『ソロモンの偽証(後篇・裁判)』を新宿ピカデリーで見ました。
(1)本作は、前作の「前篇・事件」の盛り上がりを踏まえて、期待を込めて映画館に行ってきました。
本作の冒頭では、前篇のダイジェストが流され、「私たちの裁判が伝説になっていた。真実にたどり着きたいという思いで、裁判に向かっていった」とのナレーションが入ります。
次いで、前篇の冒頭を受けて、桜が満開の校庭を見下ろせる校長室で、現在の校長(余貴美子)と赴任してきた中原涼子(旧姓藤野:尾野真千子)とが話をしています。
校長が「中学生なのに裁判なんか出来たのは、藤野さんがスーパーマンだからと思っていた。私の代からちゃんと修正しておきます。でもよく投げ出さなかった、凄い」と言うと、中原は「本当はすごく怖かった。でも、勇気を、一緒にいた仲間からもらった。それで、想像もしなかった真実が待ち受けていた」と答えます。
さあ、後篇ではどんな真実が明らかにされるのでしょうか、………?
本作は、前篇と同様に出演者が中学生を演じる者も含めて皆よく頑張っており、またそれなりのテーマがいろいろうまく描き出されているとはいえ(注1)、そして言うまでもなく、事件の詳しい真相が明らかにされるにせよ、前篇で期待感をあれだけ釣り上げておきながらの後篇ですから、もう少しストーリーに工夫がされないものかと思いましたが、原作を踏まえた上での映画化ですからこれはこれで仕方がないのでしょう(注2)。
(以下は、様々にネタバレしていますので、どうぞご注意ください)
(2)前篇を見たクマネズミにしてみたら、警察・学校側が採る自殺説はかなり説得力があるものの(注3)、しかし事件には何か重大な裏があって真相はもっと別のところにあるのではないか(注4)、それには大人の嘘が関係しているのではないか(注5)、その大人とは誰だろうか(注6)、ということで、前篇に登場していた校長(小日向文世)以下、関係者が皆何か隠しているようにも見え、それなら面白い、後篇ではいったいどんな解決が見られるのだろうかと、期待に胸を膨らませながら映画館に出向いたわけです。
それが、目をみはるような真相が暴かれることもなく、結局のところ、当初の警察・学校側の見込み通りというのであれば、肩透かしを食らった感じで、ナーンダという気にさせられてしまいます。
これだったら、前・後の2部作にするまでもなく、3時間位にまとめられるのではないでしょうか?
もう少し申し上げると、例えば、
イ)本作のタイトルは「ソロモンの偽証」となっていますが、一体誰が“ソロモン”であり、誰が「偽証」をしたのでしょう?
本作からすると、三宅樹里(石井杏奈)が、学校の法廷で、まず「真実を述べることを誓います」と言いながらも、「事件を目撃したのは、私じゃなくて浅井松子さんです」、「浅井さんが自分で告発状を書いて、私はポストに入れるのに付き合っただけです」と述べていますから、素直に受け取れば「偽証」したことになるでしょう(注7)。
でも、“賢者”とされるソロモンが三宅樹里?
それに、劇場用パンフレットの「Introduction」には、「裁判で明らかになる思いもよらぬ人物の【偽証】」とありますが、三宅樹里が「思いもよらぬ人物」?
本作で描かれる三宅樹里については、とても“賢者”とは見受けられません(注8)。
また確かに、自分が目撃したと言うのではなく、浅井松子に責任をなすりつけていますから、予想外の証言内容かも知れません。でも、三宅樹里ならそう言いかねないのではないか、と本作からは思えます。
三宅樹里が「偽証」をしているとしても、「思いもよらぬ人物の偽証」とはいえないでしょう。
それになによりも、「偽証」がタイトルとして事々しく持ち上げられている割には(注9)、裁判の中でいともアッサリと三宅樹里の証言が覆されるだけでなく、その証言によって裁判の進行はほとんど妨げられません。
被告人・大出(清水尋也)のアリバイが今野弁護士の証言によって立証された時、検事役の藤野(藤野涼子)は、三宅樹里の「偽証」を申し立てることをせずに無視してしまいます。
「偽証」をタイトルで使うからには、「偽証」が明らかになれば、誰かが何かの対応をするはずではないでしょうか?
むしろ、本作の登場人物の中でこうした条件(“賢者”であり「思いもよらぬ人物」)に適っているのは神原(板垣瑞生)の方ではないでしょうか(注10)?
