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( ソルジェニツイン )

不都合な真実 歴史編 《 日本共産党北京機関と馬列学院――江崎道朗 》

2024-09-07 | 04-歴史・文化・社会
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中国共産党の下で革命教育を受けた約千5百人近い「活動家」たちが日本に帰国後、何をしたのかはよくわからないが、日本の左翼運動に大きな影響を与えたに違いない。1959年から1960年にかけて全国を大きく揺るがした60年安保闘争や、全国の大学で吹き荒れた「学園闘争」で、ゲバ文字といって中国共産党政権が制定した「簡体字」が看板やビラで多用され、毛沢東語録が革命の手引書として大いに読まれたことも、あながち無関係とは思えない。


◆日本共産党北京機関と馬列学院――江崎道朗

『朝鮮戦争と日本・台湾「侵略」工作』
( 江崎道朗、PHP研究所 (2019/8/10)、p273 )

朝鮮戦争の開戦直後、日本国内で真っ先に動きだしたのは、在日朝鮮人グループだった。

日本共産党中央民族対策(民対)部の朴恩哲は、民対中央会議を招集して、「祖国防衛中央委員会」を結成、全国各地に祖国防衛委員会と祖国防衛隊を組織することを決定した。ここでいう「祖国」とは、北朝鮮のことだ。

所感派の野坂(参三)、徳田(球一)らは第3章で述べたように開戦直前から地下に潜っていたが、所感派と国際派の対立は依然として続いていた。

徳田らは地下活動を続けつつ、宮本(顕治)ら国際派を分派だと認定して「査問」にかけた。国際派が優勢な地域では、逆に国際派が所感派を査問するケースもあった。要は、「査問」と称して互いに暴力を振るいあっていたのである。

そんななかで(1950年)9月3日、『人民日報』は、「いまこそ日本人民は団結して敵にあたる時である」と題した論説で、国際派が、所感派と椎名悦郎の臨時中央指導部に無条件で従うべきだと主張した。宮本ら国際派は動揺するが、両派の分裂はのちに述べる1951年夏の、スターリンの別荘クンツェボで行われた会議まで尾を引く。

コミンフォルム批判を受け入れた野坂は、1950年10月7日付『平和と独立のために』と10月12日付『内外評論』(いずれも所感派の非合法機関紙)特別号に、「共産主義者と愛国者の新しい任務……力には力をもってたたかえ」を発表した。

このあと、所感派幹部の徳田と野坂は、1950年10月と11月にそれぞれ北京に密航する。そして、野坂が延安時代を共に過ごした李初梨や趙安博ら、戦時中に日本兵工作を担当した対日工作員とともに、日本共産党北京機関を開設して武装闘争の準備を始めた。

この北京機関には幹部会と、工作員から成る作業班があり、朝鮮戦争前から北京に派遣されていた安斎庫治と、徳田、野坂、伊藤律、西沢隆二、聴濤克己らが幹部会メンバーだった。

北京の日本共産党幹部らは1952年5月から「日本自由放送」を開始して、日本国内へのプロパガンダを行っている。

また、この北京機関の下で、合法・非合法、暴力・非暴力の手段を駆使できる革命家を育てる学校が作られ、高倉テルが校長を務めた。千5百人ないし2千5百人の革命家を育成したとされる。

この学校は当初、河北省永年県にあった元戦犯収容所に置かれたが、その後、北京郊外に新校舎が建設され、1954年1月、「日本共産党中央党学校」という形で正式に開設された。別名「馬列学院」と呼ばれた。馬はマルクス、列はレーニンの意味だ。

その入学者の多くが満洲残留の旧日本兵だったが、日本から中国に密航した者も65人いたという。密航組は、いわゆる「人民艦隊」で日本海を渡った日本共産党員だった。馬列学院の「生徒」はのちに、こう証言している。

《人民艦隊の基地は、神奈川城ケ崎、焼津、南紀勝浦、四国の新居浜であった。船はマグロ船。コースは九州の南方の沖を通って屋久島付近を抜けて上海に直行した。時期的に見て人民艦隊が活動したのは大体3回に分けられるという。第1回はマッカーサーの追放令が出たあと中央委員が3回に分かれて中国に渡っていった。第2回目はアジア・アフリカ会議の出席者。その次が彼ら同校生徒たちだった。彼らの場合は1船に5人から7人ずつぐらいで、1、2カ月に1回しか船が出ず、14、5回にわたって1年がかりでやっと80人が中国に集結できた。それにしてもこれだけ大量の人間が密出国しているのにシッポをつかめなかったのも不思議だが、いかに日共地下組織が周到だったかが知れる》

徹底した共産主義教育を実施したこの「馬列学院」は1957年3月、閉校となり、その「生徒たち」は、中国共産党政府の保護の下、中国各地で働きながら、帰国の機会をうかがうことになった。この当時、日本と中国共産党政府とのあいだには正式な国交がなく、自由に帰国できなかったのだ。

そこで中国政府は1958年3月、中国紅十字会の李徳全会長を通じて「中国に帰国を希望する在留邦人たちがいる」と伝え、中国に抑留していた邦人たちと一緒に帰国させることに成功する。

中国共産党の下で革命教育を受けた約千5百人近い「活動家」たちが日本に帰国後、何をしたのかはよくわからないが、日本の左翼運動に大きな影響を与えたに違いない。1959年から1960年にかけて全国を大きく揺るがした60年安保闘争や、全国の大学で吹き荒れた「学園闘争」で、ゲバ文字といって中国共産党政権が制定した「簡体字」が看板やビラで多用され、毛沢東語録が革命の手引書として大いに読まれたことも、あながち無関係とは思えない。

1966年に始まった中国の文化大革命で毛沢東が唱えた「造反有理」(政府に対する反逆には道理があるという意味)というスローガンが、日本の学園紛争でも頻繁に使われるようになったが、その背後にも、それまでの日本共産党と中国共産党との蜜月関係、そして馬列学院の「生徒」たちの影響があったとみるべきであろう(実は文化大革命以降、日本共産党と中国共産党の関係は悪化するが、その一方で非共産党の学生運動は中国共産党との連携を重視するようになる)。
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