一方で一番の注目の佐々木はもちろん他の選手に比べて求められるもののレベルが高いのでしょうが、伊東監督からは「何球かいいボールはあった」「真っ直ぐはまだまだ」と厳しめのお言葉で、まだ映像でしか見たことがないのですがためが感じられないフォームがやや気がかり、生真面目っぽいのが心配だったりもします。
酒居や有吉もそうですがプロでのペース配分も分かっていないでしょうし、気をつけろと声をかけるだけではなく止めることもコーチ陣の大事なお仕事ですのでお忘れなきよう、甲子園でのピッチングが目一杯に思えたのであまり評価をしていなかった西武の今井が一軍キャンプでさっそくに肩を痛めたのは他人事ではありません。
今日は島、種市の高卒ルーキーもブルペンで帽子が吹っ飛ぶ熱投を見せたようですが、じっくりじっくり、こつこついきましょう。
野手では宗接が伊東監督のアドバイス、とは言っても「思い切りバットを振れ」ですのでどれほどの効果があったかは分かりませんがロングティーでスタンドインを連発とのこと、これがフリーバッティングやシートバッティングとなればどうなるかは未知数ながらもパワーがあるのはよいことです。
捕手ですのでリード、肩、守備が一番ではありますが打てなければ田村の牙城を崩すことなどはできませんので、どうやらファーストインプレッションでは「言ったことがすぐできる」と伊東監督にアピールできたようですから開幕一軍に向けてもう一押しできるよう、男宗接のバットで勝負です。
できれば姫路で一本にまとめたかったのですがgooブログの文字数制限がありますので、姫路城を出た後は別の記事となります。
とりあえずは黒田官兵衛と銘打ってみましたが、ここ姫路は赤松氏から戦国期は小寺氏配下の黒田氏が居城としたところで、トップの写真は黒田氏のときの姫路城です。
姫路城の百間廊下に展示してあった模型なのですが城と言うよりは居館と言うべきか、天守閣などの本格的な城郭は織田信長以降と言われていますのでこんなものなのでしょう。
後に筑前福岡藩52万石余の大名となった黒田氏は近江源氏京極氏の庶流を称していますが、しかし資料上で遡れるのは官兵衛孝高の祖父である重隆までで、その父とされる高政との関係には疑問視、そもそも高政を架空の人物とする説もあるとのこと、信長ですら曾祖父が誰かがあやふやだったりもしますので、系図フリークとしては悩ましいところです。
重隆は備前福岡に在していたことから官兵衛、長政が筑前の地に入った際に福岡と命名したとのこと、その地が黒田氏発祥との認識があったのでしょう。
凡例は赤字が当主、下線がそのうちで写真でご紹介ができるものとなります。
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姫路城を出てまず向かったのが、妻鹿にある黒田氏廟所です。
番地までが分からなかったために交番で道を聞いたところ、用意のいいことに近辺の地図のコピーをもらえたのは大河ドラマで訪れる人が増えたのが理由とのことで、この廟所にも軍師官兵衛ゆかりの地、との幟がありましたから、やはり大河ドラマこそが一番に効率のいい公共事業ではないかと思います。
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ここに眠っているのは官兵衛の父、職隆は軍師官兵衛では柴田恭兵が演じた武将で、主君である小寺政職の養女を娶って家老に列し、小寺職隆と名乗りました。
姫路城の城代となったのはこの職隆の代のときで、隠居後も官兵衛を支えた名将と評されています。
この墓所は江戸期に発見されて福岡藩に報告が上がったことで整備がされ、現在は姫路市指定文化財となっています。
交番でもらった地図にあったので、せっかくですから足を伸ばしてみたのが妻鹿城跡です。
功山城、あるいは国府山城とも呼ばれていた山城で、官兵衛が姫路城を羽柴秀吉に譲った後に父とともに居城としたとは説明板の受け売りです。
その説明板には復元図もありましたが小さめの山にしては複雑な縄張りで、築城の名手と言われた官兵衛の出発点だったのかもしれません。
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山城ですのでどうしようかと迷ったのですが杖も用意されていましたし、とりあえず暫く行ってみようとチャレンジです。
