『白河夜船』をテアトル新宿で見ました。
(1)本作(注1)は、安藤サクラと谷村美月が共演するというので映画館に出向きました。
冒頭は、ベッドで掛け布団の上に横たわる女性の姿(注2)。
次いで、主人公の寺子(安藤サクラ)が下着姿でベッドで寝ています。
すると、スマホが鳴ります(注3)。
男の声で「寝てたでしょう?」。
寺子が「そう、寝てた」と答えると、男は「会おうか?……木曜の7時に」と言います。
寺子は、足を揺すりながら「どこで?」と応じると、男が「いつもの場所で」と言うものですから、「わかった」と答え、メモします。
男は妻帯者の岩永(井浦新)で、そんな男と不倫関係にある寺子ながら、「もしも今、私たちのやっていることを本物の恋だと誰かが保証してくれたら、その人の足元にひざまずくだろう。そうでなければ、ずっと眠り続けたいので、彼のベルをわからなくしてほしい」とのナレーションが入り(注4)、タイトルクレジット。
さあ。岩永と寺子の関係はどうなっていくのでしょうか、………?
主人公は若い女性。とにかくいつも眠っていて、わずかに目覚めている時間に、恋人や女友達と付き合ったりしています。ただ、恋人には、交通事故に遭い植物状態になっている妻がおり、また女友達は最近自殺しました。映画ではこんな関係が90分間描き出されるだけながらも、ほんの僅かながら希望の明かりも感じられ、原作小説の雰囲気がうまく映画で描き出されているように思いました。
本作では、主演の安藤サクラが、『0.5ミリ』や『百円の恋』とはまたずっと違った側面を見せてくれてその演技の幅の広さに感心してしまいますが、寺子の女友達・しおりを演じる谷村美月も、その良さを遺憾なく発揮していると思いました(注5)。
(2)本作は、吉本ばななの同タイトルの小説(新潮文庫)を原作にした文芸物(注6)。
原作は、文庫版で70ページ強の短い作品であり、登場人物が少ない上に、格別の事件が起こるわけでもなく、主人公の内面が書き込まれた部分と、沢山の会話の部分から構成されていますから、脚本に落とすことは、素人目にはそれほど難しくはないようにも思えるところです。
現に、映画の進行は、原作の進行とほぼ同一といえるでしょう。
イ)とはいえ、例えば、原作にある「ただひとつ、ずっとわかっていることは、この恋が寂しさに支えられているということだけだ。この光るように孤独な闇の中に二人でひっそりといることの、じんとしびれるような心地から立ち上がれずにいるのだ。そこが夜の果てだ」という文章や(文庫版P.16)、久しぶりで出会った友人が地下鉄の駅に降りていった後ろ姿について、「私はその背中を見送っていた。私の心のなかの明るいところがあの子の背中について行ってしまったような、がらんとした気分だった」という文章(文庫版P.20)などは、イメージたっぷりながらも、特に下線部分などを映画として描き出すのはなかなか難しいのではないでしょうか?
ロ)逆に映像の方から見ると、例えば、本作の冒頭のしおりがベッドで横たわっているシーン(注7)とか、岩永の妻(竹厚綾)の病室でのシーンなどは原作にはないものです(注8)。
これらは原作で描かれておらず、寺子が単に言及するだけなところ、それを実際に映像として映し出すことによって、主人公の寺子がベッドで寝ている姿とか寺子と岩永のベッドシーンなどとあいまって、本作が持っている“水平”の方向性(ある意味で、刺激の乏しい眠くなるような関係)を一層強調することになっているように思われます(注9)。
そして、その方向性が破られるのが、ラストの隅田川の花火でしょう。この場面では、ずっと高いところに見られる花火が、ビルの間から二人によって見上げられるのですから(注10)。
高いところに開く花火を見上げることによって、でも隅田川にかかる橋の上から大きく見える姿ではなく、離れたビルの隙間からあまり大きくないものを見ることによって(注11)、“水平”とも言える二人のこれまでの代わり映えのしない関係も、少しずつ変化していくのでしょう(注12)。
あるいはそれを象徴するのが、同じシーンに流れるベートーヴェンのピアノソナタ第19番第1楽章Andanteではないでしょうか。
様々な意味合いで使われているのでしょうが、一つ考えられるのは、この曲がベートーヴェンの弱冠27歳頃に作曲されたものであり、その後の彼の大変身を予感させるものであるという点かもしれません(注13)。
ハ)上記の流れを準備するものがもう一つあります。
それは、原作にも登場するのですが、公園で寺子に近づいてくる高校生くらいの少女。
彼女は、「求人雑誌を買ってアルバイトを見つけなさい。家はダメ、眠ってしまうから。とにかく手足を動かしなさい。このままいくと、取り返しの付かないことになる。あなたは、心が疲れきっている。あたしが誰だかわかるでしょ?」と実に不思議なことを言うのです。