彼は、大出を巡る疑惑を晴らそうとして、学校内裁判を開くことに尽力し、大出の弁護人を買って出たほどの人物なのですから。
その上、彼は、生前の柏木卓也(望月歩)に最後に会った人物であることを法廷で自ら明らかにしたのですから。
しかしながら、神原は、少なくとも法廷において「偽証」をしていないはずです(注11)。
裁判の最後において、事件の夜中に起きた事柄をありのままに申し立てているにすぎません。
一体、本作のタイトル「ソロモンの偽証」とはどのような意味なのでしょう?
ロ)柏木の死について真相が明らかになったのでしょうか?
この裁判は、柏木がどうやって死んだのか、大出による殺人なのか、それとも自殺なのか、その真相を究明するということで設けられたはずです(注12)。
確かに、大出が殺したのでないことは明らかになりました。でも、柏木は、本当に自ら飛び降りたのでしょうか?
肝心の柏木が死んだ時の様子については、神原の一方的な証言しかありません。それも、柏木が死んだ時には現場を離れていたと神原は言うのです。
これでは、本当に柏木が自殺したのかどうかわからないのではないでしょうか?
そもそも、柏木は、自殺するというのに、どうして神原におかしなゲームをさせた上で、わざわざ学校の屋上に呼び出したりしたのでしょう?一体、柏木は、神原からどんな言葉を聞き出したかったのでしょう?それを聞いてから、神原に何をさせたかったのでしょう?
考えられるのは、神原にも、自分と同じように「この世の中はくだらない」と思ってもらいたかった、ということです。でも、これから死のうとしている人間が、なぜ思いを同じくする仲間を欲しがるのでしょう(まさか、一緒に飛び降りようとした?)?
もしかしたら、柏木が神原に「死のうと思ってる」と言ったのは単に口先だけのことであって(自殺するつもりなどなくて)、実は、以前の友達のように付き合ってくれと神原に言いたかっただけなのではないでしょうか(注13)?
ハ)前・後篇と2部作(注)にするのは、長い中断が入って観客側の気持ちの維持・継続が元々難しい上に、サスペンス物の場合一層困難が増すのではないでしょうか?
最近の2部作としては『るろうに剣心』を見ましたが、拙エントリで申し上げたように、後篇は期待通りの出来栄えだったと思います。
これは、剣心(佐藤健)と志々雄(藤原竜也)との頂上決戦が後篇で描かれているために(そして、その志々雄を演じる藤原竜也の素晴らしい演技もこれあり)、前篇での盛り上がりが後篇まで持続しているように思います。
これに反して、本作のようなサスペンス物の場合、前篇は、「事件」を描くことが多いでしょうからかなりの盛り上がりを見せても、謎解きが行われる後篇は、アッと驚くような真相解明でもなされない限り、期待はずれ感を伴ってしまうように思われます。
特に本作の場合、前半の展開は素晴らしいものがあっただけに、後半の静かな展開との落差を大きく感じてしまいます。
ところで、前篇が非常に面白かった『寄生獣』ですが、果たして後篇(完結編)はどんなもんでしょうか(注14)?
(3)渡まち子氏は、「大人は嘘をつく。それは時には愛する誰かを守るためだ。だがどんなに傷ついても真実に向き合うことで、子供たちは成長する。鑑賞後、語り合いたくなる作品だ」として75点をつけています。
(注1)例えば、劇場用パンフレット掲載のインタビューで、成島監督は、「今、学校や将来や家庭に居場所がないと絶望している子供がいたのなら、それでもとにかく「死ぬな」と伝えたい。「もうちょっと待て」と。待っているうちに、風穴を開けてくれる出会いがあるはずだから」と述べています。
また、渡まち子氏は、本文の(3)で触れている映画評で、「子供たちの成長ドラマ、親子愛、不条理がまかり通る現代社会への警鐘など、多面的なドラマが浮かび上がる構成」と述べています。
確かに、本作には様々なテーマが込められていると思います。でも、そうしたテーマは、サスペンス物としての出来栄えがあってこそ生きてくるものではないかとクマネズミは思います。
(注2)最近、土屋アンナのドタキャン降板騒動など、原作者と制作者側との意見対立によって、原作のドラマ化などが取りやめになるケースがいくつか起きています。
先般も、同じようなケースを巡っての裁判で、制作者側が敗訴する判決がありました(この記事)。