しかし5分ほどで道が消えてしまったのであっさりと断念、本丸跡には20分ほども歩けばよいとは帰ってきてから調べてみての後の祭りではあるものの、さすがにあのただの山肌を15分以上も突き進む勇気がなかったのは準備不足も手伝って、仕方がなかったと自分に言い聞かせています。
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次に向かったのは御着城跡です。
小寺氏の居城で、当時の播磨では別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに播磨三大城と呼ばれていました。
赤松氏の庶流である小寺氏は当主が討死をするなどした赤松氏を巡る浦上氏らとの戦いを生き抜いて西播磨に勢力を伸ばし、しかし毛利氏と織田氏の間で右往左往した挙げ句に政職が官兵衛を裏切ったことで織田氏に攻められて御着城は落城、毛利氏に逃げ込んだ政職はその地で没してしまいます。
政職の子の氏職は黒田氏に保護されて福岡藩士として小寺氏は続きますが、命を取られてもおかしくはない裏切りをした主君の血筋を絶やさなかったのは強国に挟まれた国衆の悲哀への理解が官兵衛にあったからなのか、そのあたりは分かりませんが美談の一つとして伝えられています。
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そんな御着城跡には、これといって何も遺されていません。
土塁などがあるようですが城風の公民館で聞いてみましたが「知らない、分からない」とのことで、ただの御着城跡公園でしかありませんでした。
そこに官兵衛の顕彰碑があるってのもどうなんだろう、新しめなのであるいは大河ドラマをきっかけに作られたものなのかもしれず、何にせよ興ざめ気味です。
つまりは目的は城跡ではなく、隣接をしている黒田氏廟所です。
こちらには軍師官兵衛では竜雷太が演じた重隆は官兵衛の祖父、また官兵衛の母である明石氏の墓があります。
ただ重隆の墓は特定はできませんでしたが高政とともに備前長船妙興寺にありますし、重隆の正室である妻鹿氏であればまだしも息子の職隆の正室、この明石氏が小寺政職の養女となって嫁いだのですが、それが並んでいるのには違和感がありますし御着城跡にあるのもそう、こちらは供養塔と考えるべきなのでしょう。
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黒田氏の祖とも言えるのが、この重隆です。
重隆は父とされる高政とともに流浪の後に備前福岡に落ち着き、さらには播磨に移り住んだときに目薬で財を成したと伝えられています。
その財を元手に勢力を伸ばして小寺氏に仕えたのが黒田氏勃興のきっかけとは司馬遼太郎の作品にもありますが、しかしこれらは伝説の域を出ていません。
資料上に黒田氏の目薬、冷珠膏なるものの処方は遺されていないとのこと、物語としては面白いですし、それに近いことはあったのかもしれませんが、その程度のものなのでしょう。
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次なるは正法寺です。
ここには池田輝政の供養塔があり、この後にご紹介する随願寺にも同じく供養塔がありますので、それだけ姫路の地にとっての輝政が偉大な武将だったということなのでしょう。
池田氏は3代光政が幼少だったことで姫路の地を去り鳥取、後に岡山へ移りますが、池田氏に代わって姫路に入った本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏よりも色濃く跡を遺しています。
この旅の最後は随願寺です。
できれば本多氏、榊原氏、松平氏の廟所のある圓教寺にも行きたかったのですが、特定日を除いて非公開とのことで今回は諦めました。
しかし随願寺にも榊原氏の墓所がありますので最後を飾るには相応しく、そして難関でもあり、かなりな坂道を延々と自転車を押して1キロ以上、折れそうな心に鞭打って、が大げさではないのは地元の方には分かっていただけるはず、それが結果的に幸いを導きましたので頑張ってみるものです。
