映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

寄生獣 完結編

2015年05月12日 | 邦画(15年)
 『寄生獣 完結編』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)前作の前篇の出来栄えが素晴らしかったので、後篇にあたる本作もと思って映画館に行ってきました。

 本作の冒頭では、前作のあらましが描き出された後、車列がビルの地下室に入っていく場面。
 平間警部補(國村準)が、連続殺人鬼の浦上新井浩文)を連れて、特殊急襲部隊 (SAT) に所属する対パラサイト部隊のいるビルにやってきたわけです。
 平間は、隊長の山岸豊原功補)と会って、「あてにはなりませんよ」と言いますが、山岸は「いや、十分使い物になります」と答え、浦上を椅子に座らせ、何人もの重要参考人の面通しをさせます(注1)。
 ですが浦上は、どの人物についてもパラサイトであることを否定します。
 最後に、ガラスの向こう側に新一染谷将太)が。
 浦上は、新一の顔を自分の方に向けさせて見つめた上で、「いや、違うな。一瞬、目の中に違うものが混じっている気がしたが、気のせいだ」と言います。
 ここで、タイトル・クレジットが入ります。

 次いで、平間が、事件の写真を机の上に並べながら、「泉新一が住んでいるところの近くでいろいろな事件が起きている」などと部下に話しています。彼は、新一が一連の事件の鍵を握る人物だと睨んでいるようです。

 そして、人間を食べているパラサイトを新一が倒す場面。
 新一の右手に取り付いている寄生獣のミギー(声:阿部サダヲ)は、「我が身の安全のために、これ以上はやめよう」と言いますが、新一の方は、「もっと早く来ていれば、犠牲者が出なかったのに。一匹でも殺せば、人間の犠牲が減る。親玉をやっつけに行く」と答えたところ、誰かが自分たちの様子をうかがっているのに気が付きます。
 さあ、それは誰でしょう、そして新一は寄生獣との戦いに勝つことができるのでしょうか、………?

 本作は、同じ2部作ながらも、事件と裁判とから構成され後篇がダレた感じになった『ソロモンの偽証』とは違い、『るろうに剣心』のように頂上決戦を本作に持ってきたこともあって、前作での盛り上がりを本作まで維持し続け、見終わった後も満足感の残る仕上がりとなっているように思いました。

 特に、田宮良子深津絵里)が新一やジャーナリストの倉森大森南朋)と動物園で対決するシーンや、浅野忠信が演じる後藤と新一との闘いのシーン(カーバトルやゴミ処理場での戦い)は、前者は、子供を巡っての人間とパラサイトの愛情の争いと言えるでしょうし、後者は、人間とパラサイトがそれぞれの知力をかけた戦いであり、それぞれ完結編の盛り上がりに大きく貢献していると思います(注2)。



(2)ただ、原作漫画に書き込まれている大上段に振りかぶった思想性の高いセリフが、本作でいくつも繰り出されるために、少々辟易する感じにはなります。こういったものは、まともに登場人物が発言しないで、映画全体から観客が感じ取るようにすれば十分なのではないでしょうか。

 例えば、広川市長(北村一輝)が、突入してきた特殊部隊に向かって、「人間の数をすぐにでも減らさなくてはいけないことや、殺人よりもゴミの垂れ流しの方がはるかに重罪だということに、もうしばらくしたら人間全体が気づくはずだ」とか、「環境保護といっても、人間を目安としたものだ」、「万物の霊長というなら、人間だけの繁栄ではなく生物全体を考えろ」、「人間こそ地球を蝕む寄生虫だ」などと演説をぶちます(注3)。



 ですが、そんな御大層なことを言う寄生獣自身はどうなのでしょう(注4)?
 確かに、その捕食によって人間の数は減るかもしれません(注5)。ですが、人間の外見をした寄生獣自身は、人間を捕食することでそのまま地球上に生き残るわけで、相変わらずゴミを出し続けるのではないでしょうか?

 それに、もともと“寄生”とはどういうことでしょう?
 パラサイトとは、自分では十分な栄養を獲得できないからこそ、宿主に寄生して宿主が摂る栄養分をくすねて生きる生物のはずです。現に、ミギーは、自分では捕食せずに、新一が摂取する栄養によって生きています(注6)。
 ですが、本作に描かれる大部分の寄生獣の場合、宿主となるべき人間を捕食してしまいます(注7)。一体、何のために、それらの寄生獣は人間に“寄生”しているのでしょうか(ことさら寄生せずとも、元の姿で人間を襲えばいいのでは)?
 それに、そんなことを続けたら、寄生獣自身を破滅させるだけのことではないでしょうか(注8)?

(3)なお、前作について25点と酷く厳しい評価を下した映画評論家の前田有一氏は、本作についてもその姿勢を崩さず、相変わらず、「前作の際に指摘した問題点、シンイチとミギーの関係性の描写不足が重き足かせとなって、この後編にも悪影響を残している。橋本愛の、母性を感じさせない役作りもさらに足を引っ張る」などと御託を並べます。
 ですが、そう言っておきながら、「私がそれでも山崎監督を称えたいのは、観客の多くが意表を突かれてるであろう橋本愛の例のシーンである」と、山崎監督を賞賛するのです。
 その結果、前田氏の本作に対する評価は、下記の(5)で触れているようなものになっています。

 しかしながら、まずもって「シンイチとミギーの関係性の描写不足」等については、前作について拙エントリの(3)で述べたことを繰り返さざるを得ません。
 さらに、橋本愛が本作で見せる「予想外の大サービス」についても、評点が30点も増加してしまうほどのことなのでしょうか?