新聞の記事によれば、「原作は「母と娘」がテーマで、主人公は母親との葛藤があり、物語の終盤まで会いに行けないという設定。だが、脚本では、初回で娘が実家に立ち寄るなど、大きく改変されていた」そうです。
本作の場合は、野田(前田航基)が単なる生徒の一人になってしまっていること(原作では、現在の校長に会いに来るのが中原涼子ではなく野田とのこと)など、様々の変更点があるようです(原作未読)。
ただ、膨大な原作を映画化するにあたってはこうした刈り込みは当然のことでしょう。
ですが、原作とドラマ化・映画化されたものとは別物だとは言っても、原作と違った事件の真相とか犯人などといった基本的な改変をドラマ・映画に持ち込むことは、いくらなんでもできないことと思います。
(注3)前篇では、保護者に対する説明会で、城東警察署の佐々木刑事(田畑智子)は、「告発状が真実なら、目撃者が学校の屋上にいて事件を目撃したはずだが、そんな時間にどうしてそんな場所にいたのか。なぜ、すぐに110番したり、救急車を呼んだりしなかったのか」など、不自然な点を挙げて他殺説を否定し、保護者たちも納得します。
(注4)前篇で、主役の藤野は神原に対して、「あたしは神原君と違って、柏木君が自殺だとはまだ言い切れない」とか「大出君なら、やりかねないと思っている」などと言っています。
(注5)「嘘つきは、大人のはじまり。」とのキャッチフレーズが、公式サイトの最初に掲げられています(尤も、「大人のはじまり」と言っているのであって、「嘘つき=大人」と言っているのではないのかもしれませんが)。
(注6)前篇についての拙エントリの(2)や「注3」では、公式サイトの最初のページに掲げられている写真から、ユダに該当するのは誰かと探ってみたりしました(もちろん、遊びに過ぎませんが)。
さらにまた、生徒にいい格好をする北尾先生(松重豊)が犯人ではないかとか、前篇ではあまり出番がない三宅未来(何しろ永作博美が扮しているのですから!)が何かやったのかもしれないと、考えたりしました。
(注7)三宅樹里の証言のうち、自分は屋上で何も見ていないという部分は正しいとしても、浅井松子から話を聞いたという部分は偽りです(大出のアリバイが証明されていますから)。
(注8)原作者の宮部みゆき氏は、YouTubeで公開されている「ソロモンの偽証 刊行メッセージ」において、「なぜ「ソロモンの偽証」なのか?誰が偽証しているのか?このタイトルにはどんな意味があるのか?」と自問して、「最も知恵ある者が嘘を吐いている。最も正しいことをしようとする者が嘘を吐いている。最も権威と権力を持つ者が嘘を吐いている。そのどれかなのかと自分自身では考えている」と応答しています。
しかしながら、三宅樹里は、「最も知恵ある者」、あるいは「最も正しいことをしようとする者」、もしくは「最も権威と権力を持つ者」なのでしょうか?
でも、本作からは、そのいずれとも思われません。
(注9)確かに、この学校裁判が行われることになったのは、三宅樹里が作成した告発状があったからです。でも、そのこと自体は「偽証」でもなんでもありません。
(注10)原作のうち『ソロモンの偽証 第II部 決意』についてのAmazonの記事〔「内容(「BOOK」データベースより)〕では、「史上最強の中学生か、それともダビデの使徒か」として弁護人の神原和彦が紹介されています。
あるいは、原作本としては、三宅樹里をソロモンに、神原をソロモンの父のダビデに想定しているのかもしれませんが。
(注11)神原は、「中学に入ってから柏木君には一度も合っていない」と嘘をついていますし、柏木が受けた電話の相手は柏木自身だ、というような嘘(そうでないことを神原は知っていますから)を藤野に言いますが、これらは「偽証」ではないでしょう。
(注12)例えば、藤野はTV局記者に対して、「告発状の差出人は誰か、中身は正しいのか、柏木君は殺されたのか、自殺なのか、みんな自分たちで調べます」と言います。
(注13)ちなみに、このサイトの記事の「あらすじ」によれば、原作の第Ⅲ部の最後では、「柏木の自宅から遺書のような小説が出てきて柏木は自殺願望があったことが判明した」となっているようです(映画ではその部分はカットされています)。
ただ、小説(それも中学生が書いた小説!)に何が書かれていようと、直ちに現実と結びつくものではありませんし、仮に柏木に自殺願望があったとしても、そのことと神原を呼び出すこととは簡単には結びつかないのではないでしょうか?