こちらは開山堂で随願寺の最古の建物で、これを見たときの安堵感と言いますか達成感と言いますか、半端なかったです。
徳川四天王の一人である榊原康政の跡は、嫡男の忠政が母の実家である大須賀氏を継いだために庶子で三男の康勝が継ぎました。
しかし康勝が26歳で没し、嫡男の勝政が3歳と幼少であることから従兄弟の忠次が跡を襲い、この襲封には幼君では武功が立てられないとそれを嫌った家老が勝政の存在を幕府に隠したとの俗説もあるようですが忠次も11歳でしかなく、やはり幼少、かつ病身だったことがその理由だったのでしょう。
ただ忠次は榊原氏の嫡流ですから落ち着くところに落ち着いたとも言えますし、結果的に旗本となった勝政の存在が榊原氏の血を繋ぐことになります。
凡例は赤字が当主、下線がそのうちで写真でご紹介ができるもので、ちなみに政房、政祐の墓所は圓教寺にあります。
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開山堂の隣にあるのが、榊原忠次の墓所です。
忠次は遠江横須賀での大須賀氏から榊原氏を継いで上野館林に移り、その後に陸奥白河を経て播磨姫路で榊原氏としての初代藩主となりました。
墓所は唐門が閉ざされていたので中には入れず、乗り越えようと思えば乗り越えられる高さの塀ではありましたが、そこは大人ですので無茶はしません。
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そんなこんなで横っ腹からの撮影となります。
正面には亀に背負われた碑石があり、林羅山の子である林鵞峰の手による約3000文字からなる忠次の生い立ちから姫路城主になるまでの経緯、存命中の業績などの一代記が刻まれていて、この碑文を一字も間違えずに読むことができれば亀が動き出すとの伝説があるとは例によって説明板の受け売りです。
石灯籠で囲まれる立派な墓所に葬られるだけの文武両道に秀でた人物だったようで、大政参与なる幕府の要職にも就いています。
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こちらは本堂ですが、開山堂や榊原忠次墓所唐門などとともに国指定重要文化財となっています。
いつもどおりにお寺の方にご挨拶をさせていただいたところ汗だくを見て、「どこから来たの」「千葉から来ました」「凄い汗かいてるね」「自転車を押して登ってきたので」「え~、それは凄い、大変だったね」と冷たいお茶やお菓子をごちそうになり、さらには分かりづらかった榊原政邦の墓所、地蔵院跡の行き方を教えていただきました。
地図を書いていただけなければあんなに短時間で政邦の墓所までは行き着けなかったでしょうし、地蔵院跡はきっと断念をしたでしょうからご厚意に感謝の言葉もありません。
その政邦の墓所は分かっていれば本堂から10分もかからないところにありますが、標識のようなものは途中にありませんので迷うのには充分な距離です。
正室と並んであり、また側室の墓も側にあるのですが男尊女卑で申し訳ありません、女性の墓はよほどに著名でない限りは守備範囲外ですのでパスさせていただきました。
政邦の遺言でここ増位山に葬られ、また三年後に亡くなった正室もその遺言で並んで葬られましたので、仲睦まじかったのでしょう。
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政邦は康勝の曾孫で、旗本となった勝政の孫となります。
本家の政倫が子がないままに19歳で早世をしたことで跡を継ぎ、また政倫が幼少で家督を継いだことから西国の要衝である姫路は任せられぬと越後村上に転封をされていたものを再びに姫路に復しましたので優秀な人物だったのでしょう、名門ということだけでは説明できないように思われます。
この政邦の分家榊原氏は忠次の子の政房が奔走して勝政を旗本に取り立ててもらったことから始まり、本来であれば忠次、政房の系統が嫡流ですので「家督を奪った」ことへの罪悪感を持つ必要もなかったはずなのですが、これが康政の血を絶やすことを防いだのですから政邦もまたひとかどの人物だったのでしょう。
