電脳筆写『 心超臨界 』

人は歳をとったからといって遊ぶことを止めない
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( バーナード・ショー )

◆「南京大虐殺」は、禁輸キャンペーンの一環として行われたプロパガンダである

2024-05-28 | 05-真相・背景・経緯
§2-2 いつの時代も戦争を仕掛けるのはアメリカ
◆「南京大虐殺」は、禁輸キャンペーンの一環として行われたプロパガンダである


「南京大虐殺」は、この禁輸キャンペーンの一環として行われたプロパガンダである。禁輸キャンペーンを成功させるには、アメリカ国民に、日本は支那で野蛮な振る舞いをしていると信じ込ませる必要があった。そのため架空の事件を捏造した。捏造はフィッチら南京にとどまったアメリカ人宣教師が担当し、さらに政治・経済的な動機からヒットラーの対日接近阻止を狙ったドイツ商人が協力した。


いまさらの「日中歴史共同研究」――「南京大虐殺」はない
古荘光一・フリージャーナリスト
『WiLL』2010年5月号 、ワック出版、p231 )

■アメリカ人宣教師を利用(p235)

蒋介石政権のプロパガンダの特徴は、支那要人が徹底して口をつぐみ、すべてを手先の外国人、とくにアメリカ人にしゃべらせたことである。禁輸キャンペーンが典型であった。支那との関係を隠すことに細心の注意を払った。

キャンペーンを組織する段階では、支那と公式の関係を持つアメリカ人が少なくとも二人、加わっていた。しかし、準備が整い、組織が覆面を脱ぐ段階に至り、組織から離れた。

このキャンペーンで蒋介石が利用したのは、長年かけて籠絡(ろうらく)してきた多数のアメリカ人宣教師である。支那に居た宣教師は皆、薄給に悩んでいたが、事実上転職の道が閉ざされ、本業では現地人の改宗が進まず、絶望から、自殺、発狂、麻薬中毒に陥る人物もいた。窮状に付けこんだ蒋介石は、ちょっとしたジェスチャーだけで手なずけることができた。

それに蒋介石政権には、キリスト教徒としてアメリカで高等教育を受けた支那人が多数入り込んでいた。その口車にのって、蒋介石がキリスト教の味方で民主主義者だと錯覚した宣教師も多い。仕上げに蒋介石自身がキリスト教に改宗して見せた。

そんな宣教師の中には、蒋介石一派との関係を利用して、金を稼ぐものまでいた。「南京大虐殺」のでっち上げに活躍したジョージ・A・フィッチはその代表であり、政権内部の情報を利用して荒稼ぎしていたようだ。土地投機にも手を出していた。

対日禁輸運動には、さまざまな分野の有名人や団体が大量に関わったが、実働部隊は、政権の息のかかった宣教関係者であった。

その中心が、宣教師の子として支那で生まれたフランクとハリーのプライス兄弟である。弟のハリーはアメリカで教育を受け、支那へ帰ってから一時、蒋介石政権を支えるアメリカの団体職員をした後、再度渡米して経済学を学び、北京の燕京大学で教鞭をとっていた。

兄のフランクは教育宣教師で、南京の神学校に勤めていた。

二人は、1937年(昭和12年)7月盧溝橋事件より前に支那を出て、ニューヨークに向かった。この時点ですでに、キャンペーン計画は出来上がっていた。後で触れる通りだ。二人が出発した時期こそ、支那事変が蒋介石政権の陰謀で始まったことを示す今ひとつの証拠である。フランクは委員会発足後しばらくたってから、連絡係として支那に戻った。

■先鋭分子、フィッチ夫婦(p236)

「南京大虐殺」は、この禁輸キャンペーンの一環として行われたプロパガンダである。禁輸キャンペーンを成功させるには、アメリカ国民に、日本は支那で野蛮な振る舞いをしていると信じ込ませる必要があった。そのため架空の事件を捏造した。

捏造はフィッチら南京にとどまったアメリカ人宣教師が担当し、さらに政治・経済的な動機からヒットラーの対日接近阻止を狙ったドイツ商人が協力した。

これを広めたのは、蒋介石政権に丸め込まれたアメリカ人新聞記者、それに捏造にたずさわった宣教師自身である。アメリカの国内の幾多のキリスト教会団体は、機関紙に南京から送られてきた文書を掲載し、また国務省に届けた。

アメリカで「南京大虐殺」を熱心に報じたのは、世間一般を読者とする新聞や雑誌というより、各宗派の機関紙だった。

こんな宣伝が通用したのは、当時のアメリカ人が支那や極東の事情にうとかったからである。世間一般だけのことではなかった。現地事情を研究していた学者までが、的確な判断を下せない始末だった。支那語も分からないのに現代支那研究の看板を掲げる者が多く、あるアメリカ人支那学者は、1936年ごろの実情として「われわれは、現代の支那人が何を思っているかは、彼らが英語で語ってくれること以外は把握できなかった」と告白している。

そんな状況に加え、宣教師は社会的信用度が高かったから、口から出まかせや捏造をアメリカ人は、額面どおりに受け取った。それらの人々は、宣教師らが蒋介石に籠絡され、嘘をついているとは夢想すらしなかっただろう。

繰り返すが、「南京大虐殺」を孤立したプロパガンダととらえるのは誤りだ。プロパガンダの本命は屑鉄・石油禁輸キャンペーンであった。いわゆる「南京大虐殺」は、このキャンペーンの一翼を担う悪質なでっちあげに過ぎない。

その証拠に両者に人物の重複がある。プライス兄弟が運動のために組織した委員会に、あのフィッチが名前を連ねていた。フィッチは1938年アメリカに出かけ、各地で説教して回るが、目的は「禁輸」の扇動であり、「南京大虐殺」を吹聴した。日本ではほとんど名前を知られていないが、フィッチの要請で一足さきにアメリカへ行って演説して回った上海の宣教師、エイモリー・W・ラコックも加わった。

フィッチが1年足らずで支那に引き揚げた後、残って活躍したのが、妻のジュラーディンである。ジュラーディンは1937年9月に支那を出たが、その数年前から国務省宛に禁輸を求める電報を打っていた。運動が始まると、宣伝のため全国を飛び回り、中立法に関する議会の公聴会で証言もし、委員のうち最も先鋭的な分子だった。
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