(注14)8月公開の『進撃の巨人』も2部作とのこと。
★★★☆☆☆
象のロケット:ソロモンの偽証 後篇・裁判
(1)本作は、前作の「前篇・事件」の盛り上がりを踏まえて、期待を込めて映画館に行ってきました。
本作の冒頭では、前篇のダイジェストが流され、「私たちの裁判が伝説になっていた。真実にたどり着きたいという思いで、裁判に向かっていった」とのナレーションが入ります。
次いで、前篇の冒頭を受けて、桜が満開の校庭を見下ろせる校長室で、現在の校長(余貴美子)と赴任してきた中原涼子(旧姓藤野:尾野真千子)とが話をしています。
校長が「中学生なのに裁判なんか出来たのは、藤野さんがスーパーマンだからと思っていた。私の代からちゃんと修正しておきます。でもよく投げ出さなかった、凄い」と言うと、中原は「本当はすごく怖かった。でも、勇気を、一緒にいた仲間からもらった。それで、想像もしなかった真実が待ち受けていた」と答えます。
さあ、後篇ではどんな真実が明らかにされるのでしょうか、………?
本作は、前篇と同様に出演者が中学生を演じる者も含めて皆よく頑張っており、またそれなりのテーマがいろいろうまく描き出されているとはいえ(注1)、そして言うまでもなく、事件の詳しい真相が明らかにされるにせよ、前篇で期待感をあれだけ釣り上げておきながらの後篇ですから、もう少しストーリーに工夫がされないものかと思いましたが、原作を踏まえた上での映画化ですからこれはこれで仕方がないのでしょう(注2)。
(以下は、様々にネタバレしていますので、どうぞご注意ください)
(2)前篇を見たクマネズミにしてみたら、警察・学校側が採る自殺説はかなり説得力があるものの(注3)、しかし事件には何か重大な裏があって真相はもっと別のところにあるのではないか(注4)、それには大人の嘘が関係しているのではないか(注5)、その大人とは誰だろうか(注6)、ということで、前篇に登場していた校長(小日向文世)以下、関係者が皆何か隠しているようにも見え、それなら面白い、後篇ではいったいどんな解決が見られるのだろうかと、期待に胸を膨らませながら映画館に出向いたわけです。
それが、目をみはるような真相が暴かれることもなく、結局のところ、当初の警察・学校側の見込み通りというのであれば、肩透かしを食らった感じで、ナーンダという気にさせられてしまいます。
これだったら、前・後の2部作にするまでもなく、3時間位にまとめられるのではないでしょうか?
もう少し申し上げると、例えば、
イ)本作のタイトルは「ソロモンの偽証」となっていますが、一体誰が“ソロモン”であり、誰が「偽証」をしたのでしょう?
本作からすると、三宅樹里(石井杏奈)が、学校の法廷で、まず「真実を述べることを誓います」と言いながらも、「事件を目撃したのは、私じゃなくて浅井松子さんです」、「浅井さんが自分で告発状を書いて、私はポストに入れるのに付き合っただけです」と述べていますから、素直に受け取れば「偽証」したことになるでしょう(注7)。
でも、“賢者”とされるソロモンが三宅樹里?
それに、劇場用パンフレットの「Introduction」には、「裁判で明らかになる思いもよらぬ人物の【偽証】」とありますが、三宅樹里が「思いもよらぬ人物」?
本作で描かれる三宅樹里については、とても“賢者”とは見受けられません(注8)。
また確かに、自分が目撃したと言うのではなく、浅井松子に責任をなすりつけていますから、予想外の証言内容かも知れません。でも、三宅樹里ならそう言いかねないのではないか、と本作からは思えます。
三宅樹里が「偽証」をしているとしても、「思いもよらぬ人物の偽証」とはいえないでしょう。
それになによりも、「偽証」がタイトルとして事々しく持ち上げられている割には(注9)、裁判の中でいともアッサリと三宅樹里の証言が覆されるだけでなく、その証言によって裁判の進行はほとんど妨げられません。
被告人・大出(清水尋也)のアリバイが今野弁護士の証言によって立証された時、検事役の藤野(藤野涼子)は、三宅樹里の「偽証」を申し立てることをせずに無視してしまいます。
「偽証」をタイトルで使うからには、「偽証」が明らかになれば、誰かが何かの対応をするはずではないでしょうか?
むしろ、本作の登場人物の中でこうした条件(“賢者”であり「思いもよらぬ人物」)に適っているのは神原(板垣瑞生)の方ではないでしょうか(注10)?