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最後は地蔵院跡です。
最初に出会った開山堂の対面にあり、真新しい説明板もありましたので奥に行けば池田輝政、小寺休夢斎の供養塔があることは分かっていたのですが、こちらの池田輝政の供養塔は10メートルも入れば見つかったので楽勝かと思いきやその先がさっぱり分からず、気弱に後回しにしていました。
お寺の方には目印になるようなものが無いので簡単に行き方、道っぽいところを左に左に、との言葉を頼りに「5分で見つからなかったら戻る」を合い言葉に前進です。
かなり不安だったのですが無事に到達、ただ明るかったからよかったものの、鬱蒼とした薄暗さがあればきっとたどり着けなかったと思います。
この小寺休夢斎の供養塔は2014年8月に見つかったものですので、それこそほやほやで湯気が立っている状態です。
戦国時代に荒廃した随願寺の本格的な復興がされた17世紀に建立されたものとみられる、とは真新しい説明板の語るところでした。
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供養塔ということもあり、他の僧侶との合同になっています。
中央の善慶法印が小寺休夢斎、地蔵院善慶と号した職隆の弟、官兵衛の叔父にあたる高友です。
軍師官兵衛では隆大介が演じた高友は出家した後も官兵衛に従い戦陣に身を投じ、また豊臣秀吉に御伽衆として仕えるなど著名な人物でした。
墓所ではありませんがこういった新しい発見がありますので、一度行ったところを何でまた行くの、などと呆れたように問われても、こればっかりは止められません。
【2016年8月 兵庫、大阪の旅】
白い白鷺城
白い白鷺城 旅程篇
白い白鷺城 旅情篇
白い白鷺城 京セラドーム大阪篇
白い白鷺城 史跡巡り篇 赤穂の巻
白い白鷺城 史跡巡り篇 龍野の巻
白い白鷺城 史跡巡り篇 明石、尼崎の巻
白い白鷺城 史跡巡り篇 姫路の巻 姫路城の章
白い白鷺城 グルメ篇
白い白鷺城 スイーツ篇
白い白鷺城 おみやげ篇
節分でコンビニなどがバイトの高校生に恵方巻きを50本ノルマにしているなんてニュースが流れる中で、石垣島ではパラデス&ダフィーが豆まきにかり出されました。
この両新外国人選手や佐々木などのルーキー、つまりは新戦力が第一クールでは話題のネタで、初めての休日ではまたルーキーたちが民族衣装を着せられるのか、牛車に乗せられるのか、さすがに西表島まで足を伸ばして自然とたわむれるなんてことにはならないでしょうが、暫くは新しきものに華、といったところなのでしょう。
チームとして喫緊の課題であるポスト鈴木、ショートのレギュラー争いはそのうちに取り上げられるかなと、練習では中村と平沢がショートに、大嶺翔はサード、高濱はファースト、三木はショートとセカンドだったようですが、まだまだこれから、紅白戦あたりはやはり中村と平沢であっても、開幕までまだ二ヶ月弱もあります。
そんな石垣島はやはり雨が難敵です。
気温は20度を超える日が続きますので選手としては動きやすいでしょうし、とりあえずは屋外での練習ができなくなるほどの雨予報はありませんが、しかし晴れマークもありません。
自分が訪れる予定の第三クールあたりには長期予報で傘マークがあり、これで離島にでも行こうかと思っている休日に雨でも降られたらホテルに閉じこもることになります。
5年前の石垣島も二日とも降ったり止んだりながらも屋外での練習は両日とも無かったですし、今回もそうなれば次回への高すぎる心理的なハードルになるでしょう。
そうならないためにも今回は全日などという贅沢は言いません、それでも半分ぐらいは雨を気にしないでいいような天候であることを、雨は外、でお願いします。
ユニフォームの右胸のスポンサーがネクソンからガンホーに変わるとのこと、ネクソンは昨年12月にもロッテと提携をしての野球教室を開催していたのでちょっと意外だったのですが契約期間が満了だったのか、継続とならなかったのはQVCと同じく宣伝効果は充分にあったとの判断だったのかもしれません。
そのガンホーはまたしてもゲーム会社で韓国系かと思いきや、資本関係はやや弱まったもののソフトバンクグループですので敵から塩をもらったような感じです。
