オリオン村(跡地)

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白い白鷺城 史跡巡り篇 姫路の巻 姫路城の章

2017-02-01 06:32:15 | 日本史

 

いよいよ姫路城です。
今回の旅の目的は白い白鷺城、一昨年に終わった平成の大修理で白く生まれ変わった城が3年もすれば、とも言われているくすみの前に見ておきたい、ただその一念でした。
そして噂どおりの白さにビックリ、これが本来の姿と言われてもやはり違和感はあり、しかしその美しさに感動との言葉しか出てきません。

とにかく白い、もうそれしか言いようがありません。
例によって空が白み始めたぐらいからのスタートでしかしまだ開城はしていなかったので周りをぐるりと、時間はたっぷりあったのでいろいろな角度からの天守閣です。
まだ薄暗かったときにはさほどに感じなかったのですが光を浴びれば白さがくっきり、白すぎるとも言われるのも納得の白化粧でした。
この天守閣は弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城とともに現存天守12のうちの一つで、そのうち姫路城、松本城、犬山城、彦根城は国宝に指定をされて「国宝4天守」とも呼ばれていましたが、一昨年に松江城も国宝に指定をされたことで今は「国宝5城」となっています。

外周をぐるりと巡って見つけたのが、鷺の清水です。
名水として知られた石組み井戸の遺構で、播磨十水の一つだそうですが柵に囲まれていて飲めるような感じではありませんでした。
この近くにあったのが清水門、とは、この鷺の清水から名前が付けられています。

いよいよ城内へ、この大手門をくぐると広い公園のような敷地が広がっていて、地元の方が早い時間からくつろいでいました。
天守閣も見えますし、団体旅行で記念撮影をするスポットにもなっています。
一気にその天守閣を目指したかったのですがまだ開城前でしたので、敷地内をうろついてみます。

展示してあったのは旧西大柱で、もう一本の東大柱とともに天守閣を支えていました。
昭和の大修理のときに入れ替えたもので、つまりはこれが築城当時のものとなればご苦労様と、思っていたよりも太さがないのでビックリしたのが正直なところです。
羽柴秀吉が築いたときの石垣が遺されているのが上山里下段で、黒田官兵衛の手によるものと伝えられています。
打込み接ぎや切込み接ぎとは違って自然石をそのまま積み上げた野面積みで、石並みがきれいに揃ったものもいいですが、こちらの方が城という感じがしないでもありません。

混雑時には入城制限もありますが、この日は平日ということもあり100メートルほどの行列はありましたが無事に、さして待たされることなく入城することができました。
天守閣の美しさはもちろんですが姫路城の素晴らしいところは多くの櫓、門が現存していることで、菱の門をくぐっていの門、ろの門・・・と時計回りに天守閣を目指します。
基本、写真に人が写り込むのが嫌いな絵はがき派ですので苦労はしましたが、ざっと城内をご紹介します。

菱の門は現存する21の門のうちで最大の大きさを誇り、天守閣への表玄関です。
1月の下旬から2ヶ月間、武者の詰め所であった内部が初公開をされているとのことで、こればっかりはタイミングですので仕方がありません。
この日は快晴で水分補強は欠かせず、ろの門の手前での販売が最終ですので夏場に訪れる予定の方にはご注意ください。
写真は上段左から菱の門、いの門、ろの門、南方土塀、はの門、にの門です。

瓦には家紋が入っています。
五三桐と巴紋だと思われますが、五三桐と言えば羽柴秀吉は姫路城の城主だったことがありますのでおかしくはありませんが、江戸期にこれがあったとも思えません。
ただやはり城主だった池田氏も五三桐の家紋を使っていたとの話もあるようで、このあたりは保留としておきます。