彼は、大出を巡る疑惑を晴らそうとして、学校内裁判を開くことに尽力し、大出の弁護人を買って出たほどの人物なのですから。
その上、彼は、生前の柏木卓也(望月歩)に最後に会った人物であることを法廷で自ら明らかにしたのですから。
しかしながら、神原は、少なくとも法廷において「偽証」をしていないはずです(注11)。
裁判の最後において、事件の夜中に起きた事柄をありのままに申し立てているにすぎません。
一体、本作のタイトル「ソロモンの偽証」とはどのような意味なのでしょう?
ロ)柏木の死について真相が明らかになったのでしょうか?
この裁判は、柏木がどうやって死んだのか、大出による殺人なのか、それとも自殺なのか、その真相を究明するということで設けられたはずです(注12)。
確かに、大出が殺したのでないことは明らかになりました。でも、柏木は、本当に自ら飛び降りたのでしょうか?
肝心の柏木が死んだ時の様子については、神原の一方的な証言しかありません。それも、柏木が死んだ時には現場を離れていたと神原は言うのです。
これでは、本当に柏木が自殺したのかどうかわからないのではないでしょうか?
そもそも、柏木は、自殺するというのに、どうして神原におかしなゲームをさせた上で、わざわざ学校の屋上に呼び出したりしたのでしょう?一体、柏木は、神原からどんな言葉を聞き出したかったのでしょう?それを聞いてから、神原に何をさせたかったのでしょう?
考えられるのは、神原にも、自分と同じように「この世の中はくだらない」と思ってもらいたかった、ということです。でも、これから死のうとしている人間が、なぜ思いを同じくする仲間を欲しがるのでしょう(まさか、一緒に飛び降りようとした?)?
もしかしたら、柏木が神原に「死のうと思ってる」と言ったのは単に口先だけのことであって(自殺するつもりなどなくて)、実は、以前の友達のように付き合ってくれと神原に言いたかっただけなのではないでしょうか(注13)?
ハ)前・後篇と2部作(注)にするのは、長い中断が入って観客側の気持ちの維持・継続が元々難しい上に、サスペンス物の場合一層困難が増すのではないでしょうか?
最近の2部作としては『るろうに剣心』を見ましたが、拙エントリで申し上げたように、後篇は期待通りの出来栄えだったと思います。
これは、剣心(佐藤健)と志々雄(藤原竜也)との頂上決戦が後篇で描かれているために(そして、その志々雄を演じる藤原竜也の素晴らしい演技もこれあり)、前篇での盛り上がりが後篇まで持続しているように思います。
これに反して、本作のようなサスペンス物の場合、前篇は、「事件」を描くことが多いでしょうからかなりの盛り上がりを見せても、謎解きが行われる後篇は、アッと驚くような真相解明でもなされない限り、期待はずれ感を伴ってしまうように思われます。
特に本作の場合、前半の展開は素晴らしいものがあっただけに、後半の静かな展開との落差を大きく感じてしまいます。
ところで、前篇が非常に面白かった『寄生獣』ですが、果たして後篇(完結編)はどんなもんでしょうか(注14)?
(3)渡まち子氏は、「大人は嘘をつく。それは時には愛する誰かを守るためだ。だがどんなに傷ついても真実に向き合うことで、子供たちは成長する。鑑賞後、語り合いたくなる作品だ」として75点をつけています。
(注1)例えば、劇場用パンフレット掲載のインタビューで、成島監督は、「今、学校や将来や家庭に居場所がないと絶望している子供がいたのなら、それでもとにかく「死ぬな」と伝えたい。「もうちょっと待て」と。待っているうちに、風穴を開けてくれる出会いがあるはずだから」と述べています。
また、渡まち子氏は、本文の(3)で触れている映画評で、「子供たちの成長ドラマ、親子愛、不条理がまかり通る現代社会への警鐘など、多面的なドラマが浮かび上がる構成」と述べています。
確かに、本作には様々なテーマが込められていると思います。でも、そうしたテーマは、サスペンス物としての出来栄えがあってこそ生きてくるものではないかとクマネズミは思います。
(注2)最近、土屋アンナのドタキャン降板騒動など、原作者と制作者側との意見対立によって、原作のドラマ化などが取りやめになるケースがいくつか起きています。
先般も、同じようなケースを巡っての裁判で、制作者側が敗訴する判決がありました(この記事)。
新聞の記事によれば、「原作は「母と娘」がテーマで、主人公は母親との葛藤があり、物語の終盤まで会いに行けないという設定。だが、脚本では、初回で娘が実家に立ち寄るなど、大きく改変されていた」そうです。