金を出してくれるのであればどこでもいいのですが微妙と言えば微妙、右胸と言うよりは右肩のワッペンも微妙、これまで以上に個人的には見てくれが不満です。
そんな新ユニフォームを身にまとった選手たちは降りそうで降らないギリギリの石垣島で順調に練習をこなしているようで、パラデス&ダフィーの柵越え本数はインカビリアで懲りているので参考程度に、佐々木のオーバーワーク気味なブルペンがやや心配、土肥の線の細さに木村を思い出し、コントロールを評価された有吉はめっけものになるのか、ショート争いの候補に高濱の名前が伊東監督から出たのにホッと一息、そして対外試合初戦の先発となる大嶺祐には背番号剥奪の怒りをぶつけるピッチングを見せてください。
デスパイネの後釜として期待をされる両外国人選手、パラデスとダフィーの入団会見がありました。
生真面目なファーストインプレッションもプレーでNPBに順応できるかどうか、人柄だけで起用し続けるほどの余裕が今のチームにはありません。
ポジションの問題もあり意外に早く判断が下されるかもしれず、フリー打撃で柵越え連発、などに惑わされることなく、石垣島でチェックをしたいと思います。
ロッテ新加入パラデス&ダフィーがワクワク入団会見 (1/31 日刊スポーツ)
ロッテに新しく加わったジミー・パラデス内野手(28=フィリーズ)とマット・ダフィー内野手(27=アストロズ)が31日、石垣市内で入団会見を行った。
パラデスはメジャー通算20本塁打。
退団したデスパイネに代わる4番候補として期待されている。
「チャンスをくれた千葉ロッテに感謝している。勝利に貢献できるよう頑張りたい。攻撃面を一番見てほしいが、ガッツがあるところも見てほしい。守備でも貢献できる」とアピールした。
背番号は、42。
ダフィーは、15年に3AでMVPの実績を持つ。
「ロッテに入りワクワクしている。一塁、三塁のコーナーを守れる。打撃では、ランナーをかえして打点を挙げる。ランナーがいる時の打撃を見てほしい」と話した。
背番号は、5。
どうしても注目せざるをえないのはポジション争いです。
本人は守備もアピールのパラデスですがセンターを守れるのであればまだしも、そうでなければ球団の方針どおりにDHとなるのでしょう。
デスパイネの代わりであれば妥当なところですし、今江も真っ青の四球の少なさが不安材料ですが、二年前にメジャーで.275の10本塁打の打撃力は期待が高いです。
ポイントになりそうなのがダフィーでファーストとサードを守れるようですが当面はサードとのこと、そうなれば背番号8を背負うことになった中村の居場所がなくなります。
本来のポジションはセカンドですが鈴木がコンバートされることになりましたし、ショートはまずは平沢なのでしょう、しかしミスターロッテの後継者として期待をされて昨季もこれでもかと起用されたことを考えれば中村にはサードを守らせたいはず、早い段階からダフィーがファーストに回されるかもしれません。
ただそのファーストには井口、福浦の両ベテランに大砲候補の井上がいるわけで、細谷には外野の選択肢があるにしても主戦場はファースト、サードになります。
高いレベルで競い合ってくれれば嬉しい悲鳴ですがナバーロの見切りが遅れたことの二の舞になりやしないかと、そこはベンチの腕の見せどころです。
外国人選手が額面どおりに活躍をしてくれればよし、その外国人選手を追いやる日本人選手が出てくればなおよし、楽しい夢を見させてください。
ちなみにダフィーの背番号は4で、5はゴメスの緊急獲得のために空けておくのかとも思っていたのですが、先に話題となった外国人投手の獲得も無いままに打ち止めになりそうです。
いよいよ姫路城です。
今回の旅の目的は白い白鷺城、一昨年に終わった平成の大修理で白く生まれ変わった城が3年もすれば、とも言われているくすみの前に見ておきたい、ただその一念でした。
そして噂どおりの白さにビックリ、これが本来の姿と言われてもやはり違和感はあり、しかしその美しさに感動との言葉しか出てきません。
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とにかく白い、もうそれしか言いようがありません。
