電脳筆写『 心超臨界 』

人生は良いカードを手にすることではない
手持ちのカードで良いプレーをすることにあるのだ
ジョッシュ・ビリングス

日ソ戦争――落合道夫さん

2018-06-11 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写の記事の中からこれはと思うものを メルマガ『心超臨界』
にて配信しています。是非一度お立ち寄りください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
★「トランプ外交」は危機の叫びだ――西尾幹二・評論家
【「正論」産経新聞 H30.06.08 】https://tinyurl.com/ybg67og3

★全国民監視システムの恐怖――石平さんhttps://tinyurl.com/y7oa9rz4
【「石平のChina Watch」産経新聞 H30.05.31 】

★政治嫌悪の高まり恐れよ――阿比留瑠比・論説委員兼政治部編集委員
【「阿比留瑠比の極言御免」産経新聞 H30.05.25 】https://tinyurl.com/y79pjo96
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

●日ソ戦争

『黒幕はスターリンだった』https://tinyurl.com/ycbz2j32
【 落合道夫、 ハート出版、2018年04月、p218 】

【スターリンの陰謀】―――スターリンは日本が敗戦寸前になると、日本との中立条約を違約して日本の領土や満洲を襲い、火事場泥棒のように領土や資産を盗んだだけでなく、多くの日本人を殺し奴隷化した。この犯罪行為は表面的にはヤルタ協定の米国の依頼によるが、スターリンはもともと満洲の支配に関心があったので、米国を騙して満洲を手に入れると最後に違約して共産化してしまったのである。

【日ソ中立条約の締結】―――日本はすでに張鼓峰事件、ノモンハン事件でソ連の攻撃を受けソ連を警戒していたが、支那事変中であることと米国の強い圧迫を受けていたので、ソ連を敵にすることはできない状況にあった。そこで1941年4月、松岡洋右外相は、米国の対日圧力が強まる中で日本の対米交渉力を強化するために、スターリンと日ソ中立条約を結んだ。

一方スターリンは、スパイの報告でドイツの攻撃が近いことを知っていたので、東部国境が安全になる日本の不可侵条約提案は願ってもないことだった。このためスターリンは松岡外相を大歓迎し、異例にもモスクワ駅まで見送りに来たことはよく知られている。当時スターリンは神秘化された謎の指導者を演出していたので、この異例の大歓迎は世界の大きな話題になった。

【スターリンの見送り】―――1941年4月、モスクワで松岡外相と随員加瀬俊一はクレムリン宮殿でのスターリンとの会談を終えて帰国の準備をする。

「松岡外相はスターリンさんの目は柔和で良いという。私は3百万人を処刑したという大粛清の時、スターリンの目は柔和だったのかと密かに疑った。私の手記には、(クレムリンの会談で)スターリンの目は象を思い出させる。茶色である。笑うと目じりにしわがより柔和な顔になるからだろうか、と書いてある。スターリンの瞳には独特の人懐っこさがある。スターリンは5尺6寸、並んでみたら私と余り違わなかった。握手をする。骨太く硬い。この日のスターリンはアジア人になりきっていた。『私はアジア人だ』と何度も言った。『日ソが協力すれば世界無敵だ』とも言った。……(松岡外相がモスクワ駅頭で外交団と挨拶を交わしていると、突然スターリンが現れる)外交団も記者団も目を疑った。こんなことはまったく絶無だったからだ。スターリンは松岡を抱擁した。私もナイスボーイと言われた」(抜粋要約『戦争と外交』上巻 加瀬俊一著 読売新聞社)

しかしこれはスターリン一流の演出であり、芝居だった。この時スターリンはパブロフを米国に派遣し、ハル・ノートの原案を伝えさせていたのである。

【ソ連の侵攻】―――この4年後の1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を侵犯し、ドイツから呼び戻した160万の大軍を東部国境に送り込み、満洲、樺太、千島に襲い掛かった。ソ連は米国に北海道の北半分の占領も要求したが、ソ連の動きにようやく危険を感じた米国は拒否した。

【日本軍の抵抗】―――ソ連の侵略軍は、主力を南方に転出させていた日本の関東軍を破ったが、それでも関東軍はソ連軍を撃破し国民を守っている。1945年8月16日から18日にかけて、日本陸軍歩兵部隊2千5百名は北京の北方張家口(ちょうかこう)の北で、侵入してくるソ連軍1万人以上を迎え討った。日本軍は戦死者70余名を出したが5百人以上ソ連兵を倒し、ソ連機甲部隊を撃破して敵の攻撃続行を不可能にした。この日本軍は民間人4万人を無事帰国させた後、無事に帰国している。精強部隊が南方に引き抜かれた末期の日本帝国陸軍にしてなお、強大なソ連赤軍を相手にこれほどの戦いができる実力を有していたのである。(抜粋要約『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』福井雄三著 主婦の友社)

【日本の被害】―――日ソ中立条約を信用していた日本は、大きな被害を受けた。満洲では、24万以上の幼児や婦女子を含む一般市民が死亡した。特に日本人開拓農民は、奥地でソ連軍と現地の支那人に襲われて殺されたり、自決するなど大きな被害を出した。葛根廟(かっこんびょう)事件ではソ連兵に、千2百名の子供を含む老若男女が虐殺された。そして60万人以上の日本青年がソ連に連行され、実質奴隷として10年以上も酷使され、その虐待で餓死、処刑、毒殺を含め6万人以上が殺された。満洲に日本が建設した高価な重工業設備はすべてソ連に解体され盗み出された。1953年のスターリンの死後には生存抑留者の帰還が進んだが、ソ連のこの国家犯罪の被害の天文学的な賠償はまだ行われていない。

  ( 中略 ⇒ p223 )

【ヤルタ会談の秘密協定が原因】―――日ソ戦争はソ連がいきなり日ソ中立条約を侵犯して侵略してきたと思っている人が多い。しかし実際は、地上戦を恐れるルーズベルトが、ヤルタ会談の秘密協定でスターリンに莫大な代償を与えて代理占領を依頼したものである。ソ連にとり国際協定の侵犯は常習行為であった。

【追い返された米軍】―――スターリンは満洲を占領して日本の領土や支那の権益などをすべて手に入れると、米国との対立覚悟で満洲を共産化してしまった。満洲に国民党軍を送り込もうとして米軍のバーべー将軍は、営口港(遼東半島の付け根)でソ連軍の銃撃威嚇を受けて追い返されてしまった。

【ソ連の対米協調の終わり】―――スターリンはもともと独ソ戦のために米国を利用した。そして予定どおり、ドイツと東部国境の敵である日本を滅ぼし、米国からは莫大な軍事借款や原爆を含む高度な軍事航空技術まで手に入れることに成功した。しかし戦争でソ連社会の統制が緩んだので、再び恐怖支配を再開するためにはこれ以上の米国との交流関係は危険と見て、米国利用路線を切り捨てたのである。一方の米国政府は、スターリンが戦後も対米協調路線を続けると思い込んでいた。このためKGBの高官は内部会議で、米国のまごつく様を見て嘲笑したという。

【ソ連の勝利と米国の敗北】―――スターリンは、米国の容共政策(共産主義を許容する)とアジア政策の混乱を利用して、満洲から再開した国共内戦により毛沢東を使って支那全土を共産化し、1950年には邪魔な米国を支那から追い出すことに成功した。米国の長年にわたる支那政策の目論見は「捕らぬ狸の皮算用」に終わり、「トンビに油揚げをさらわれた」のである。まことに鮮やかなスターリンの政治手腕であった。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 基地の70パーセントが沖縄... | トップ | 国難を救った日本人の進取の... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事