姥ヶ石は築城のときの伝説としては珍しいものではなく、羽柴秀吉が築いたときに石集めに苦労をしていたところで城下で餅を焼いて売っていたお婆さんが石臼を寄付した、と伝えられていますが、しかしこのあたりの石垣は池田輝政のときのものらしいので作り話と説明板にもそうありました。
そもそもこの話は明治、もしくは大正に入ってからのものらしく、一つの客寄せエピソードだったのかもしれません。
写真は上段左からほの門、姥ヶ石、水一門、水二門、水三門、水四門です。

いよいよ建物の中に入ります。
刀置き、にしては幅が広いような気がしないでもないですが槍にしては狭いですし、しかしこういうものがあると城という感じがしてきます。
これも日本人らしい工夫なのか美意識なのか、釘を隠すための飾りも印象的でした。
武者隠しはいくら昔の日本人が小柄だったにしても狭すぎですし大人数が入れるわけでもなく、いかにも何かありますという造りからしても別の用途だったような気がします。
写真は左から刀置き、六葉釘隠し、武者隠しです。

東大柱、西大柱は城外に展示してあった先代に比べると太さがあるようにも見えましたが、この二本が天守閣を支えているとなると役割の重さが分かります。
相当な高さがありますのでこれだけの大木を探すのも大変だったでしょうし、城は権力の象徴でもあったのでしょう。
写真は左が東大柱、右が西大柱です。

こちらの厠は常時ではなく戦のときに使われるためのものとのことで、実際に使われたことはないようです。
学生のときにシロトピアという博覧会のようなものがあったのですが、そのときには内部が公開をされていて見たはずなのですが30年ぐらい前のことで記憶にありません。
覚えているのは城外でビジーフォーのステージが行われていたこと、雨がぱらついていたこともあり客席は閑散としていました。
天守閣から出るところの石段は築城当時からのもので、ここを秀吉が歩いたかと思えば感慨深いものがあります。

本丸にあたる備前丸には城主が住んだ居館があったとのことですが、なぜに播磨で備前丸なのかは分かりません。
そこから備前門を抜けて下っていくことになりますが、途中にあるのがお菊井戸です。
皿屋敷と言えば番町皿屋敷が有名ですがこちらは播州皿屋敷、いずれもお菊さんの「一枚・・・二枚・・・」ですが、この手の話は日本の他の地域でもあるようです。
写真は上段左から備前丸、帯の櫓、太鼓櫓、りの門、ぬの門、お菊井戸です。

ぬの門の手前にあるリの一渡櫓は修復工事中で、中に鯱が展示されていました。
明治、昭和、そして平成のそれは時代が下るにつれて雑と言いますかデフォルメと言いますか、威厳のようなものが無くなっているような感じがあります。
平成のものは表面がのっぺりとしているように見えるのは新しいからなのか、あるいは鱗が省略をされているのがその理由かもしれません。

菱の門まで戻って、次は西の丸を攻めます。
西の丸南門は残念ながら遺されていませんが、高麗門の礎石が残っています。
その脇には武者溜りがあり番所のような細長い建物があったとのことで、攻め込んできた敵を迎え撃つためのものだったのでしょう。

西の丸はいくつかの櫓と、百間廊下でぐるっと囲まれています。
ここにある化粧櫓は千姫が住んでいた場所で、豊臣秀頼と死別した千姫が本多忠勝の嫡孫で姫路城主だった忠刻に一目惚れをしての押しかけ女房だったとも言われています。
千姫を大阪城落城から救った坂崎出羽守が公家への再嫁を段取ったところがこの成り行きに憤慨をして、がその後の悲劇に繋がりました。
写真は上段左からカの櫓、ワの櫓、ヲの櫓、ルの櫓、百間廊下、化粧櫓です。

最後に全景となります。
姫路城の素晴らしさはこの全景に尽きるのではないかと、もちろん天守閣を筆頭にした一つ一つの櫓、門なども素晴らしいのですが、これらが一体となって一望できること、幸いにも戦災や災害、明治期の破却から逃れたことで多くの建物が遺っているからこそではあるのですが、これだけの全体美は他に類を見ません。
足を運ばれる機会があれば姫路城の近くにあるイーグレひめじの5F展望台から、是非ともこの全景をお楽しみください。