例によって空が白み始めたぐらいからのスタートでしかしまだ開城はしていなかったので周りをぐるりと、時間はたっぷりあったのでいろいろな角度からの天守閣です。
まだ薄暗かったときにはさほどに感じなかったのですが光を浴びれば白さがくっきり、白すぎるとも言われるのも納得の白化粧でした。
この天守閣は弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城とともに現存天守12のうちの一つで、そのうち姫路城、松本城、犬山城、彦根城は国宝に指定をされて「国宝4天守」とも呼ばれていましたが、一昨年に松江城も国宝に指定をされたことで今は「国宝5城」となっています。
外周をぐるりと巡って見つけたのが、鷺の清水です。
名水として知られた石組み井戸の遺構で、播磨十水の一つだそうですが柵に囲まれていて飲めるような感じではありませんでした。
この近くにあったのが清水門、とは、この鷺の清水から名前が付けられています。
いよいよ城内へ、この大手門をくぐると広い公園のような敷地が広がっていて、地元の方が早い時間からくつろいでいました。
天守閣も見えますし、団体旅行で記念撮影をするスポットにもなっています。
一気にその天守閣を目指したかったのですがまだ開城前でしたので、敷地内をうろついてみます。
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展示してあったのは旧西大柱で、もう一本の東大柱とともに天守閣を支えていました。
昭和の大修理のときに入れ替えたもので、つまりはこれが築城当時のものとなればご苦労様と、思っていたよりも太さがないのでビックリしたのが正直なところです。
羽柴秀吉が築いたときの石垣が遺されているのが上山里下段で、黒田官兵衛の手によるものと伝えられています。
打込み接ぎや切込み接ぎとは違って自然石をそのまま積み上げた野面積みで、石並みがきれいに揃ったものもいいですが、こちらの方が城という感じがしないでもありません。
混雑時には入城制限もありますが、この日は平日ということもあり100メートルほどの行列はありましたが無事に、さして待たされることなく入城することができました。
天守閣の美しさはもちろんですが姫路城の素晴らしいところは多くの櫓、門が現存していることで、菱の門をくぐっていの門、ろの門・・・と時計回りに天守閣を目指します。
基本、写真に人が写り込むのが嫌いな絵はがき派ですので苦労はしましたが、ざっと城内をご紹介します。
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菱の門は現存する21の門のうちで最大の大きさを誇り、天守閣への表玄関です。
1月の下旬から2ヶ月間、武者の詰め所であった内部が初公開をされているとのことで、こればっかりはタイミングですので仕方がありません。
この日は快晴で水分補強は欠かせず、ろの門の手前での販売が最終ですので夏場に訪れる予定の方にはご注意ください。
写真は上段左から菱の門、いの門、ろの門、南方土塀、はの門、にの門です。
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瓦には家紋が入っています。
五三桐と巴紋だと思われますが、五三桐と言えば羽柴秀吉は姫路城の城主だったことがありますのでおかしくはありませんが、江戸期にこれがあったとも思えません。
ただやはり城主だった池田氏も五三桐の家紋を使っていたとの話もあるようで、このあたりは保留としておきます。
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姥ヶ石は築城のときの伝説としては珍しいものではなく、羽柴秀吉が築いたときに石集めに苦労をしていたところで城下で餅を焼いて売っていたお婆さんが石臼を寄付した、と伝えられていますが、しかしこのあたりの石垣は池田輝政のときのものらしいので作り話と説明板にもそうありました。
そもそもこの話は明治、もしくは大正に入ってからのものらしく、一つの客寄せエピソードだったのかもしれません。
写真は上段左からほの門、姥ヶ石、水一門、水二門、水三門、水四門です。
