映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

セッション

2015年05月19日 | 洋画(15年)
 『セッション』をTOHOシネマズ新宿で見ました。

(1)アカデミー賞作品賞などにノミネートされ、結果としては、助演男優賞(J・K・シモンズ)、脚色賞、編集賞を獲得した作品ということで、映画館に出向きました。

 本作(注1)の冒頭では、主人公のアンドリュー・ニーマン(19歳:マイルズ・テラー)が、ピアノなどが置かれている練習室で独りでドラムを叩いています。ドラムを叩くのが速くなるに従って、カメラもニーマンに接近していきます。



 突然、鬼教師として知られるフレッチャーJ・K・シモンズ)が部屋に入ってきます。黒のTシャツから黒の靴まで黒尽くめ。
 ニーマンは、「失礼」と言って、ドラムを叩くのを止めます。
 フレッチャーは、「かまわんよ。そのままで」と言いながら、コート掛にかかっているコートをとります。
 それからニーマンに向かって、「名前は?」、「何をしている?」、「私を知ってるか?」と矢継ぎ早に質問を浴びせ、ニーマンは、自分の名前と、まだ1年目ながらフレッチャーのことは知っている、と答えると、さらにフレッチャーは、「私が何をしているのかわかる?」、「知っての通り、私はプレイヤーを探している」、「わかっているなら、どうして演奏を止めるんだ?」と問い詰めます。
 そこでニーマンは、再びドラムを叩き始めますが、フレッチャーが、「もう一度叩けと言ったか?」と言うので叩くのを止めると、フレッチャーは「私は、どうして演奏を止めたのかと訊いたのだ。君の答え方は、猿も同然の応答だ」と突き放します。
 ニーマンがしどろもどろになると、フレッチャーは「基本をやってご覧」と求め、ニーマンがそれに応じてドラムを叩き始めると、さらに「倍のテンポで」と求め、ニーマンが一生懸命叩いていると、フレッチャーは部屋を出て行ってしまいます。

 これがニーマンとフレッチャーの最初の出会いですが、さあこれから一体どのように二人の関係は展開するのでしょうか………?

 本作は、若きドラマーと名門音楽大学の鬼教師との息詰まる師弟関係を描いた作品。すでにアチコチで言われていることながら、ラストの9分19秒の映像は圧倒的であり、またそこに至る盛り上げ方も素晴らしいものがあります。ただ、これもよく言われていることですが、本来自由なお楽しみであるはずの音楽(特に、ジャズは即興演奏が要でしょう)にもかかわらず、あれほどの統制を加える音楽授業というのはどんなものかな、という疑問は残りますが。

(2)本作については、よく知られているように、ジャズ・ミュージシャンである菊地成孔氏と映画評論家の町山智浩氏との間で論争が持ち上がっています(注2)。
 しかしながら、この論争、当初のやりとり(注3)だけでおしまいとはならず、実際には現在も進行中のような感じです。
 なにしろ、町山氏が、菊地氏の最初の記事について9項目に要約したところ、菊地氏のエントリ(4月19日)で、「(要約の項目として)「この映画は最初に一発キツいのを入れるだけのワンパン映画である」を入れて下さると有り難い」、「あれは単なる趣向を超えた、あの文章の核心に迫る重要な事(なので)」と言われてしまい、早速次の記事(4月22日)で町山氏が、「(菊地氏は)「『セッション』は強烈なパンチだけで、ラヴ(愛)がない」と言っている。そこが本当のポイントだったのだ」と応答すると(注4)、それに応じたエントリ(4月28日)において、「その通りですよ」などと肯定しながらも、まだ延長戦があるようにその後の記事で書いてもいるのです(注5)。

 ですから、このサイトの記事などのように、全体を鳥瞰して第三者的なところから評価を下すということは、まだとてもできそうにありません(注6)。
 そこで、この論争には深入りせずに、一介の「ジャズ素人」として、本作についての簡単な感想を申し上げれば、
・可能な限り速く正確に演奏できることが立派な音楽家になるための必須条件だとは、とても思えないところです。それで良ければ、人間ではなくマシンに演奏させれば条件にかなうわけですから。

・フレッチャー教授は、人間業を超えたところまでニーマンを引き上げようとしていますが、その前にニーマンは人間として壊れてしまうのではないでしょうか(注7)?そんな壊れてしまった人間が演奏する音楽に、人は感動しないものと思います。

・それに、シェイファー音楽院でフレッチャー教授が教えているジャズは、なんだか昔ながらのオーケストラによるもので(注8)、古色蒼然としているのではないでしょうか(注9)?



