映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

わたしの可愛い人

2010年11月09日 | 洋画(10年)
 予告編を見たところなんとなく文芸ものらしい雰囲気が漂っていましたので、『わたしの可愛い人―シェリ』を渋谷のル・シネマで見てきました。

(1)物語は、ココットと言われる高級娼婦が闊歩していたベルエポックのパリが舞台。
 すでに40代ながらも抜きんでたココットのレア(ミシェル・ファイファー)は、以前は同業者だったマダム・プルー(キャシー・ベイツ)から、その放蕩息子シェリ(ルパート・フレンド)の教育を依頼されます。レアとしては、簡単に切り上げるつもりだったにもかかわらず、なんと6年間も親密な関係が続いてしまいますが、とうとうシェリは、若い女性エドメと結婚することになります(エドメの母親は、娘を早いとこ厄介払いしたいと思い、マダム・プルーは多額の持参金が目当て)。
 ただ、ハネムーンから戻ったシェリは、妻エドメと愛人レアの間を行き来しようと考えていたところ、レアの方はそうした生活を望まず、結局、……。

 まあ20歳以上年齢差のある若い燕との中年女性の恋愛物語と言ってしまえばそれまでですが、ベルエポックのパリという設定によって、建物とか部屋の調度品や衣装が随分と凝っているのに目を見張らされます(印象派の絵画から飛び出してきたもののような感じを受けます)。



 加えて、出演者もなかなかの俳優が揃っています。
 主演のミシェル・ファイファーは、既に50歳を超えているにもかかわらず40代のレアを演じても何の問題も起きないどころか、その美しさは圧倒的で、これならシェリが6年間も関係を続けてしまうのも分からないわけではないと思えてしまいます。
 さらに、19歳から25歳のシェリを演じるルパート・フレンドも、すでに29歳ながら、そのイケメンぶりを十分に発揮していると言えるでしょう。
 また、シェリの母親役を演じるキャシー・ベイツも、『レボリューショナリー・ロード』で見かけましたが、お金に目がない俗物の女性役を実にうまく演じています。

 総じて見れば、娯楽映画としてはまずまずの作品だなと思いました。

(2)ただ、問題がないわけではありません。
 この作品は、フランスの女性作家コレットの『シェリ』(1920年)を原作としていますが、それをなんと、フランス人を一切使わずハリウッド映画仕様でこの映画は制作されているのです。
 そのためなのでしょう、映画の冒頭では、ココットについてひとしきり講釈がなされますし(実際のココットの写真が何枚も映し出されます)、ラストでは、“レアとシェリは分かれたままであり、シェリは出征するものの無傷で戻り、その後拳銃自殺をした”と告げられます。
 むろん、原作本にはそんな書き込みがあるはずがありません(注)。
 特にラストの点はハリウッド映画でよく見かけることながら、どうもアメリカ人は、登場人物のその後の動向について酷く関心があり、それが分からないと落ち着かず、従って一言触れないでは物語をおしまいにできないようなのです。
 逆に、フランス映画などでは、エンドのシーンをことさら曖昧にすることによって、登場人物のその後について観客の想像に任せるという手法が一般にとられるようです。
 こうした点から見ても、今回の映画はパリを舞台としているはずなのに、という印象が最後まで残ってしまいます。

 なお、こうした点は、評論家の粉川哲夫氏がつとに指摘しているところでしす。
 すなわち、この映画について同氏は、「サビの利いた声によるナレーションが一番印象的だった。(監督の)スティーヴン・フリアーズ自身が担当しているらしいが、冒頭で19世紀のベル・エッポック時代のパリの娼婦の「社会史」と王室との関係を皮肉たっぷりに紹介し、最後には、この映画の主人公シェリの行く末を10語に足りない言葉で片付ける。ベル・エポックが第1次世界大戦とともに終わり、レアとシェリは別離のまま、シェリが拳銃で頭を撃つというのだ」と述べています。

 さらに、粉川氏は次のようにも述べています。
 スティーヴン・フリアーズとクリストファー・ハンプトン(脚本)は、「フランスを題材にしながら、英語による舞台劇の映画化を画策したのだ。いわば、日本の「新劇」のシェイクスピアのように、「元」は関係ない新ジャンルの創造である」。
 西欧の戯曲を日本人が金髪の鬘をかぶって上演するのに類似する、というわけでしょう。
 とはいえ、「新ジャンルの創造」とまで言えるのでしょうか?
 最近の『終着駅―トルストイ最後の旅』にしても、ロシアを舞台とするものの、出演する俳優はロシア人ではありませんし、言葉も英語です。そういえば、大昔のオードリー・ヘプバーン主演の『戦争と平和』(1956年)にしたって、全部ハリウッド仕立てといえるでしょう。
 むしろ、『のだめカンタービレ』において、シュトレーゼマン役を竹中直人が演じている方が画期的なことではないでしょうか?なにしろ、新劇の舞台で行われていることが、ファンタジックなお話とはいえ、映画の中にまで取り入れられたのですから!

 また、粉川氏は次のようにも述べています。
 「原作とは関係ないと思って見ないとこの映画は見続けることが難しい。しかし、原作は存在するのだから、それに触れないわけにはいかない。この映画がつまらないのは、原作が、コレットの全盛期の1920年代を舞台にしているのに、映画は、それよりまえの「ベル・エポック」に時代をずらせている点であ」り、「最期まで「何なんだ?」という疑問が消えないのは、原作では、レアの老いへのあせりや不安がひしひしと伝わってくるのに、この映画ではそれが全く感じられないからである」。
 確かに、原作にはないシェリの後日譚を捏造してしまうのですから、もはやこの映画は原作とは何の関係もないと思われるものの、舞台を「「ベル・エポック」に時代をずらせている」ことや、「レアの老いへのあせりや不安が」映画からは感じられないことを、原作との違いで批判するのはいかがかと言う気がします。
 仮に、粉川氏が言うように、原作通りに「レアは、老いた自分を哀れみながら、若き恋人に抑えることのできない「欲情」を感じるのである」とするならば、どうしてシェリは拳銃自殺をする破目になるのでしょうか?シェリは、レアから離れて自立の道を歩みますが、やはりレアの美しさを忘れられないのではないでしょうか?シェリの目にうつるレアは、「老いた自分を哀れ」むレアではなく、いくつになっても光輝くレアなのではないでしょうか?



(注)これを書いた時点では勉強不足で知らなかったのですが、実は、コレット原作の小説『シェリ』には続編の『シェリの最後』があって(いずれも岩波文庫に工藤庸子訳で入っています)、その末尾においてシェリはピストル自殺するのです!



 ただ、だからといって、以下の文章を書き直す必要もないと思います。あくまでも映画は元の『シェリ』の映画化なのでしょうから。


★★★☆☆




象のロケット:わたしの可愛い人


最新の画像もっと見る

コメントを投稿