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いよいよ建物の中に入ります。
刀置き、にしては幅が広いような気がしないでもないですが槍にしては狭いですし、しかしこういうものがあると城という感じがしてきます。
これも日本人らしい工夫なのか美意識なのか、釘を隠すための飾りも印象的でした。
武者隠しはいくら昔の日本人が小柄だったにしても狭すぎですし大人数が入れるわけでもなく、いかにも何かありますという造りからしても別の用途だったような気がします。
写真は左から刀置き、六葉釘隠し、武者隠しです。
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東大柱、西大柱は城外に展示してあった先代に比べると太さがあるようにも見えましたが、この二本が天守閣を支えているとなると役割の重さが分かります。
相当な高さがありますのでこれだけの大木を探すのも大変だったでしょうし、城は権力の象徴でもあったのでしょう。
写真は左が東大柱、右が西大柱です。
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こちらの厠は常時ではなく戦のときに使われるためのものとのことで、実際に使われたことはないようです。
学生のときにシロトピアという博覧会のようなものがあったのですが、そのときには内部が公開をされていて見たはずなのですが30年ぐらい前のことで記憶にありません。
覚えているのは城外でビジーフォーのステージが行われていたこと、雨がぱらついていたこともあり客席は閑散としていました。
天守閣から出るところの石段は築城当時からのもので、ここを秀吉が歩いたかと思えば感慨深いものがあります。
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本丸にあたる備前丸には城主が住んだ居館があったとのことですが、なぜに播磨で備前丸なのかは分かりません。
そこから備前門を抜けて下っていくことになりますが、途中にあるのがお菊井戸です。
皿屋敷と言えば番町皿屋敷が有名ですがこちらは播州皿屋敷、いずれもお菊さんの「一枚・・・二枚・・・」ですが、この手の話は日本の他の地域でもあるようです。
写真は上段左から備前丸、帯の櫓、太鼓櫓、りの門、ぬの門、お菊井戸です。
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ぬの門の手前にあるリの一渡櫓は修復工事中で、中に鯱が展示されていました。
明治、昭和、そして平成のそれは時代が下るにつれて雑と言いますかデフォルメと言いますか、威厳のようなものが無くなっているような感じがあります。
平成のものは表面がのっぺりとしているように見えるのは新しいからなのか、あるいは鱗が省略をされているのがその理由かもしれません。
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菱の門まで戻って、次は西の丸を攻めます。
西の丸南門は残念ながら遺されていませんが、高麗門の礎石が残っています。
その脇には武者溜りがあり番所のような細長い建物があったとのことで、攻め込んできた敵を迎え撃つためのものだったのでしょう。
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西の丸はいくつかの櫓と、百間廊下でぐるっと囲まれています。
ここにある化粧櫓は千姫が住んでいた場所で、豊臣秀頼と死別した千姫が本多忠勝の嫡孫で姫路城主だった忠刻に一目惚れをしての押しかけ女房だったとも言われています。
千姫を大阪城落城から救った坂崎出羽守が公家への再嫁を段取ったところがこの成り行きに憤慨をして、がその後の悲劇に繋がりました。
写真は上段左からカの櫓、ワの櫓、ヲの櫓、ルの櫓、百間廊下、化粧櫓です。
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最後に全景となります。
