オリオン村

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白い白鷺城 史跡巡り篇 明石、尼崎の巻

2016-10-11 00:00:38 | 日本史

 

二日目は午後から京セラドーム大阪での観戦があったので例によって早朝から起き出して、午前中は明石での史跡巡りです。
まずは明石城に向かったのですが時間が早すぎて日本100名城スタンプの置いてある明石公園、これは明石城跡が公園になっているのですが、そのサービスセンターがまだ施錠をされて入れなかったのと、撮影には逆光が厳しい状況だったのでざっと一回りをして位置関係だけをチェックして、他所を先に訪れることにしました。

まずは西へ向かい、城跡公園にほど近いところにあるのが織田家長屋門です。
明石市指定文化財で、この辺りは城に近いこともあり重臣や家臣たちが住んだ武家屋敷町となっていました。
太平洋戦争のときの空襲で焼失をした中で唯一に遺ったのがこの長屋門で、元は同じ明石の船上城のものを移築したとのことです。

この明石藩主松平氏の家老である織田氏は尾張織田氏の一族ですが信長の後裔ではなく、信長の叔父で犬山城に拠った信康の流れです。
信康の嫡男の信清は信長と対立をして滅ぼされましたが子の信益は許されてその後に越前松平氏に仕えて、その娘が結城秀康の側室になり直良を産んだことで信益の子、つまりは直良の叔父にあたる信勝が直良系越前松平氏の家老となり、直良の子の直明が明石藩主となったときに一緒に明石に入りました。
一部にこの信益は織田信忠の次男の秀則の後身との説もあるようで、そうなれば信長の血を引くことになります。

大林寺には、明石藩主だった松平忠国の供養墓があります。
明石藩は小笠原氏、戸田氏、大久保氏と続き、そして丹波篠山から十八松平の一つである藤井松平氏の忠国が加増転封されました。
墓所は山門をくぐらずに手前を右にいったところに登り口が、そこから50メートルほど登ればあります。
自分は例によってお寺の方にご挨拶をしてからのお参りですので、中から脇道を教えていただいてのショートカットでした。

住吉神社には、やはり明石藩主の松平信之の供養墓があります。
信之は忠国の次男で、兄の信久が早世をしたことで家督を継ぎ、その後に大和郡山に加増転封されました。
明石には住吉神社が二カ所ありますので注意が必要、有名なのは魚住町のそれのようで、しかしこちらは大久保町の住吉神社、本殿の裏にひっそりと眠っています。

西は住吉神社で終わって明石城に戻りましたが状況が今ひとつのままだったので、次は東に向かっての長寿院です。
藤井松平氏の次は本多忠勝の本多氏の一族が入るも3年余で陸奥大久保に減封、そして直良系越前松平氏の直明が越前大野から加増転封、そして幕末までこの地を治めました。
長寿院の松平氏墓所にはその直明から8代斉宣までの墓があります。

明石藩主としての初代である直明は直良の三男で、長兄、次兄ともに夭折をしたことで越前大野藩主だった父の跡を継ぎました。
直明の跡を長男の直常が、直常の跡を長男の直純が、直純の跡を長男の直泰が、直泰の跡を長男の直之が継いでここまでは順調でしたが、直之の19歳での早世により三弟の直周が、直周の跡を次男の斉韶が継いだものの斉韶に多くの子がありながらも子だくさんで多くの大名に子息を養子に送り込んでいた11代将軍家斉の26男である斉宣を押しつけられての直良、ひいては秀康の血が一時途絶えたものの、その斉宣の20歳での若死により斉韶の長男の慶徳が跡を襲い幕末を迎えることとなります。
写真は上段左から直明、直常、直純、直泰、直之、直周、斉宣、その後の昭和に入ってからの代々の墓で、あるはずの斉韶をどう探しても見つからなかったのが残念至極でした。

血の繋がりは上記のとおり、結果的には秀康の血を無難に継いできたと言えます。
それを脅かしたのが斉宣ですが、将軍の子ということもあり斉宣だけが石柵に囲まれた別格扱いだったのが、越前松平氏としては微妙な感じがしないでもありません。
凡例は赤字が藩主、下線が写真でご紹介をしているものとなります。

月照寺の山門は伏見城の薬医門だったものが、その廃城後に明石城の切手門に移築をされました。
そして明治になってからの廃城令により、月照寺に払い下げられて今に至ります。
ちなみに右手に写っているのが明石市立天文科学館で、日本の標準時刻を司る日本標準時子午線の真上に建っていますから、月照寺もほぼ日本標準時子午線上にあります。

そしていよいよ明石城です。
堀は広く、石垣は高く、敷地は広大、明石藩の居城である明石城は一番の大身が小笠原氏の10万石ですから規模としては過剰のようにも思えます。
ただ築城は江戸初期、大坂の役が終わった直後の1617年ですから西国の抑えとしての役割を担ったこともその理由ではないかと、歴代の城主はいずれも親藩、譜代です。