・そんなこんなを考え合わせると、本作は、ジャズをめぐるリアルなお話というよりも、途方もないファンタジーと捉えた方がいいのではと思えてきます(注10)。その上での鬼教師と生徒の間でのスポ根物語ではないでしょうか?

・ただそう捉えても、ラストの場面では、フレッチャーがニーマンを葬り去ろうとまでするのですからちょっとおかしい感じはします(注11)。ですが、フレッチャーとしては、そんな状況をもニーマンに超えさせたかったのだと観客に思わせるほど、ラストの盛り上がりは素晴らしいものがあります。

・ラストシーンでの演奏が機械的に過ぎ、ジャズとしてどうしようもないシロモノだとしても(注12)、なんであっても、とにかくニーマンは、目標と思われるものを達成したように描かれているのですから、スポ根ファンタジーとしたら、それだけで十分なような気がします(注13)。

(3)渡まち子氏は、「地味な脇役だったJ・K・シモンズはオスカー受賞も納得の怪演、ほとんどドラム演奏経験がないマイルズ・テイラーの熱演も見事。何より1985年生まれの若き監督デイミアン・チャゼルの剛腕に驚かされた秀作だ」として75点をつけています。
 前田有一氏は、「85年生まれのデイミアン・チャゼル監督はまだ30歳だが、とんでもない傑作を叩き出したものだ。ドラマーを目指していた自らの体験をもとに、鬼教師とそれにくらいつく若者の異様な人間関係を、見たこともない緊張感と不穏さでまとめあげた」として98点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「これまで多くの師弟関係を描く映画が知らぬ顔で通り過ぎた“嫉妬”に目を向けた脚本が新鮮だ」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「この映画では、追いつめる者と追いつめられる者が途中から戦い始める。報復もあり、わなもある。それが、題名通りの異様な「セッション」となっていく。音楽映画というジャンルからは想像できないスリルとサスペンス、そして恐怖。予想を裏切る展開が、実に面白い」と述べています。



(注1)監督はデイミアン・チャゼル
 原題は「Whiplash」。
 なお、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「すべては「緊張感の持続」のために」で宇野維正氏は、Whiplashには「むち打つこと」という意味があり、本作中で何度も演奏される楽曲名であり、さらにその作曲者のハンク・レヴィは「生徒にハードワークを強いることで知られ」る大学教師であって、なおかつ本作のストーリーラインが「“むちで打たれた”ように変な角度で曲がっていく」と述べています。
 また、本文の下記(2)で触れる菊地氏は、「(原題の)「WHIPLASH」は、SM映画やSM小説を英語で嗜む方には御存知「鞭の先端(しなって打ち付ける部分。因に握り手は<GRIP>)」という意味」だと述べています〔こちらのエントリ(4月8日)〕。

(注2)なお、このURLでは宇多丸氏の論評を聞くことができます。
 同氏は、その中で、特にニーマン(同氏は彼のことを「ちょいブサイクなポール・ニューマン」と呼んでいます)の父親(ポール・ライザー)が、映画館でニーマンに「別の道があるよ」「勝つことだけが人生じゃないよ」と言ったことに注目しています。すなわち、宇多丸氏は、父親はこちら側の健全な社会を代表していて、向こう側の狂気の世界に入り込んで「悪魔と契約」してしまった息子を、舞台のドアの隙間から諦めの表情で見ている、と述べているのです。

(注3)当初の、菊地成孔氏のブログ記事はこちら(4月8日)で、町山智浩氏のブログ記事はこちら(4月17日)。

(注4)菊地氏のこのエントリ(4月22日)でも、町山氏の「要約」について、「そいでもって出ました必殺技、「彼の言い分を要約するならば、こういう事です」とかいって、自分が都合悪い所は削除して(笑)勝手にまとめちゃう奴」などと述べていますが、このエントリに町山氏は触れていません。
 なお、菊地氏は、本作については、この他にこのエントリ(4月11日)でも若干ながら触れています。