この少女は、劇場用パンフレットの冒頭の記載によれば、「岩永の妻の幻影(分身)」だとのこと。ここまではっきりと明かされてしまうと興醒めながら、注目すべき登場人物ではないかと思われます(注14)。
特に、この少女は、他の主要な女性の登場人物が皆寝姿を見せる中で、一人だけ寝姿を見せないのです。
おそらくは、これまでの“水平軸”の生活ではダメになってしまうという、寺子の内心の声が形になって現れたものではないかと思われますが、このことと、上記の花火とが合わさって、これから別の形での新しい生活が作り出されていくのでは、と見る者に思わせます。
(3)暉峻創三氏は、「本作は、その映像言語の豊穣さと身体言語の強靭さで、およそ「名作文学の映画化」などとは似ていない、映画ならではの愉悦に満ちたものとなった」と述べています。
(注1)監督は、脚本にも参加した若木信吾。
(注2)寺子の女友達・しおりが自殺した時の姿ではないかと推測されます。
しおりは、“添い寝”を商売にしており、それ用の豪華なベッドもありながら、「睡眠薬を飲んで小さなシングルベッドの中で死んでしまった」とされています。
(注3)原作が書かれたのは1988年と考えられるところ(下記の「注6」を参照)、大体同じ頃を取り扱っている『ソロモンの偽証』からもわかるように〔拙エントリの(3)を参照〕、まだ携帯も普及していない時代。
原作では、寺子は、岩永からの電話を受話器を取って聞きますが(例えば、文庫版P.10)、本作ではスマホになっています。
(注4)文庫版のP.11に同じようなフレーズが書かれています。
(注5)谷村美月は、最近では『幻肢』で見ましたが、その良さがうまく撮られていないような憾みがありました(特に、衣装がしっくりと来ませんでした)。ですが、本作での彼女は、従来の作品では見られないような女性らしさがうまく引き出されているように思います。
(注6)劇場用パンフレット掲載の佐々木敦氏のエッセイ「眠るおんなたちとふたつの時間」によれば、原作は、当初、文芸誌『海燕』の1988年12月号に掲載されたとのこと。
(注7)上記「注2」参照。
(注8)これらはあるいは、寺子が想像したものとして映し出されているのでしょう。
(注9)寺子と岩永が待ち合わせる渋谷東口の歩道橋についても、その地上よりの高さが画面に映し出されることは少なく、専ら、歩道橋の上を横に水平に二人が歩く様子が画面に映しだされます。
(注10)「大切なのは花火ではなく、この夜、この場所に一緒にいる二人が同時に“空を見上げる”ことだった」(文庫版P.79)。
(注11)「ビルの陰に時々のぞくその“小さな花火”を妙に気に入って、互いの腕をしっかりと組んだままでいつまでも、わくわくして次の花火を待ち続けた」(文庫版P.82)。
(注12)映画のラストに描き出される花火で思い起こされるのは、最近では、『薄氷の殺人』でしょう。
(注13)この曲は、ソナチネアルバムにも収められているソナタで、演奏が比較的容易であり、弟子の練習のために書かれたものとされています。
とはいえ、上野学園大学教授・横山幸雄氏によれば、「小さな作品の中にも、ベートーヴェンらしさが見られる。すなわち、自然に音楽が流れていくだけではなく、一つの強弱やリズムといったものに対する意志の強さが、これだけ簡潔に短く書かれたものの中にある。ベートーヴェンらしさの入口という意味でも勉強になる」とのことです(YouTubeに収録されたものから)。
(注14)この少女に扮するのは、劇場用パンフレットによれば、漫画家・内田春菊の次女・紅甘が演じているとのこと。今後の活躍が期待されます。
★★★★☆☆
象のロケット:白河夜船
(1)本作(注1)は、安藤サクラと谷村美月が共演するというので映画館に出向きました。
冒頭は、ベッドで掛け布団の上に横たわる女性の姿(注2)。
次いで、主人公の寺子(安藤サクラ)が下着姿でベッドで寝ています。
すると、スマホが鳴ります(注3)。
男の声で「寝てたでしょう?」。
寺子が「そう、寝てた」と答えると、男は「会おうか?……木曜の7時に」と言います。
寺子は、足を揺すりながら「どこで?」と応じると、男が「いつもの場所で」と言うものですから、「わかった」と答え、メモします。
男は妻帯者の岩永(井浦新)で、そんな男と不倫関係にある寺子ながら、「もしも今、私たちのやっていることを本物の恋だと誰かが保証してくれたら、その人の足元にひざまずくだろう。そうでなければ、ずっと眠り続けたいので、彼のベルをわからなくしてほしい」とのナレーションが入り(注4)、タイトルクレジット。
さあ。岩永と寺子の関係はどうなっていくのでしょうか、………?
