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博士と彼女のセオリー

2015年04月14日 | 洋画(15年)
 3月末の拙エントリの冒頭で申し上げましたように、映画館が満員で見逃してしまった『博士と彼女のセオリー』を、ようやっと日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)本作(注1)は、アカデミー賞作品賞にノミネートされた作品ということで、映画館に行ってきた次第です。

 冒頭のシーンは、ラストの王宮の場面につながるのでしょうが、車いすに座った人間と子供たちなどが、両側にいくつも絵画のかかった廊下を進んで行く様子が逆光の中でおぼろげに映しだされます。

 次いで、1963年、ケンブリッジ大学の構内を自転車で走るホーキングエディ・レッドメイン)とその親友・ブライアンハリー・ロイド)の姿。



 大学の建物の中で行われているパーティーの中に入っていきます。
 男たちが、「愛の物理学で博士号をとれ」等と言っているそばで、女達が「科学専攻者ばかり。長居は無用。退屈してしまう」と言っています。
 そんな中で、ホーキングがジェーンフェリシティ・ジョーンズ)と目が会い、「ハロー」と近づいてきます。
 ジェーンが「あなたの専攻は?」と尋ねると(注2)、ホーキングは「コスモロジー」と答え、さらに彼女が「何を信じているの?」と訊くと、彼は「たった一つの方程式。未だ答えがわからない。でも見つける」と答えます(注3)。
 ジェーンは「方程式が見つかるように祈るわ」と言ってその場を離れますが、ホーキングはハンカチに電話番号を書いて渡します。



 そんな経緯でホーキングはジェーンと出会ったわけですが、さあ、これからどのように二人の関係は発展していくのでしょうか………?

 本作では、よく知られたALSの天才物理学者とその妻との愛の物語が前面に出ていて、ホーキング博士の宇宙理論は添え物的に扱われているので、イマイチ感を抱かせるとはいえ、そのことで逆にとても見やすくできている作品と言えるのではと思います。特に、ホーキングを演じるエディ・レッドメインの演技はアカデミー賞主演男優賞も当然と思えるほど見事な出来栄えですし、また妻役のフェリシティ・ジョーンズも、彼に劣らず素晴らしい演技を披露しています(注4)。



(2)邦題でも原題でも「セオリー(理論)」が掲げられている割には、映画からはその点があまり見えてこないような感じもします。「理論」といっても、おそらくは単なる比喩に過ぎないからでしょう。
 でも、宇宙論については門外漢でよくわからないながら、それと本作とを試みに無理やりこじつけてみたら、もしかしたら次のようにでもなるのでしょうか?

 例えば、ALSと判明して、ホーキングが、部屋に入ってきたジェーンに対し「僕を思うなら出て行ってくれ。余命は2年。研究したい」と言ったのに対し(注5)、ジェーンが「あなたを愛している。一緒にいたい」とキスをし、ホーキングの汚れた眼鏡を拭いてあげ、ついに結婚式に到達します。

 ホーキングが1988年に出版した『ホーキング、宇宙を語る』(ハヤカワ文庫NF)のほぼ同じ箇所において(P.84~P.85)、一方で、ホーキングが「ALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかっていると診断された」ことと、「素晴らしい女性、ジェーン・ワイルドと婚約した」ことが、他方で1965年に「重力崩壊を起こしている物体はどんなものでも最後には特異点をつくるというペンローズの定理について読んだ」こと、さらに、1970年に「一般理論が正しく、かつ宇宙が、われわれが現に観測しているのと同じ程度の量の物質を含んでいさえすれば、ビッグバン特異点があったはずだということを最終的に証明した」と述べられています。
 1965年のホーキングとジェーンの結婚は、“ビッグバン特異点”とみなしてみたら面白いのではないでしょうか?
 なにしろ、一方で、「この理論は、宇宙のはじまりにはそれ自身(一般相対性理論)を含めてすべての物理理論が破綻すると予測している」のであり、他方で、余命2年と宣告された理論物理学者と中世のスペイン詩を学ぶ二人の結婚も、世の中の常識が及ばない“特異”な感じがするものだったでしょうから(注6)!

 とはいえ、『ホーキング、宇宙を語る』の最後の方では、「重力の量子理論が開いてくれた新しい可能性では、時空は境界をもつ必要性がないので、境界における時空のふるまいを特定する必要もなくなる。特異点がないので、科学法則が破綻することもない」と述べられています(P.195)。
 こうした方向性は、ラストの時間の巻き戻しの場面に関係してくるのでしょうか(注7)?
 すなわち、ラストの王宮の庭園での素晴らしいシーンで、「今日はありがとう」と言うジェーンに、ホーキングが「我々が作り上げたものを見ろよ」と言いながら3人の子供たちを見ると、これまでの映像がどんどん巻き戻されて、ついに最初の出会いのところまで遡ります。