 確かに、前田氏が言うように、「件のシーンこそが、橋本愛の完結編におけるほとんど唯一にして最大の仕事」でしょうし、そして本作におけるこのシーンは、「描写も丁寧で時間も長」く、「柔らかなモヘアのニットも役柄に似合っていたし、その下の細い肩、真っ白なバスト、おそるおそる受け入れる太股の表情など、見事な表現力」と言えるでしょう。
 ただ、果たして、原作そのままを良しとする前田氏の基本的な姿勢に山崎貴監督が従ったとしたら、こうした映像が生み出されたでしょうか?
 というのも、対応する原作漫画の場面(注9)は、文庫版(第7巻)のわずか5ページ弱で展開されているにすぎず、8巻に及ぶ全体のストーリーを構成する不可欠で重要なエピソードといえるかどうか疑問に思えるからですが(注10)。

(4)また、前作についての拙エントリの(2)において、「原作のように、宇宙から異星人が地球に突如侵入するとする方」と申し上げましたが、劇場用パンフレット掲載の「Comment from Original Author」において、「地球外ではなく、地球内生命体によって人類の存在が侵されていくという「寄生獣は、どういうきっかけで発想されたのでしょう?」との質問に対し、原作者の岩明均氏は、「宇宙だとか、あまり自分から離れた場所の発想はけっこう苦手でして」云々と答えています。
 これからすると、原作においても、パラサイトは異星人ではなく地球内生命体なのでしょう。
 でも、映画『マグノリア』のカエルのように、空から「テニスボールくらい」の生命体がいくつも降って来る、などということは考えられるでしょうか?
 地球内生命体というのであれば、本作のように深海生物という方がまだ合理的かもしれません。ただ、本作のラストのように、深海に沢山のパラサイトが漂っているとしても、彼らはどのようにして栄養を確保しているのでしょうか(宿主はどこにいるのでしょう)?

(5)渡まち子氏は、「新一を演じる染谷将太の、時に表情を殺しながらの演技や感情を爆発させる芝居はメリハリがあって素晴らしいが、完結編ではやはり深津絵里の存在感が圧倒的だ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「期待をやや裏切る出来映えだった前編公開から5か月。早くも登場する完結編は、スタッフの頑張りによってかなかなかの盛り返しを見せた」として55点をつけています(注11)。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「人間を食う寄生生物の出現。それはあらゆる種の上に君臨する人類の尊大さに対する地球という生態系からの警鐘ではないか。そんな深遠な世界観を、山崎(監督)は緊密なドラマで描き出す」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。



(注1)浦上は、殺す女を物色している時に、寄生獣が女を食べているのに出くわしたことがあり、人間とパラサイトを見分ける能力を持っているようです(原作漫画第7巻第50話で、「人間でいろいろ遊んだおかげ」で見分けられるようになった、と浦上は言っています)。

(注2)さらに言えば、パラサイトが占拠する市役所に対する特殊部隊の包囲作戦についても、特殊部隊側が完勝寸前のところまでいきながら、アッという間に完敗するに至る経過が、緊迫感のある優れた映像で描かれていると思います〔本文の下記(4)で触れる前田氏が、原作の「市役所包囲作戦の斬新さ」が十分に描かれていないと述べていますが、原作漫画第7巻の第52話から第57話を巧みに映像化しているのではないでしょうか?〕。

(注3)言うまでもなく、広川の演説が『寄生獣』全体の思想を表明しているわけではなく、一つのエピソードと考えるべきでしょう。

(注4)尤も、広川は、寄生獣ではなく人間であることが判明しますが。

(注5)寄生獣の後藤は、新一に対し、「人間が増えて困るのは人間自身だ。私たちはお前たちを救っているのだ」と言います。

(注6)この点については、田宮良子が倉森に対して、「我々と人間は一つの家族なのだ。我々は人間の子供なのだ」とか、「私たちはか弱い。それのみでは生きていけない細胞体だ。だからあまりいじめるな」などと言いますが、その話の方が“寄生”という点に即しているように思われます。

(注7)寄生獣の後藤は、「人間を食い殺せ」という声が聞こえると言います。

(注8)田宮良子によれば、人間と同じものを食べて生きていられるように教育をし、そのようにしているパラサイトも出現しているとのこと。それなら、本来の“寄生”でしょう。でも、その場合には、表面的には人間に敵対するものではなくなってしまい、パラサイトの出現の意味が乏しくなってしまいます。

(注9)前田氏は、前作についての論評で、「なにしろあれときたら、少年漫画きってのエロさである」と述べていますが、少年漫画に疎いクマネズミには判断がつきかねます。

(注10)無論、ページ数とその重要性とが比例関係にあるとは言えないでしょう。
 でも、新一と里美が性的な関係を持ったことが(特に、映画―ゴミ処理場―と違って、里美の家でのこともあって)、その後の原作漫画の展開にうまく生かされていないように思えるのです。二人の間に子供ができていれば家族を守るという新しいファクーが生まれるでしょうが、何よりも彼らは高校生にすぎないのです。その後、原作漫画第8巻における二人は受験勉強に精を出し、里美は大学に合格し、新一は浪人生になったところで、ラストの屋上の場面。新一が里美を救うのに、性的な関係があったことが大きく関与しているとは思えないところです。

(注11)『るろうに剣心』の場合2部作の間隔は1ヶ月半ほど、『ソロモンの偽証』の場合間隔は約1ヵ月なのに対して、本作の場合前作から5ヵ月経過しての公開ですから、前田氏が「“早くも”登場する完結編」と述べているのは、冗談もしくは皮肉なのでしょう。


〔追記〕問題がありそうに思えながらも素人のためはっきりしなかった点が、この記事において明確に論じられているように思います。



★★★★☆☆



象のロケット:寄生獣 完結編