史跡巡りは赤穂からスタート、まずは赤穂城跡です。
前身の城郭はありましたが本格的には江戸期に浅野長直が築き、その浅野氏が三代で断絶をした後は永井氏、そして森氏が幕末まで在城をしました。
ご多分に漏れず明治に入ってから解体をされてしまい、今にあるのは昭和に入ってから以降に再建をされたものです。
赤穂駅から向かってまず目に飛び込んでくるのは、大手隅櫓です。
昭和30年に連なる大手門とともに再建、城跡で唯一の櫓ですので赤穂城、となればこの大手隅櫓が紹介をされることが多いようです。
ただ時代がそうだったのか遺された古写真に忠実な再建ではないとのこと、比べてみればさほどには違わないものの面長なのが印象的ではありました。
やはり微妙に古写真とは違う大手門をくぐって城内へ、右は写真などが飾られている番所がありますが行き止まりですので、左に進んでいきます。
このあたりが三の丸になるのか、石垣がきれいに整備がされています。
赤穂藩は浅野氏のときに5万3千石ですのでそれにしては広大な敷地を有していて城跡としてもこぎれいで見事、ただ平日ということもあってか誰とも出会わず、貸し切り状態でした。
しばらく行くと左手に近藤源八宅跡長屋門、右手に大石邸長屋門です。
赤穂城の築城を指揮した甲州流軍学の近藤正純の養子が源八正憲で、妻が筆頭家老の大石良欽の娘ですので良欽の嫡孫である大石内蔵助良雄の義叔父にあたります。
また大石邸は三代57年間の邸宅との説明板ですが、その三代が浅野氏筆頭家老としての大石氏、良勝、良欽、早世した良昭、内蔵助良雄、主税良金のどこを指すのか、年数からすれば良欽から内蔵助良雄までではないかと思われますが、その説明はありませんでした。
城内に遺されている江戸期の建物は、この両者のみです。
突き当たりを右に折れると、大石神社があります。
両側にずらりと並ぶは赤穂義士像で、数えていないので確たることは言えませんがおそらくは47体、なかなかに壮観な絵面でした。
もっとも守備範囲ではないので名前が分かったのは大石内蔵助良雄、主税良金、堀部安兵衛武庸ぐらいです。
先の突き当たりを左に行けば、左手に山鹿素行の像があります。
儒学者、軍学者として名高く、津軽氏や松浦氏に知遇を得たことで家老などに取り立てられた一族が少なくありません。
本人は浅野氏に仕えて築城の際に縄張りに参画をするなどしましたが、その後に幕府の御用学である朱子学を批判したことで大石頼母助邸の一隅に謫居となります。
赤穂藩士に与えた影響も少なからず、大石内蔵助なども山鹿流の軍学、思想に心酔をしていたとも言われています。
その背後が二の丸門跡で、ただどの辺りに門があったのかはよく分かりません。
この二の丸周辺の縄張りの一部を山鹿素行が変更をしたとのことで、それが理由で像をここに設置をしたのではないかと勝手に想像をしてみたりします。
森氏の家老の森主税や村上真輔が暗殺をされたのがこの近辺で、仇討ち禁止令のきかっけとなった最後の仇討ちと言われる「高野の仇討ち」は真輔の遺族によるものです。
道を挟んだ反対側には大石頼母助屋敷門、平成21年の再建です。
頼母助良重は良欽の弟で、つまりは内蔵助良雄の大叔父にあたり、兄と同じく浅野氏の家老職、また浅野長直の娘を正室としたことで嫡男長恒、次男長武とも浅野姓を賜りました。
薬医門形式の屋敷門は当時のものに忠実かどうかは分かりませんが、その規模の大きさに浅野氏の重臣としての大石氏のポジションが見てとれます。
次はいよいよ本丸です。
平成8年の再建で、こちらは古写真や古絵図、発掘調査の成果を総合的に検討、また赤穂産の花崗岩、国産材を用いた昔どおりの伝統工法で復元がされました。
やはり5万石の大名のそれとしては不相応な偉容で、高麗門形式の二の門が出迎えてくれます。
櫓門形式の一の門も見事、きちんと整備がされているのでしょう、20年弱も経っているとは思えないぐらいに美しさに衰えがありません。
むしろ隅櫓よりこちらが赤穂城の顔、と言っていいぐらいに、威風堂堂としています。
ちなみに門扉の脇にさりげなく、何のアピールもなく日本100名城スタンプが置かれていますので、コレクターはお忘れなきようご注意ください。
