オリオン村(跡地)

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白い白鷺城 史跡巡り篇 姫路の巻 黒田官兵衛の章

2017-02-05 01:01:17 | 日本史

 

できれば姫路で一本にまとめたかったのですがgooブログの文字数制限がありますので、姫路城を出た後は別の記事となります。
とりあえずは黒田官兵衛と銘打ってみましたが、ここ姫路は赤松氏から戦国期は小寺氏配下の黒田氏が居城としたところで、トップの写真は黒田氏のときの姫路城です。
姫路城の百間廊下に展示してあった模型なのですが城と言うよりは居館と言うべきか、天守閣などの本格的な城郭は織田信長以降と言われていますのでこんなものなのでしょう。

後に筑前福岡藩52万石余の大名となった黒田氏は近江源氏京極氏の庶流を称していますが、しかし資料上で遡れるのは官兵衛孝高の祖父である重隆までで、その父とされる高政との関係には疑問視、そもそも高政を架空の人物とする説もあるとのこと、信長ですら曾祖父が誰かがあやふやだったりもしますので、系図フリークとしては悩ましいところです。
重隆は備前福岡に在していたことから官兵衛、長政が筑前の地に入った際に福岡と命名したとのこと、その地が黒田氏発祥との認識があったのでしょう。
凡例は赤字が当主、下線がそのうちで写真でご紹介ができるものとなります。

姫路城を出てまず向かったのが、妻鹿にある黒田氏廟所です。
番地までが分からなかったために交番で道を聞いたところ、用意のいいことに近辺の地図のコピーをもらえたのは大河ドラマで訪れる人が増えたのが理由とのことで、この廟所にも軍師官兵衛ゆかりの地、との幟がありましたから、やはり大河ドラマこそが一番に効率のいい公共事業ではないかと思います。

ここに眠っているのは官兵衛の父、職隆は軍師官兵衛では柴田恭兵が演じた武将で、主君である小寺政職の養女を娶って家老に列し、小寺職隆と名乗りました。
姫路城の城代となったのはこの職隆の代のときで、隠居後も官兵衛を支えた名将と評されています。
この墓所は江戸期に発見されて福岡藩に報告が上がったことで整備がされ、現在は姫路市指定文化財となっています。

交番でもらった地図にあったので、せっかくですから足を伸ばしてみたのが妻鹿城跡です。
功山城、あるいは国府山城とも呼ばれていた山城で、官兵衛が姫路城を羽柴秀吉に譲った後に父とともに居城としたとは説明板の受け売りです。
その説明板には復元図もありましたが小さめの山にしては複雑な縄張りで、築城の名手と言われた官兵衛の出発点だったのかもしれません。

山城ですのでどうしようかと迷ったのですが杖も用意されていましたし、とりあえず暫く行ってみようとチャレンジです。
しかし5分ほどで道が消えてしまったのであっさりと断念、本丸跡には20分ほども歩けばよいとは帰ってきてから調べてみての後の祭りではあるものの、さすがにあのただの山肌を15分以上も突き進む勇気がなかったのは準備不足も手伝って、仕方がなかったと自分に言い聞かせています。

次に向かったのは御着城跡です。
小寺氏の居城で、当時の播磨では別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに播磨三大城と呼ばれていました。
赤松氏の庶流である小寺氏は当主が討死をするなどした赤松氏を巡る浦上氏らとの戦いを生き抜いて西播磨に勢力を伸ばし、しかし毛利氏と織田氏の間で右往左往した挙げ句に政職が官兵衛を裏切ったことで織田氏に攻められて御着城は落城、毛利氏に逃げ込んだ政職はその地で没してしまいます。
政職の子の氏職は黒田氏に保護されて福岡藩士として小寺氏は続きますが、命を取られてもおかしくはない裏切りをした主君の血筋を絶やさなかったのは強国に挟まれた国衆の悲哀への理解が官兵衛にあったからなのか、そのあたりは分かりませんが美談の一つとして伝えられています。

