電脳筆写『 心超臨界 』

勇気とは恐怖に抵抗してそれを支配することである
恐怖が消えるわけではない
( マーク・トウェイン )

日本史 鎌倉編 《 正統にまつわる運命の不思議――渡部昇一 》

2025-01-17 | 04-歴史・文化・社会
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つまり自分の息子を天皇の養子と定めるという、日本人としては極点まで昇りつめた栄華から、わずか10日ばかりのちに義満は急死したのである。これは偶然であろうか。毒殺説は今までもないようであるから、偶然というより仕方がないであろう。しかしともかく、この偶然によって、血が繋がらないのに政治的権力によってその子どもが皇位に即(つ)くということは、もう一歩というところで実現しないで終わったことは確かである。これを天佑神助(てんゆうしんじょ)と言う人があっても、それほどおかしくないであろう。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p193 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(1) 政治的手段としての「カミ」と「ホトケ」

◆正統にまつわる運命の不思議

ここに不思議が起こった。

義嗣が親王と同じ儀式で元服した翌々日に、義満は、急に発病したのである。急に咳が出はじめたという。義嗣の元服式が4月25日、義満の発病が4月27日、そして5月3日には再びよくなったが、2、3日後に病状が急転し、5月6日には死んだのである。歳は51で、それほどの高齢ではない。

つまり自分の息子を天皇の養子と定めるという、日本人としては極点まで昇りつめた栄華から、わずか10日ばかりのちに義満は急死したのである。

これは偶然であろうか。毒殺説は今までもないようであるから、偶然というより仕方がないであろう。しかしともかく、この偶然によって、血が繋がらないのに政治的権力によってその子どもが皇位に即(つ)くということは、もう一歩というところで実現しないで終わったことは確かである。これを天佑神助(てんゆうしんじょ)と言う人があっても、それほどおかしくないであろう。

ローマ法皇でも、日本の天皇でも、千数百年も続いている正統というのは、こうしたタイミングのよい偶然がいくつかあってはじめて、正統を保ちえるのであろう。

そして日本では、正統に手を出したり、極度の不敬を行なった者は、蘇我以来、2章に述べた高師直(こうのもろなお)一族に至るまで、末路があまりよくない。皇位に接近しうる極限は、自分の娘を天皇の后妃にして、その孫を即位させること、つまり、天皇の外祖父になることであるらしい。

藤原氏は権力の頂上にあったときも、けっして自分や自分の息子を皇位に即けようとはしなかった。天皇の外祖父で我慢したのである。

この奇妙な「節度」は、藤原氏の子孫が今日まで残っていることと無関係ではないようである。

では、義満がこの節度を明らかに越えたにも拘わらず、足利将軍がその後何代も続いたのはどうしてであろうか。

これは将軍の義持(よしもち)と、幕府の実力者斯波義将(しばよしまさ)のおかげである。

義満が急死したあと、すでに将軍になっていた義持と、父から特別の寵愛を受け、天皇の養子になっていた義嗣の間には、当然、紛争が予想された。しかし、管領(かんれい)斯波義将の支持によって義持は将軍の位置を保った。

ところが、かつての父の溺愛の甘美な味を覚えている義嗣は、それが不満でたまらない。隙あらば自分が天下を取りたいとチャンスを狙っていたが、関東のほうでの内紛を利用して義持を打倒しようとした。

だが、これは失敗に終わった。

義嗣は捕まえられて、相国(しょうこく)寺の林光院(りんこういん)に幽閉されたが、その後、この謀反計画の全貌を知った義持は怒って、林光院に火をかけ、建物もろともに義嗣を焼き殺してしまう。このようにして親王のごとく元服して、天皇の養子となった義嗣は、ここで完全に消えたのである。

義持は父の義満の皇室接近を嫌って、その逆のことをやり出した。

義満が太上法皇の尊号を死後もらいたがっていたことを察して、宮廷からその宣下(せんげ)の勅使(ちょくし)があったが、「そんな破格な尊号をもらった臣下はいない」と言って返上している。また、義満夫人――例の准母の日野康子――の葬式も、ごく簡素にやっているし、北山の別荘も金閣寺ほかを少し残して取り払い、庭石を崩している。これは斯波義将の意見でもあったようだが、義持は再び武家としての「節度」を回復した。

これによって足利将軍は、ともかく十五代まで続くことになったのである。
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