本丸はやはり広々としていて、政庁たる本丸御殿がありました。
これも復元がされたのでしょうが庭園らしきものもあり、あるいは今後に御殿の再建がされるのかもしれません。
この本丸は五稜郭のように星形になっているのが江戸初期としては珍しいのではないかと、四隅に設けられた櫓などで本丸を守るに視界が開けて連携がしやすいように思えます。
本丸の一角には天守台がありますが、しかし天守閣が造られることはありませんでした。
これは幕府への遠慮とも、資金不足とも言われているようで、しかしもし遠慮であればそもそも天守台があることが矛盾と言えば矛盾、その維持コストまでをも考えれば相当な負担になったでしょうから、志半ばでそこまで手が回らなかったというのが実情なのかもしれません。
その志を継ぐかのように、赤穂義士祭に合わせて鉄のパイプで骨格を作り電球を配して夜間点灯をすることでの「光の天守閣」なるイベントがあるそうです。
本丸にある三つの門のうちの一つが、この厩口門です。
森氏のときには台所門と呼ばれていたようで、御殿の台所がこの近くにあったのかもしれません。
平成13年の再建による薬医門形式で、ただ真似ただけなのかもしれませんが本丸二の門と同じぐらいの大きさ、見た目となっています。
ここから時計回りに本丸の外側を行けば、もう一つの門である刎橋門跡が見えてきます。
二の丸が攻め込まれて本丸が危機に陥ったときには本丸南の刎橋門から逃れて橋を切り落とし、水手門から船で瀬戸内海へ逃れるための脱出口とのこと、逆にこの刎橋門から攻められたらどうするのかと心の中で突っ込みながらも、とりあえずは気が付かなかったことにしておきます。
米蔵はその名のとおりに米の集積所、もしくは備蓄倉庫として用いられていました。
二棟、もしくは三棟あったうちの一棟を再建し、今は休憩所とされているようで自転車が何台か駐まっていたので覗いてみれば、お爺ちゃんたちの社交場となっているようです。
水手門は脱出口なんて話はさておき、満潮時には海水が石垣まで迫っていたとは今の地形からすれば想像もできませんが、物資を運んできた船が横付けをする玄関口になります。
さらに本丸沿いに行けば突き当たるのが平成22年に再建の西仕切門、ここから先には進めずに行き止まりです。
二の丸を南北に二分する城壁が西仕切で、その門は「透し門」とも呼ばれていたらしく門扉に隙間があるのがその理由なのでしょう。
この隙間から門前の様子を窺いながら敵に攻撃を加えるのがその用途なのか、耐久的に弱そうなのが気にはなりますが、これも工夫の一つではあります。
赤穂城跡の最後に向かったのが赤穂市立歴史博物館ですが、その近くに清水門跡がありました。
ただどこが門跡なのかが分からず、とりあえず説明板の後方の石垣をパチリとしてみましたが、どうやら説明板の向かいの辺りがそれだったようです。
博物館はなかなかに立派な建物でしたが展示物はやはり赤穂城より赤穂義士に重きを置いているような、グッとくるようなものが無かったのが残念ではあります。
花岳寺は赤穂藩主の浅野氏、永井氏、森氏の菩提寺ですが、それよりも義士墓所があることで有名です。
浅野内匠頭長矩を中心に47義士が、これも数えたわけではないのでおそらくではありますが、まるで主君を守るかのようにして眠っています。
山門は赤穂城が解体をされたときに塩屋惣門が移設をされたもので赤穂市の指定文化財、とは帰ってきてから知ったことで予習不足がまたしても出てしまいました。
浅野内匠頭や大石内蔵助らの墓所は泉岳寺のそれが本墓でしょうから、こちらは供養墓だと思われます。
37回忌に建立をされて遺髪が納められているとのことですが、それだけに年数を経てどこから遺髪を手に入れたのか、まさか泉岳寺で掘り起こしたわけでもないでしょうし、本音を言ってしまえばかなり眉唾ではないかと、しかしそれを言うのは野暮というものでしょう。
写真は左から浅野内匠頭、大石内蔵助、堀部安兵衛です。
義士墓所からさらに奥に行けば、本来の目的である浅野氏の墓所があります。
ここには浅野氏三代、長重、長直、そして長友の墓があり、先の長矩を加えれば家祖、そして赤穂藩主の全員が揃っているのは墓フリークとしては小躍り状態です。