主人公は若い女性。とにかくいつも眠っていて、わずかに目覚めている時間に、恋人や女友達と付き合ったりしています。ただ、恋人には、交通事故に遭い植物状態になっている妻がおり、また女友達は最近自殺しました。映画ではこんな関係が90分間描き出されるだけながらも、ほんの僅かながら希望の明かりも感じられ、原作小説の雰囲気がうまく映画で描き出されているように思いました。
本作では、主演の安藤サクラが、『0.5ミリ』や『百円の恋』とはまたずっと違った側面を見せてくれてその演技の幅の広さに感心してしまいますが、寺子の女友達・しおりを演じる谷村美月も、その良さを遺憾なく発揮していると思いました(注5)。
(2)本作は、吉本ばななの同タイトルの小説(新潮文庫)を原作にした文芸物(注6)。
原作は、文庫版で70ページ強の短い作品であり、登場人物が少ない上に、格別の事件が起こるわけでもなく、主人公の内面が書き込まれた部分と、沢山の会話の部分から構成されていますから、脚本に落とすことは、素人目にはそれほど難しくはないようにも思えるところです。
現に、映画の進行は、原作の進行とほぼ同一といえるでしょう。
イ)とはいえ、例えば、原作にある「ただひとつ、ずっとわかっていることは、この恋が寂しさに支えられているということだけだ。この光るように孤独な闇の中に二人でひっそりといることの、じんとしびれるような心地から立ち上がれずにいるのだ。そこが夜の果てだ」という文章や(文庫版P.16)、久しぶりで出会った友人が地下鉄の駅に降りていった後ろ姿について、「私はその背中を見送っていた。私の心のなかの明るいところがあの子の背中について行ってしまったような、がらんとした気分だった」という文章(文庫版P.20)などは、イメージたっぷりながらも、特に下線部分などを映画として描き出すのはなかなか難しいのではないでしょうか?
ロ)逆に映像の方から見ると、例えば、本作の冒頭のしおりがベッドで横たわっているシーン(注7)とか、岩永の妻(竹厚綾)の病室でのシーンなどは原作にはないものです(注8)。
これらは原作で描かれておらず、寺子が単に言及するだけなところ、それを実際に映像として映し出すことによって、主人公の寺子がベッドで寝ている姿とか寺子と岩永のベッドシーンなどとあいまって、本作が持っている“水平”の方向性(ある意味で、刺激の乏しい眠くなるような関係)を一層強調することになっているように思われます(注9)。
そして、その方向性が破られるのが、ラストの隅田川の花火でしょう。この場面では、ずっと高いところに見られる花火が、ビルの間から二人によって見上げられるのですから(注10)。
高いところに開く花火を見上げることによって、でも隅田川にかかる橋の上から大きく見える姿ではなく、離れたビルの隙間からあまり大きくないものを見ることによって(注11)、“水平”とも言える二人のこれまでの代わり映えのしない関係も、少しずつ変化していくのでしょう(注12)。
あるいはそれを象徴するのが、同じシーンに流れるベートーヴェンのピアノソナタ第19番第1楽章Andanteではないでしょうか。
様々な意味合いで使われているのでしょうが、一つ考えられるのは、この曲がベートーヴェンの弱冠27歳頃に作曲されたものであり、その後の彼の大変身を予感させるものであるという点かもしれません(注13)。
ハ)上記の流れを準備するものがもう一つあります。
それは、原作にも登場するのですが、公園で寺子に近づいてくる高校生くらいの少女。
彼女は、「求人雑誌を買ってアルバイトを見つけなさい。家はダメ、眠ってしまうから。とにかく手足を動かしなさい。このままいくと、取り返しの付かないことになる。あなたは、心が疲れきっている。あたしが誰だかわかるでしょ?」と実に不思議なことを言うのです。
