電脳筆写『 心超臨界 』

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手持ちのカードで良いプレーをすることにあるのだ
ジョッシュ・ビリングス

日本史 昭和編 《 大局観の欠如ゆえの軍部のゴリ押し――渡部昇一 》

2023-11-30 | 04-歴史・文化・社会
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今から考えてみると、朝鮮の2個師団増設は1年や2年延期してもよかった。事実、西園寺内閣の1年延長論を上原がああいう形で蹴ったために、結局、その後3年間は増設できなかったのに、事態はどうということもなかった。つまり上原(ここに軍閥の代表者たる山縣の名を入れてもよい)や陸軍の心配は切実で誠実であったけれども、ゴリ押しして要求するほどのことではなかったのである。同じように、海軍が大急ぎで超ド級の戦艦を揃えるほどのことはなかった。その後、天下の形成は軍縮に向かい、数年後の大正11年(1922)には戦艦土佐以下9隻の建造中止をするのだから。


『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p66 )
1章 総理なき国家・大日本帝国の悲劇
――「昭和の悲劇」統帥(とうすい)権問題は、なぜ、起きたか
(2) なぜ、議会制民主主義は崩壊したか

◆大局観の欠如ゆえの軍部のゴリ押し

清浦の組閣が流れたあと、ふたたび元老会議が行なわれた。メンバーは同じく山縣有朋、大山巌、松方正義と、それに病のすでに篤い井上馨である。

結局、井上の意見で大隈重信が組閣することになった。この大隈内閣に外相として入閣した加藤高明が実際は副総理の役目をし、難問の海軍大臣は、同郷の尾張出身の海軍中将八代六郎に引き受けさせた。八代は当時舞鶴鎮守府長官であり現役である。そして、八代が入閣した条件は、加藤友三郎が清浦に示したのとほぼ同じことであった。

つまり、大隈重信も、海軍の要求をのむことによって組閣を成功させたのである。

その年の暮、議会は海軍の建艦予算を通過させたが、陸軍の2個師団増設費は否決した(もっとも翌年の議会で承認)。上原の西園寺内閣倒閣の行為は、まだ議員の記憶に新しかった。

要求が否決されたにもかかわらず、陸軍大臣の岡市之助は辞めなかった。岡が上原とまったく同じことをしたら、やはり大隈内閣は倒れたことであろう。そうしなかったのは、山縣や大山の意向だったと考えてよい。山縣は上原の主張を抑えなかった。そのため政変が続いた。これに対して、山縣は責任を感じていたと思われる。彼には、さすが元勲・元老としての、国家に対する誠実な気持ちがあった。

陸軍閥の元老が良識を持てば憲政は円滑に動き、我意を通そうとすれば内閣は倒れる。憲政の円滑なる運営は、憲政という制度に保証されたものでなく、元老という個人の良識次第であったことがよく分かる。元老・元勲たちは着実に老いてゆく。軍閥を抑えることのできる元勲・元老がいなくなった時の日本の憲政はどうなるか。すでに終末の日は数えられているようなものだった。

ここで指摘しておくべき重要な点は、陸軍の危機感も、海軍の危機感もそれぞれ現実のものだったことである。

上原らの陸軍軍人たちも、朝鮮半島の状況とロシア軍の強化を誠実に心配していた。居ても立ってもおれぬほど憂慮していた。海軍も、ドレッドノート革命後のすさまじいアメリカ海軍の増強を誠実に心配していた。これに対応するために新鋭戦艦は起工されたものの、相次ぐ政変のために中途半端のままに、造船所にあった。こんな状況を放っておくわけにはいかない、と考えるのも無理はない。建造継続の約束をしてくれるのでなければ、海軍大臣は引き受けない、というのも愛国の情であった。

しかし、愛国の至情があれば何をしてもよいというわけではない。愛国は軍人の独占物ではない。当時の財政も財政家から見れば憂慮に堪えないものであった。みんなの言うことを権威をもって調整すべき人がいなければならない。それこそ立憲政府の首相のはずである。しかし、こういう首相は制度的に不可能だったのだ。

今から考えてみると、朝鮮の2個師団増設は1年や2年延期してもよかった。事実、西園寺内閣の1年延長論を上原がああいう形で蹴ったために、結局、その後3年間は増設できなかったのに、事態はどうということもなかった。

つまり上原(ここに軍閥の代表者たる山縣の名を入れてもよい)や陸軍の心配は切実で誠実であったけれども、ゴリ押しして要求するほどのことではなかったのである。

同じように、海軍が大急ぎで超ド級の戦艦を揃えるほどのことはなかった。その後、天下の形成は軍縮に向かい、数年後の大正11年(1922)には戦艦土佐以下9隻の建造中止をするのだから。

これらの史実が示すのは、それぞれの担当者には火のつくような緊急事に見えても、大局的にはそれほどのことはなく、重要なものは憲政の支障なき運用を確保することであったということである。
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