浅野氏の本家である広島藩、その神田山墓地と新庄山墓地は非公開、期待をしていた国泰寺でも空振り、一族の忠吉らの墓にしか詣でられなかっただけに、喜びはひとしおでした。
長重は浅野長政の三男で、家祖とはしましたが赤穂とは縁もゆかりもありません。
下野真岡から父の死後にその隠居領であった常陸真壁を継ぎ、後に常陸笠間に転封となりその地で没しました。
笠間に転じた際には旧領である真壁も欲するなどこよなく愛したようで、その本墓は真壁の伝正寺にありますので関東巡りのときに訪れることにします。
長重の嫡男である長直が、浅野氏としての赤穂藩の初代藩主です。
赤穂藩の前代は池田輝政の六男の輝興でしたが、発狂して正室らを斬り殺す事件を起こして改易をされました。
その際に赤穂城の受け取り役となったのが長直で、そのまま転封となったのには幕府にどういった思惑があったのか、長直からすればあまり気分のいいものではなかったでしょう。
この長直が今の赤穂城までに規模を広げたとは、先に書いたとおりです。
長直の跡を継いだのが長友、内匠頭長矩の父です。
家督相続から僅かに4年、33歳で早世をしたためにこれといった事績は残されていません。
長矩の母も先立っており、幼少時に父母を失い重責を一身に負ったことが長矩の短気、癇癪持ちの性格に起因をしているとの説もあるようです。
浅野氏の系図は上記のとおり、本家は長重の長兄の幸長、その跡を次兄の長晟が継いだ広島藩42万6千石です。
赤穂藩5万3千石とは桁違い、しかし忠臣蔵のおかげで一般的には浅野と言えば赤穂、そんな知名度の差に繋がっているのでしょう。
凡例は赤字が分家浅野氏の当主、下線が写真でご紹介をしているものとなります。
浅野氏の墓所よりもやや手前、義士墓所を背にした左手には森氏の墓所があります。
森氏は織田信長の信頼が篤かった三左衛門可成が大きく家を興しながらも自身は宇佐山城にて討ち死に、跡を継いだ鬼武蔵長可も小牧長久手の戦いで命を落とし、蘭丸ら三兄弟は本能寺にて信長に殉じ、六男の忠政が津山藩18万6千石を領するも跡継ぎに恵まれずに関氏から女系の長継を据えたもののその長継も嫡男の忠継、嫡孫の長成が早世、跡を継がせた九男の衆利が発狂をして改易となるなど呪われた一族であり、長継に別途与えられた備中西江原2万石を継いだ八男の長直が赤穂に転じてようやく落ち着いた感があります。
しかし跡継ぎに悩まされる系譜は変わらず、短命の藩主が多く出ました。
赤穂藩主としては初代となる長直は先のとおり津山、西江原藩主だった長継の八男で、長継の跡を継いだ西江原藩から浅野氏を経た永井氏に代わり赤穂に入りました。
しかし早速に跡継ぎがいなかったために一族から外孫でもある長孝を養子とし、その長孝も子に恵まれなかったためやはり一族の女系から長生を、長生が早世をしたことでその弟の政房を、政房の跡はやはり一族から忠洪を迎え入れて、この忠洪からは直系が続くものの忠興から忠賛、忠哲から忠敬、忠貫から忠徳、忠典から忠儀と見事なぐらいに短命な兄、それを継ぐ弟という構図が続けばやはり呪われているとしか言いようがなく、これでは安定をした藩政などは望むべくもありません。
幕末には先の家老暗殺などがあるなど混乱の極み、2万石の小大名ですので仕方がなかったのでしょうが、長いものに巻かれる状態で消えていってしまいました。
写真は左から長直、長孝、政房、忠哲です。
その不幸っぷりは、系図を見れば涙がちょちょ切れるぐらいです。
ただ森氏から関氏に乗っ取られた感があったところが忠洪で森氏の男系に大政奉還をされた形になっていますので、結果オーライと言えなくもありません。
残念ながら可成の流れではありませんが、弟の可政は長可と不仲で一時は出奔をするものの忠政の代に帰参し、その子孫が藩の危機を救ったのですから分からないものです。
凡例は赤字が当主、下線が写真でご紹介をしているものとなります。
【2016年8月 兵庫、大阪の旅】
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白い白鷺城 史跡巡り篇 姫路の巻 黒田官兵衛の章
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