(注5)菊地氏のブログのこのエントリ(5月5日)では、「「セッション」 に関しては、「完成稿」に、完璧に総てが書いてあり、我ながら何と素晴らしい映画評なのだろう。と感心する事しきり。なのですが、「読みずらい」「分りず らい」「文章が下手」という(笑)、ご指導ご鞭撻のお声が多く、書籍化する際、幼児用(6歳まで)に書き直した物を載せようと思っています。タイトルは 「西部劇の出来、不出来がわかってしまうインディアン」」と述べられています。
 さらに、菊地氏のブログの最新エントリ(5月13日)の冒頭でも、「いやあとにかく、「セッション」についてはですな、読み易い汎用を書きますんで、それで勘弁してつかあさい」と述べられていて、結局はその「汎用」の「書籍」が出されるまでは、菊地氏の言いたいことが素人にははっきりしないままというのが現状ではないかと思われます。
 (なお、そのエントリの中でも、「「セッション」は白人価値観――主人公2人が実際に白人だから。というだけでなく、大学教科だし、意味合いの問題です――で、即ちジャズの態だけどもロックみたいなモンなのよ。だからロックドラマーが褒めるわけ」という文章が挿入されていたりします!)

(注6)仮に当初のブログ記事のやり取りだけで終わっていても、菊地氏の文章が滅多矢鱈と長く、なおかつ文意の汲み取りにくいところが多いために、ジャズ素人には、二人の論争について評価を下すことなどとてもできなかい相談なのですが〔あるいは、クマネズミも、菊地氏のいう「<ネットによって長文を読む能力を失い、手っ取り早く罪状を言い渡し、一刻も早く血祭りが見たい陪審員>」(4月22日のエントリ)の一人なのかもしれません!〕。

(注7)現に、ニーマンは付き合っていた女性を突き放してしまいます。すなわち彼は、映画館の販売店でバイトをしているニコルメリッサ・ブノワ)と付き合っていたのですが、ある時ニコルに、「僕の将来のために、もっと時間が必要。会わない方がいい。このままだと喧嘩別れすることになる。そうなるよりも別れた方が」、「とにかく偉大なミュージシャンになりたい」と宣言するのです。当然のことながらニコルは、「立派な目標を追求するために会えない?何様のつもりよ!」と怒ってしまいます。
 (これで二人は別れてしまい、カーネギーホールでのジャズフェスティバルへの誘いの電話をニーマンがニコルにかけても、「ボーイフレンドと相談する」という返事しかもらえませんでした。ただ、別れた後一度ニコルからニーマンに電話が入っているのですから、ニコルもニーマンのことをそんなに嫌いになったわけでもなさそうに思いますが)

(注8)まるでクラシックのオーケストラの楽譜を読むように、「105小節から」などと生徒に向かって怒鳴ったりします。

(注9)菊地氏は、4月8日のエントリで、「ワタシの心中の叫びというか祈りというか「こんなのは、いまどき古くせえビッグバンドジャズを大学で白人が仕切ってる世界の話しであって、ジャズ界の総てじゃねえっす!!っていうか、この映画、ジャズの何がやりたいのか、ジャズ素人が適当にやってる映画ですジャズ知らずの観客の皆さんっ!!」というものでした」と述べているところ、クマネズミとしては「そうですか」としか言いようがありません。

(注10)極論すれば、菊地氏がこのエントリ(4月8日)で言うように、「これはマンガ」なのかもしれません(とはいえ、この「マンガ」については、このエントリ(4月11日)で議論されていて、「あまりにカリカチュアされた、昭和のスポ根マンガや、大映ドラマのような物」と洗練された表現も提示されています)。

(注11)カーネギーホールでのフェスティバルで、ニーマンは、当然「Whiplash」を演るとばかり思っていたところ、フレッチャーの曲紹介は「Upswingin’」。周りのメンバーを見ると、皆その楽譜を持っています。楽譜なしで演奏するものですから、ニーマンは仲間から「お前は無能だ」などと散々非難されてしまいます。

(注12)町山氏がこのエントリ(4月22日)で言うように、「アンドリューとプレイヤーたちの心はまったく結びつかない。演奏家たちの相互作用によるグルーヴも作られない。しかもそのソロも怒りをぶつけただけ。大事な聴衆は見えていない(映らない)」としても。