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セカンド鈴木

2017-02-01 00:24:01 | 千葉ロッテ

ようやくに鈴木のセカンドコンバートが本格化をしそうです。
キャンプ前日に伊東監督が明言をしましたから、故障者が続出をするなどの緊急事態にでもならない限りは貫徹する意思があるのでしょう。
鈴木のセカンドはルーキーイヤーからずっと推していましたから個人的にはウエルカムで、本人には戸惑いもあるでしょうが、長い目で見ればプラスに働くと信じています。

ロッテ鈴木が二塁コンバート 伊東監督明言 (1/31 デイリースポーツ)

ロッテ・伊東勤監督がキャンプイン前日の31日、鈴木大地内野手(27)の遊撃から二塁へのコンバートを明らかにした。
この日、石垣島での選手による自主トレを視察した際に、「明日から二塁をやらせていく」と語ったもので、空いた遊撃のポジションはプロ2年目の平沢大河内野手(19)を中心に争うことになる。
鈴木は昨季、遊撃手として自身2回目のベストナイン受賞を果たしているが、伊東監督は、「(今季)は二塁でいってもらう」とコンバートを明らかにするとともに、「何人かで競争してもらわないといけない」とチーム内の活性化を図るのが最大の狙いだ。
鈴木は昨季、何試合か二塁を守っているが、本格的な挑戦は初めてだ。
この日の練習中、伊東監督に正式に伝えられた。
「あやふやにされず監督に正式に言ってもらったことに意味がある」と前向きに捉えて、「昨年も二塁の練習はしてきた。キャンプでゆっくり、じっくりと練習をし、しっかりスタートしたい」と決意を示した。
今回のコンバートはチーム内の競争とともに、遊撃手として平沢の本格的な育成があると見られる。
平沢は「監督は話されたのは(ボクに)ショートをしっかりやれという意味も含まれていると思う」と早くも意欲をのぞかせた。
現在の体重は78キロでベストのようで、「秋季練習での課題に対して今キャンプで成果を見せたい」と話し、2年目の飛躍を誓っていた。

本来であればクルーズを獲得したときにコンバートをしたかったのですが、一時はセカンドを守りながらもクルーズの雑さで元に戻ってしまいましたからベンチからすれば三年越しのプランではないかと、平沢を獲ったことからして遅かれ早かれ鈴木のセカンドは既定路線だったのでしょう。
それでも前向きなコメントを口にはしているものの鈴木には当然の悔しさがあるはず、プロになるためにはショートを守れなければ、とサードから志願をしてのコンバートで指名を勝ち取ったこともあり、ショートにはかなりのこだわり、難しいポジションをこなしながらもベストナインに選ばれた自負もあるはずです。
ただ守備範囲も広くなってきましたし年々に上手くなってきてはいるものの、ショートしては物足りない肩への指摘も少なくはありませんでした。
今すぐどうこうといった必然性はないとしても、数年後を考えればこのコンバートは正しい判断だったと振り返ることができると思います。
それでも目先、何度か守ったことがあるにしても実戦でのとっさの判断ではこれまでと動きが逆になることでミスも出るでしょうし、心理的な不安も手伝っての肝心の打撃への悪い影響が出るかもしれませんが、大事なのはベンチがぶれないこと、何があっても鈴木をセカンドから動かさないという信念がなければなりません。
おそらくは平沢に相当な我慢をするベンチだとは思いますが、その我慢が実を結ばなくとも鈴木はセカンド、ショートは他の選手で競わせる、これが大前提です。
せっかく自分に言い聞かせるようにして新しいポジションに挑む鈴木の心を惑わせないよう、それだけは強く望みます。


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