廃城令により多くの櫓、城門などが解体、あるいは払い下げをされましたが、坤櫓と巽櫓が現存、国の重要文化財に指定をされています。
本丸にはこの他に解体をされてしまった艮櫓、乾櫓があり四隅を守る構図で、予定はされていたようですが天守閣はありません。
写真は左が坤櫓、右が巽櫓です。

小笠原忠真は父祖の地である信濃松本から明石に移封され、船上城に入ります。
しかし幕府の命により明石城の築城に着手、船上城などを解体した遺材が使用されたと伝えられており、この巽櫓も船上城のそれにより建てられたとも言われていましたが、昭和57年の解体修理の際の調査で柱や垂木、梁等の木材はすべて統一された規格品による建築物で、全くの新築であることが明らかとなりました。

坤櫓は伏見城からの移築と伝えられており、こちらは昭和57年の解体調査で構造上、他から移されたものであることが明らかとなり、伏見城からの移築説が裏付けられました。
天守台のすぐ側にあることから、天守の役割を担っていたと見られています。
巽櫓と同じく三層の入母屋造りで、木目の揃った松の木がふんだんに使われているとのことです。

巽櫓と坤櫓は交互に内部公開がされているようで、この日は巽櫓でした。
表面がえぐれているなど痛々しいところはありますが、それはそれで年輪が感じられて刻の流れを体感することができます。
残念なことに上層へは立ち入り禁止で、係の人の説明では危ないから、昭和57年の改修から30有余年、そろそろ何らかの手当をしなければならない時期なのかもしれません。

これらの櫓に囲まれた本丸は広々としていて、天守閣の代わりに藩主の居館、政庁たる御殿がありました。
今はただ木が生い茂っているだけですが、三階建ての御殿は絵図が残されているのか、在りし日の姿をネットで拾うことができます。
それを見ればある意味で天守閣のようでもあり、それなら天守閣を建てちゃえよ、なんて言いたくもなりますが、いろいろと事情があったのでしょう。

その天守閣の予定地、天守台です。
152坪とのことですが思ったほどの広さは感じられず、巽櫓や坤櫓の規模からすればもっとガッツリとした天守閣を想像していました。
それでも五層の天守閣がそびえ立つ予定だったとのこと、財政的な問題か、幕府が命じながらも気が変わったのか、当然ながら無かったものの再建計画はありません。

三日目はやはり午後から京セラドーム大阪での観戦、結果的には途中で放擲することとなりましたが、よって早朝からの尼崎です。
深正院は江戸中期から幕末までの尼崎藩主だった松平氏の菩提寺で、その墓所があります。
こちらの松平氏も十八松平の一つである桜井松平氏で、ただ松平宗家に近しい血筋だったことで家督を狙って対立をすることもあり、また三河一向一揆では一揆側につきました。

その後は徳川家康の異父妹を忠正、忠吉が正室に迎えるなどして宗家に従い、遠州掛川から尼崎に入った忠喬が初代となります。
忠喬の跡は忠名、忠告、忠宝、忠誨と直系が続きましたが忠誨が嗣子なきままに27歳で没したため叔父の忠栄が継ぎ、その子の忠興が幕末を迎えました。
長命な当主が多く、かつ子宝に恵まれたこともあり、無難に血を繋いでいったと言えます。
写真は左から忠喬、忠誨、忠栄、忠興です。

通字は「忠」で、初代から信定、清定、家次と続いて4代の忠正が名乗って以降、「忠」がつかないのは6代の家広のみです。
尼崎藩主としては10代の忠喬から現在の当主に至るまで続いていて、ちょっと嬉しくなります。
ちなみに墓所にはおそらくは説明板と思しき杭があったのですが風化して全く読めず、各々は戒名などから特定をしたのですが、それっぽい感じがありながらもどうしても誰かが分からないものがあり、圓成院と読めたのですが、帰ってきてから調べてみても分からないままでした。

尼崎藩の居城となった尼崎城は、当時の建物は遺されていません。
先の深正院の本堂が明治の廃城令の際に尼崎城から移築をされたものでしたが戦災で焼失、また図書館を囲むようにある石垣と土塀は復元をされたものです。
昨年に篤志家からの申し出による天守閣の建築計画が報じられましたが、最低でも10億円以上がかかり、またご高齢ということから実現をするかどうかが気になります。

法園寺には佐々成政の墓所があります。
織田信長の重臣だった成政は本能寺の変の後に羽柴秀吉と対立し、しかし柴田勝家らが滅ぼされたことでその軍門に降ります。
その勇猛さを買われて来たる朝鮮侵攻への布石として配された肥後での検地に反発した地侍の一揆を抑えきれず、ここ法園寺で切腹をさせられました。

山門をくぐってすぐ左に、その立派な五輪塔があります。
ただ以前に訪れたときには知らなかったのですが、残念なことにこちらはレプリカです。
本物とされる墓石は墓地の無縁塔の累積していた中から発見をされて本堂内に保存されているのですが、お寺の方に聞いたところ寺宝なので公開はしていない、とのことでした。


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