そんな御着城跡には、これといって何も遺されていません。
土塁などがあるようですが城風の公民館で聞いてみましたが「知らない、分からない」とのことで、ただの御着城跡公園でしかありませんでした。
そこに官兵衛の顕彰碑があるってのもどうなんだろう、新しめなのであるいは大河ドラマをきっかけに作られたものなのかもしれず、何にせよ興ざめ気味です。

つまりは目的は城跡ではなく、隣接をしている黒田氏廟所です。
こちらには軍師官兵衛では竜雷太が演じた重隆は官兵衛の祖父、また官兵衛の母である明石氏の墓があります。
ただ重隆の墓は特定はできませんでしたが高政とともに備前長船妙興寺にありますし、重隆の正室である妻鹿氏であればまだしも息子の職隆の正室、この明石氏が小寺政職の養女となって嫁いだのですが、それが並んでいるのには違和感がありますし御着城跡にあるのもそう、こちらは供養塔と考えるべきなのでしょう。

黒田氏の祖とも言えるのが、この重隆です。
重隆は父とされる高政とともに流浪の後に備前福岡に落ち着き、さらには播磨に移り住んだときに目薬で財を成したと伝えられています。
その財を元手に勢力を伸ばして小寺氏に仕えたのが黒田氏勃興のきっかけとは司馬遼太郎の作品にもありますが、しかしこれらは伝説の域を出ていません。
資料上に黒田氏の目薬、冷珠膏なるものの処方は遺されていないとのこと、物語としては面白いですし、それに近いことはあったのかもしれませんが、その程度のものなのでしょう。

次なるは正法寺です。
ここには池田輝政の供養塔があり、この後にご紹介する随願寺にも同じく供養塔がありますので、それだけ姫路の地にとっての輝政が偉大な武将だったということなのでしょう。
池田氏は3代光政が幼少だったことで姫路の地を去り鳥取、後に岡山へ移りますが、池田氏に代わって姫路に入った本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏よりも色濃く跡を遺しています。

この旅の最後は随願寺です。
できれば本多氏、榊原氏、松平氏の廟所のある圓教寺にも行きたかったのですが、特定日を除いて非公開とのことで今回は諦めました。
しかし随願寺にも榊原氏の墓所がありますので最後を飾るには相応しく、そして難関でもあり、かなりな坂道を延々と自転車を押して1キロ以上、折れそうな心に鞭打って、が大げさではないのは地元の方には分かっていただけるはず、それが結果的に幸いを導きましたので頑張ってみるものです。
こちらは開山堂で随願寺の最古の建物で、これを見たときの安堵感と言いますか達成感と言いますか、半端なかったです。

徳川四天王の一人である榊原康政の跡は、嫡男の忠政が母の実家である大須賀氏を継いだために庶子で三男の康勝が継ぎました。
しかし康勝が26歳で没し、嫡男の勝政が3歳と幼少であることから従兄弟の忠次が跡を襲い、この襲封には幼君では武功が立てられないとそれを嫌った家老が勝政の存在を幕府に隠したとの俗説もあるようですが忠次も11歳でしかなく、やはり幼少、かつ病身だったことがその理由だったのでしょう。
ただ忠次は榊原氏の嫡流ですから落ち着くところに落ち着いたとも言えますし、結果的に旗本となった勝政の存在が榊原氏の血を繋ぐことになります。
凡例は赤字が当主、下線がそのうちで写真でご紹介ができるもので、ちなみに政房、政祐の墓所は圓教寺にあります。

開山堂の隣にあるのが、榊原忠次の墓所です。
忠次は遠江横須賀での大須賀氏から榊原氏を継いで上野館林に移り、その後に陸奥白河を経て播磨姫路で榊原氏としての初代藩主となりました。
墓所は唐門が閉ざされていたので中には入れず、乗り越えようと思えば乗り越えられる高さの塀ではありましたが、そこは大人ですので無茶はしません。