(注13)町山氏は、上記「注12」で触れたのと同じエントリで、「オイラは、クライマックスを、アンドリューとフレッチャー先生という音楽に傷ついた者同士が、音楽で殴り合った末に和解し、音楽で救われると捉えた.」と述べていますが、そう言う捉え方ができるかどうかとは関係なく。



★★★★☆☆



象のロケット:セッション



最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ふじき78)
2015-05-19 22:32:54
町山さんと菊池さんのやり取りは噂レベルで聞いてて菊池さん大人げないなと思ってました。「巨人の星」の飛雄馬が付けてる大リーグボール養成ギブスをスポーツトレーナーが見てカンカンに怒ってるみたいだ。物語をドラマチックに語るために、嘘を付いたり、何かに例えたりするのはよくある事で、それを引き合いに出されて正しくないと言われても、正しくない事よりドラマチックになる事を選んだのだ、としか言えない。

何故、それは違うという現実があるのに製作者側はクラシックではなく、ジャズを選んでしまったのか。それはジャズの方がかっこよく、よ盛り上がるからである。そういう好意が潜在的にあるというのに、何が何でも正しくないと気が済まないというのは心が狭いな。
返信する
Unknown (クマネズミ)
2015-05-20 05:21:37
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、本作の制作者は、「正しくない事よりドラマチックになる事を選んだ」ものと思います。クマネズミのような「ジャズ素人」は、それで感動してしまいますが、菊地氏のようなプロのジャズ・ミュージシャンは、「正しくない事」の方に邪魔されてしまって感動できなかったのでしょう。
ただ、菊地氏はあれだけ長々と文字を連ねていながらも、具体的にどんなところが「正しくない事」なのかについて至極曖昧な書きぶりのように思えます。これは、今菊地氏が準備している書籍の刊行を待つ必要があるのでしょうが、いやはや。
返信する
映画的効果 (iina)
2015-05-20 10:09:43
iinaも、クラシックよりもジャズの方が、ドラマ的に盛り上がり恰好よいからだと思います。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/799a7fe199e1e9620f10ab3b6cb56cc5

鬼教師の指導するテンポやリズムは、完璧さにこだわっているという伏線にすぎず、そのままラストのクライマックスに
突入するのでしょう。

授業態度が悪いとビンタを思い切り張られた中学時代を想い出します。高校時代では、スポーツ部を退部するには先輩たち
の手痛い挨拶が常識の時代でした。

ノンポリのiinaでも、冬季には早朝6時開始の寒稽古は裸足でした。13kmマラソンもさせられましたっけ。

そんな経験からいえば、本作はむしろ本気でとことん闘いあったところを突き抜けた先に、究極の境地がおとずれるところを
描いたのだと思いいたります。

返信する
Unknown (クマネズミ)
2015-05-20 18:41:37
「iina」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、本作は、「本気でとことん闘いあったところを突き抜けた先に、究極の境地がおとずれるところを描いた」作品ではないかと思われます。
ただ、描かれているのが「ジャズ」なのだろうか、「ジャズ」としても、そんなに「完璧さにこだわ」るべきものだろうか、など様々な疑問も沸き起こってくるのですが。
返信する
スポ根 (りお)
2015-05-21 22:40:22
>そんなこんなを考え合わせると、本作は、ジャズをめぐるリアルなお話というよりも、途方もないファンタジーと捉えた方がいいのではと思えてきます。その上での鬼教師と生徒の間でのスポ根物語ではないでしょうか?

その通りだと思います。
わたしもジャズど素人ですが、これはジャズ映画じゃなくてスポ根だと思いました。
ジャズ映画として見れば腹が立つのでしょうが、菊地氏は見方を間違ったとしか言いようがないなーと思ったのでした。
返信する
Unknown (クマネズミ)
2015-05-22 06:55:08
「りお」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるとおりではないかと思います。
ただ、菊地氏は、本作について「あまりにカリカチュアされた、昭和のスポ根マンガや、大映ドラマのような物」等と言っていて、本作が「スポ根物」であることは十分に自覚しているようであり、また、「「ジャズを分ってない奴らが悪い」等とは毛の先ほども思ってない」と言いながらも、「実際の音楽があんま良くない」と言ったりしていて、要するに菊地氏の真意がどこにあるのか捉えがたい感じもするところです。

返信する

コメントを投稿