本作の場合は、野田(前田航基)が単なる生徒の一人になってしまっていること(原作では、現在の校長に会いに来るのが中原涼子ではなく野田とのこと)など、様々の変更点があるようです(原作未読)。
ただ、膨大な原作を映画化するにあたってはこうした刈り込みは当然のことでしょう。
ですが、原作とドラマ化・映画化されたものとは別物だとは言っても、原作と違った事件の真相とか犯人などといった基本的な改変をドラマ・映画に持ち込むことは、いくらなんでもできないことと思います。
(注3)前篇では、保護者に対する説明会で、城東警察署の佐々木刑事(田畑智子)は、「告発状が真実なら、目撃者が学校の屋上にいて事件を目撃したはずだが、そんな時間にどうしてそんな場所にいたのか。なぜ、すぐに110番したり、救急車を呼んだりしなかったのか」など、不自然な点を挙げて他殺説を否定し、保護者たちも納得します。
(注4)前篇で、主役の藤野は神原に対して、「あたしは神原君と違って、柏木君が自殺だとはまだ言い切れない」とか「大出君なら、やりかねないと思っている」などと言っています。
(注5)「嘘つきは、大人のはじまり。」とのキャッチフレーズが、公式サイトの最初に掲げられています(尤も、「大人のはじまり」と言っているのであって、「嘘つき=大人」と言っているのではないのかもしれませんが)。
(注6)前篇についての拙エントリの(2)や「注3」では、公式サイトの最初のページに掲げられている写真から、ユダに該当するのは誰かと探ってみたりしました(もちろん、遊びに過ぎませんが)。
さらにまた、生徒にいい格好をする北尾先生(松重豊)が犯人ではないかとか、前篇ではあまり出番がない三宅未来(何しろ永作博美が扮しているのですから!)が何かやったのかもしれないと、考えたりしました。
(注7)三宅樹里の証言のうち、自分は屋上で何も見ていないという部分は正しいとしても、浅井松子から話を聞いたという部分は偽りです(大出のアリバイが証明されていますから)。
(注8)原作者の宮部みゆき氏は、YouTubeで公開されている「ソロモンの偽証 刊行メッセージ」において、「なぜ「ソロモンの偽証」なのか?誰が偽証しているのか?このタイトルにはどんな意味があるのか?」と自問して、「最も知恵ある者が嘘を吐いている。最も正しいことをしようとする者が嘘を吐いている。最も権威と権力を持つ者が嘘を吐いている。そのどれかなのかと自分自身では考えている」と応答しています。
しかしながら、三宅樹里は、「最も知恵ある者」、あるいは「最も正しいことをしようとする者」、もしくは「最も権威と権力を持つ者」なのでしょうか?
でも、本作からは、そのいずれとも思われません。
(注9)確かに、この学校裁判が行われることになったのは、三宅樹里が作成した告発状があったからです。でも、そのこと自体は「偽証」でもなんでもありません。
(注10)原作のうち『ソロモンの偽証 第II部 決意』についてのAmazonの記事〔「内容(「BOOK」データベースより)〕では、「史上最強の中学生か、それともダビデの使徒か」として弁護人の神原和彦が紹介されています。
あるいは、原作本としては、三宅樹里をソロモンに、神原をソロモンの父のダビデに想定しているのかもしれませんが。
(注11)神原は、「中学に入ってから柏木君には一度も合っていない」と嘘をついていますし、柏木が受けた電話の相手は柏木自身だ、というような嘘(そうでないことを神原は知っていますから)を藤野に言いますが、これらは「偽証」ではないでしょう。
(注12)例えば、藤野はTV局記者に対して、「告発状の差出人は誰か、中身は正しいのか、柏木君は殺されたのか、自殺なのか、みんな自分たちで調べます」と言います。
(注13)ちなみに、このサイトの記事の「あらすじ」によれば、原作の第Ⅲ部の最後では、「柏木の自宅から遺書のような小説が出てきて柏木は自殺願望があったことが判明した」となっているようです(映画ではその部分はカットされています)。
ただ、小説(それも中学生が書いた小説!)に何が書かれていようと、直ちに現実と結びつくものではありませんし、仮に柏木に自殺願望があったとしても、そのことと神原を呼び出すこととは簡単には結びつかないのではないでしょうか?
(注14)8月公開の『進撃の巨人』も2部作とのこと。
★★★☆☆☆
象のロケット:ソロモンの偽証 後篇・裁判