そんなこんなで横っ腹からの撮影となります。
正面には亀に背負われた碑石があり、林羅山の子である林鵞峰の手による約3000文字からなる忠次の生い立ちから姫路城主になるまでの経緯、存命中の業績などの一代記が刻まれていて、この碑文を一字も間違えずに読むことができれば亀が動き出すとの伝説があるとは例によって説明板の受け売りです。
石灯籠で囲まれる立派な墓所に葬られるだけの文武両道に秀でた人物だったようで、大政参与なる幕府の要職にも就いています。

こちらは本堂ですが、開山堂や榊原忠次墓所唐門などとともに国指定重要文化財となっています。
いつもどおりにお寺の方にご挨拶をさせていただいたところ汗だくを見て、「どこから来たの」「千葉から来ました」「凄い汗かいてるね」「自転車を押して登ってきたので」「え~、それは凄い、大変だったね」と冷たいお茶やお菓子をごちそうになり、さらには分かりづらかった榊原政邦の墓所、地蔵院跡の行き方を教えていただきました。
地図を書いていただけなければあんなに短時間で政邦の墓所までは行き着けなかったでしょうし、地蔵院跡はきっと断念をしたでしょうからご厚意に感謝の言葉もありません。

その政邦の墓所は分かっていれば本堂から10分もかからないところにありますが、標識のようなものは途中にありませんので迷うのには充分な距離です。
正室と並んであり、また側室の墓も側にあるのですが男尊女卑で申し訳ありません、女性の墓はよほどに著名でない限りは守備範囲外ですのでパスさせていただきました。
政邦の遺言でここ増位山に葬られ、また三年後に亡くなった正室もその遺言で並んで葬られましたので、仲睦まじかったのでしょう。

政邦は康勝の曾孫で、旗本となった勝政の孫となります。
本家の政倫が子がないままに19歳で早世をしたことで跡を継ぎ、また政倫が幼少で家督を継いだことから西国の要衝である姫路は任せられぬと越後村上に転封をされていたものを再びに姫路に復しましたので優秀な人物だったのでしょう、名門ということだけでは説明できないように思われます。
この政邦の分家榊原氏は忠次の子の政房が奔走して勝政を旗本に取り立ててもらったことから始まり、本来であれば忠次、政房の系統が嫡流ですので「家督を奪った」ことへの罪悪感を持つ必要もなかったはずなのですが、これが康政の血を絶やすことを防いだのですから政邦もまたひとかどの人物だったのでしょう。

最後は地蔵院跡です。
最初に出会った開山堂の対面にあり、真新しい説明板もありましたので奥に行けば池田輝政、小寺休夢斎の供養塔があることは分かっていたのですが、こちらの池田輝政の供養塔は10メートルも入れば見つかったので楽勝かと思いきやその先がさっぱり分からず、気弱に後回しにしていました。
お寺の方には目印になるようなものが無いので簡単に行き方、道っぽいところを左に左に、との言葉を頼りに「5分で見つからなかったら戻る」を合い言葉に前進です。

かなり不安だったのですが無事に到達、ただ明るかったからよかったものの、鬱蒼とした薄暗さがあればきっとたどり着けなかったと思います。
この小寺休夢斎の供養塔は2014年8月に見つかったものですので、それこそほやほやで湯気が立っている状態です。
戦国時代に荒廃した随願寺の本格的な復興がされた17世紀に建立されたものとみられる、とは真新しい説明板の語るところでした。

供養塔ということもあり、他の僧侶との合同になっています。
中央の善慶法印が小寺休夢斎、地蔵院善慶と号した職隆の弟、官兵衛の叔父にあたる高友です。
軍師官兵衛では隆大介が演じた高友は出家した後も官兵衛に従い戦陣に身を投じ、また豊臣秀吉に御伽衆として仕えるなど著名な人物でした。
墓所ではありませんがこういった新しい発見がありますので、一度行ったところを何でまた行くの、などと呆れたように問われても、こればっかりは止められません。


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