電脳筆写『 心超臨界 』

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笑いとばすほうが人には合っている
( セネカ )

日本史 古代編 《 女性初のキング・メーカー 橘三千代――渡部昇一 》

2024-09-04 | 04-歴史・文化・社会
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藤原氏は、もとより天児屋命(アメノコヤネノミコト)を先祖とする中臣(なかとみ)家の子孫で、その系図が神代にさかのぼる名家である。それに大化改新(たいかのかいしん)の第一の功臣は、その二十二代目の鎌足(かまたり)であった。しかし、藤原氏が宮中で本当に勢力を得たのは、その息子の藤原不比等(ふひと)からである。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p234 )
3章 平安朝――女性文化の確立
――日本における「成熟社会」の典型は、ここにある
(1) 和歌に見る文化的洗練の達成

◆女性初のキング・メーカー 橘三千代(たちばなのみちよ)

昔習ったラテン語の教科書に

  Bella gerant alli; tu, felix Austria, nube!
  Nam quae Mars aliis, dat tibi regna Venus.

という言葉があった。

「戦(いくさ)はほかの国がする。汝(なんじ)、幸せなるオーストリアよ、結婚せよ。戦の神マルスがほかの国に与えるものを、汝には美の女神ヴィーナスが与えてくれるのであるから」という意味になるが、これはオーストリアのハプスブルグ家に代々、美女が多く、それを利用した有利な結婚政策によって権力の座に上がったことを指(さ)している。

なるほど、ハプスブルグ家は、あまり武名の高い君主もいないのに、神聖ローマ帝国の王冠を受け継いだ。私はこれを読んだとき、「これは西洋の藤原氏だな」と思ったものである。

藤原氏は、もとより天児屋命(アメノコヤネノミコト)を先祖とする中臣(なかとみ)家の子孫で、その系図が神代にさかのぼる名家である。それに大化改新(たいかのかいしん)の第一の功臣は、その二十二代目の鎌足(かまたり)であった。しかし、藤原氏が宮中で本当に勢力を得たのは、その息子の藤原不比等(ふひと)からである。しからば、不比等はどのようにして藤原時代の基礎を築いたのであろうか。それは娘によって、つまり結婚政策によってであった。

まず、不比等は大納言(だいなごん)のときに、その長女の宮子(みやこ)を文武(もんむ)天皇(第四十二代)の嬪(ひん)に入れたが、幸いにも宮子は男子を産んだ。これが首(おびと)皇子、つまり、のちの聖武(しょうむ)天皇である。しかし、宮子は産後、ひどい鬱(うつ)症にかかって、一室に引きこもり、母子の対面もなかった。そこで重大なのは、誰を太子の養育掛(がかり)にするかであった。このとき、不比等が目をつけたのは、内命婦(ないみょうぶ)として宮廷に実力のあった女官県犬養連三千代(あがたいぬかいのむらじみちよ)である。

というのは、宮子には競争相手がいたからである。すなわち、文武天皇の嬪には、宮子のほかに、もう二人の嬪があり、特にそのうちの一人石川刀子娘((いしかわとねのいらつめ)には二人の皇子がいた。しかも、この嬪は蘇我(そが)氏の正統で、当時第一の豪族であり、藤原氏にとっては強敵であった。どうしてもこれは除かねばならぬ。

ところで、三千代は明敏精励な女官であったので、未亡人として天皇になられた元明(げんめい)天皇(文武天皇の母、つまり首皇子の祖母で、文武天皇崩御の後、即位)の、たいへんな気に入りであって、大嘗会(だいじょうえ)の豊明(とゆあかり)の節会(せちえ)のときに、女帝自(みずか)ら盃(さかずき)の中に橘(たちばな)の果を浮かべて三千代に賜(たま)わり、橘という姓も賜わったくらいであった。この三千代は自分が養育している不比等の孫のために働いたのだ。その策は、いかにも後宮的である。

彼女は、文武天皇の、宮子以外の二人の嬪の品行が悪いことを元明天皇に吹き込んだ。未亡人で、しかも潔癖な元明天皇は、自分の息子(今は亡き文武天皇)の嬪が、ほかに男を作っているという噂(うわさ)に耐えられない。それで二人から嬪というタイトルを取り上げられたのである。これは、べつに二人の経済的な手当てに関係するものではなかったが、これによって、その腹から生まれた皇子たちは、皇位に即(つ)く資格を自動的に失ったわけである。そして元明天皇自ら、持統(じとう)天皇の例にならって、祖母として、首(おびと)皇子のご養育に当られることになり、不比等の孫、つまり宮子の産んだ皇子は、いまや無競争で皇位に即き聖武天皇となられた。

このようにして、不比等は臣下でありながら、天皇の祖父になったことになり、これは前例のないことであった(蘇我稲目(そがのいなめ)のときも、その可能性があったが、稲目は孫が皇位に即く前に死んだ)。

不比等の後宮政策は、これによって終わらなかったのである。彼は例の女官、橘三千代を後妻にもらい、この二人の間に生まれた女子である安宿媛(あすかべひめ)を、聖武天皇の皇后とした。これが前に述べたとおり、臣下から最初に皇后のタイトルを得た光明皇后である。

つまり、藤原不比等の長女は聖武天皇の母となり、末娘は同じ天皇の皇后となるというふうに、今ふうに言えば近親相姦的に、すっかり宮廷を固めてしまったのである。聖武天皇の母后と皇后は、互いに姉妹であり、この姉妹の父が不比等なのである。そして、聖武天皇と光明皇后の娘が孝謙(こうけん)天皇なのである。光明皇后を立てることに反対したのは、不比等の娘婿(むすめむこ)である長屋王(ながやおう)であるが、これは内乱の名目で粛(しゅく)されてしまった。

これで藤原氏の立場は不動のものになった。また、不比等の妻三千代の橘の姓は、三千代と前夫の間の子に継(つ)がせたが、これが橘諸兄(たちばなのもろえ)であり、この妻になったのは、三千代と不比等の間に生まれた多比能女(たひのひめ)であり、この父違いの兄妹結婚から生じたのが、藤原氏と並んで平安朝第一の貴族となった橘氏である。

このころは、持統天皇(第四十一代)以来、元明(げんめい)天皇(第四十三代)、元正(げんしょう)天皇(第四十四代)、孝謙天皇(第四十六代)と女帝が多く、しかも、聖武天皇(第四十五代)も仏事に専念するため、政治のことは光明皇后にまかされたりしたため、後宮の重要さはすこぶる大きかった。

そしてこの後宮を動かすものは、ベテラン女官上がりで、右大臣藤原不比等の妻で、しかも、皇后の母である三千代だったのである。彼女こそは、女のキング・メーカーであったと言えよう。
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