この少女は、劇場用パンフレットの冒頭の記載によれば、「岩永の妻の幻影(分身)」だとのこと。ここまではっきりと明かされてしまうと興醒めながら、注目すべき登場人物ではないかと思われます(注14)。
特に、この少女は、他の主要な女性の登場人物が皆寝姿を見せる中で、一人だけ寝姿を見せないのです。
おそらくは、これまでの“水平軸”の生活ではダメになってしまうという、寺子の内心の声が形になって現れたものではないかと思われますが、このことと、上記の花火とが合わさって、これから別の形での新しい生活が作り出されていくのでは、と見る者に思わせます。
(3)暉峻創三氏は、「本作は、その映像言語の豊穣さと身体言語の強靭さで、およそ「名作文学の映画化」などとは似ていない、映画ならではの愉悦に満ちたものとなった」と述べています。
(注1)監督は、脚本にも参加した若木信吾。
(注2)寺子の女友達・しおりが自殺した時の姿ではないかと推測されます。
しおりは、“添い寝”を商売にしており、それ用の豪華なベッドもありながら、「睡眠薬を飲んで小さなシングルベッドの中で死んでしまった」とされています。
(注3)原作が書かれたのは1988年と考えられるところ(下記の「注6」を参照)、大体同じ頃を取り扱っている『ソロモンの偽証』からもわかるように〔拙エントリの(3)を参照〕、まだ携帯も普及していない時代。
原作では、寺子は、岩永からの電話を受話器を取って聞きますが(例えば、文庫版P.10)、本作ではスマホになっています。
(注4)文庫版のP.11に同じようなフレーズが書かれています。
(注5)谷村美月は、最近では『幻肢』で見ましたが、その良さがうまく撮られていないような憾みがありました(特に、衣装がしっくりと来ませんでした)。ですが、本作での彼女は、従来の作品では見られないような女性らしさがうまく引き出されているように思います。
(注6)劇場用パンフレット掲載の佐々木敦氏のエッセイ「眠るおんなたちとふたつの時間」によれば、原作は、当初、文芸誌『海燕』の1988年12月号に掲載されたとのこと。
(注7)上記「注2」参照。
(注8)これらはあるいは、寺子が想像したものとして映し出されているのでしょう。
(注9)寺子と岩永が待ち合わせる渋谷東口の歩道橋についても、その地上よりの高さが画面に映し出されることは少なく、専ら、歩道橋の上を横に水平に二人が歩く様子が画面に映しだされます。
(注10)「大切なのは花火ではなく、この夜、この場所に一緒にいる二人が同時に“空を見上げる”ことだった」(文庫版P.79)。
(注11)「ビルの陰に時々のぞくその“小さな花火”を妙に気に入って、互いの腕をしっかりと組んだままでいつまでも、わくわくして次の花火を待ち続けた」(文庫版P.82)。
(注12)映画のラストに描き出される花火で思い起こされるのは、最近では、『薄氷の殺人』でしょう。
(注13)この曲は、ソナチネアルバムにも収められているソナタで、演奏が比較的容易であり、弟子の練習のために書かれたものとされています。
とはいえ、上野学園大学教授・横山幸雄氏によれば、「小さな作品の中にも、ベートーヴェンらしさが見られる。すなわち、自然に音楽が流れていくだけではなく、一つの強弱やリズムといったものに対する意志の強さが、これだけ簡潔に短く書かれたものの中にある。ベートーヴェンらしさの入口という意味でも勉強になる」とのことです(YouTubeに収録されたものから)。
(注14)この少女に扮するのは、劇場用パンフレットによれば、漫画家・内田春菊の次女・紅甘が演じているとのこと。今後の活躍が期待されます。
★★★★☆☆
象のロケット:白河夜船