姫路城の素晴らしさはこの全景に尽きるのではないかと、もちろん天守閣を筆頭にした一つ一つの櫓、門なども素晴らしいのですが、これらが一体となって一望できること、幸いにも戦災や災害、明治期の破却から逃れたことで多くの建物が遺っているからこそではあるのですが、これだけの全体美は他に類を見ません。
足を運ばれる機会があれば姫路城の近くにあるイーグレひめじの5F展望台から、是非ともこの全景をお楽しみください。
【2016年8月 兵庫、大阪の旅】
白い白鷺城
白い白鷺城 旅程篇
白い白鷺城 旅情篇
白い白鷺城 京セラドーム大阪篇
白い白鷺城 史跡巡り篇 赤穂の巻
白い白鷺城 史跡巡り篇 龍野の巻
白い白鷺城 史跡巡り篇 明石、尼崎の巻
白い白鷺城 史跡巡り篇 姫路の巻 黒田官兵衛の章
白い白鷺城 グルメ篇
白い白鷺城 スイーツ篇
白い白鷺城 おみやげ篇
ようやくに鈴木のセカンドコンバートが本格化をしそうです。
キャンプ前日に伊東監督が明言をしましたから、故障者が続出をするなどの緊急事態にでもならない限りは貫徹する意思があるのでしょう。
鈴木のセカンドはルーキーイヤーからずっと推していましたから個人的にはウエルカムで、本人には戸惑いもあるでしょうが、長い目で見ればプラスに働くと信じています。
ロッテ鈴木が二塁コンバート 伊東監督明言 (1/31 デイリースポーツ)
ロッテ・伊東勤監督がキャンプイン前日の31日、鈴木大地内野手(27)の遊撃から二塁へのコンバートを明らかにした。
この日、石垣島での選手による自主トレを視察した際に、「明日から二塁をやらせていく」と語ったもので、空いた遊撃のポジションはプロ2年目の平沢大河内野手(19)を中心に争うことになる。
鈴木は昨季、遊撃手として自身2回目のベストナイン受賞を果たしているが、伊東監督は、「(今季)は二塁でいってもらう」とコンバートを明らかにするとともに、「何人かで競争してもらわないといけない」とチーム内の活性化を図るのが最大の狙いだ。
鈴木は昨季、何試合か二塁を守っているが、本格的な挑戦は初めてだ。
この日の練習中、伊東監督に正式に伝えられた。
「あやふやにされず監督に正式に言ってもらったことに意味がある」と前向きに捉えて、「昨年も二塁の練習はしてきた。キャンプでゆっくり、じっくりと練習をし、しっかりスタートしたい」と決意を示した。
今回のコンバートはチーム内の競争とともに、遊撃手として平沢の本格的な育成があると見られる。
平沢は「監督は話されたのは(ボクに)ショートをしっかりやれという意味も含まれていると思う」と早くも意欲をのぞかせた。
現在の体重は78キロでベストのようで、「秋季練習での課題に対して今キャンプで成果を見せたい」と話し、2年目の飛躍を誓っていた。
本来であればクルーズを獲得したときにコンバートをしたかったのですが、一時はセカンドを守りながらもクルーズの雑さで元に戻ってしまいましたからベンチからすれば三年越しのプランではないかと、平沢を獲ったことからして遅かれ早かれ鈴木のセカンドは既定路線だったのでしょう。
それでも前向きなコメントを口にはしているものの鈴木には当然の悔しさがあるはず、プロになるためにはショートを守れなければ、とサードから志願をしてのコンバートで指名を勝ち取ったこともあり、ショートにはかなりのこだわり、難しいポジションをこなしながらもベストナインに選ばれた自負もあるはずです。
ただ守備範囲も広くなってきましたし年々に上手くなってきてはいるものの、ショートしては物足りない肩への指摘も少なくはありませんでした。
今すぐどうこうといった必然性はないとしても、数年後を考えればこのコンバートは正しい判断だったと振り返ることができると思います。
それでも目先、何度か守ったことがあるにしても実戦でのとっさの判断ではこれまでと動きが逆になることでミスも出るでしょうし、心理的な不安も手伝っての肝心の打撃への悪い影響が出るかもしれませんが、大事なのはベンチがぶれないこと、何があっても鈴木をセカンドから動かさないという信念がなければなりません。
おそらくは平沢に相当な我慢をするベンチだとは思いますが、その我慢が実を結ばなくとも鈴木はセカンド、ショートは他の選手で競わせる、これが大前提です。
せっかく自分に言い聞かせるようにして新しいポジションに挑む鈴木の心を惑わせないよう、それだけは強く望みます。