 名古屋大学の松原隆彦氏は、『宇宙はどうして始まったのか』(光文社新書、2015.2)において、ホーキングが2006年に明らかにしたトップダウン型宇宙では(注8)、「現在の宇宙で私たちがどのような観測を行うかということが、宇宙の歴史自体を決定づけることになる。現在の私たちの観測行為が、複数の可能性が重ね合わさっている宇宙の歴史から、一挙に一つを選びとってしまうというのだ」と述べています(P.204)。
 ただこれは、「すでに起きてしまった過去を思い通りに変えられる、という都合のいい話」ではなく、「観測行為によって現実化した宇宙と矛盾のない過去だけが選び取られるということ」だそうです(P.205)。

 要すれば、本作では、ホーキングとジェーンとの最初の出会いからその後の経緯を時間的な流れに従って描かれていますが、それは古典物理学の世界のものであり、量子論的な宇宙の見方に従えば、むしろ、現在の時点に立ち現在をどう捉えるのかによって過去を捉えることができるということなのかもしれません(注9)。
 ラストの時間の巻き戻しの場面も、そう考えていけば、なお一層興味が湧いてきます。

(3)渡まち子氏は、「理論物理学者スティーブン・ホーキング博士と妻ジェーンの半生を描いた「博士と彼女のセオリー」。あざとさや感動の押し売りはいっさいない特異なラブストーリー」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「人の幸福とは、外から見ても案外わからないものである。だが、たとえなんの才能がなくとも、不自由な境遇の中でも、きっとそれは用意されている。そんな風に思わせてくれる暖かい1本である」として60点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「恋愛映画としては定石通りであり、ラスト近くで2人の別れと新たな人生が示されるが、少々漠然と描かれていて、それまでの愛の展開から見るとドラマとして物足りない印象は否めない」として★3つ(見応えあり)を付けています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「偉人伝として持ち上げず、きれいごとに終わらせていないからこそ、感動的な愛の物語がなおいっそう輝きを増しているのだ」と述べています。



(注1)原作はジェーン・ホーキング著『Travelling to Infinity:My Life with Stephen』。
 監督はジェームズ・マーシュ
 原題は「The Theory of Everything」。

(注2)ジェーンは、言語学の分野で博士号をとろうとしています。

(注3)「たった一つの方程式」といえば、映画『インターステラー』において、アメリアの父親のブラッド教授が探求していた方程式を思い起こさせます。
 そういえば、『ホーキング、宇宙を語る』ではブラックホールが中心的に書かれていますが、同作では、ブラックホールで得られたデータによってマーフがブラッド教授の方程式を解明する話となっています。

(注4)出演者のうち、エディ・レッドメインは『マリリン 7日間の恋』、フェリシティ・ジョーンズは『わたしの可愛い人―シェリ』(シェリの妻の役)で、それぞれ見ました。

(注5)ホーキングを診た医師は、「運動ニューロン疾患だ」と言い、さらに「筋肉を動かそうとする信号が、脳から伝わらなくなる。随意運動を制御できなくなる。余命は2年。治療法はない。ただし、脳は影響を受けない。しかし、誰にも考えていることを伝えることができない。残念だ」と言います。

(注6)例えば、ホーキングの父親は、ジェーンに対し、「これからはとても短い。これは闘いにさえならない。耐え難い敗北へ向かうだけだ」と言うのです。

(注7)なお、『ホーキング、宇宙を語る』では引き続いて、「空間と時間が、境界のない閉じた局面を形成しているかもしれないという考えは、宇宙の出来事に対する神の役割に就いても、深刻な示唆をはらんでいる。………宇宙が本当にまったく自己完結的であり、境界や縁をもたないとすれば、はじまりも終わりもないことになる。………だとすると、創造主の出番はどこにあるのだろう」と述べられています(P.202)。
 1991年のジェーンとの離婚が、既に予感されていたのでしょうか?というのも、ジェーンは、敬虔な英国国教会の信者であり、神の存在を信じていたはずですから(カトリックではなく、英国国教会の信徒のために、離婚ができたのでしょう)。

(注8)共同研究者のトーマス・ハートグと書いた論文に述べられているようです。

(注9)松原氏は、「もしホーキングのトップダウン型宇宙が正しいのなら、宇宙の始まりは私たちにとって確定的な出来事ではない。まだ私たちが測定していない宇宙の性質について、その原因となるような宇宙の出来事は、いろいろな可能性がいまだ量子的な重ね合わせの状態にある」と述べています(P.209)。
 あるいは、本作で描かれているホーキングとジェーンとの出会いからの経緯は、決して確定したものではなく、数ある重ね合わせ状態の一つにすぎないのかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:博士と彼女のセオリー


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6 コメント

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アカデミー主演男優賞も納得 (atts1964)
2015-04-14 16:46:09
私はやはり主演のエディ・レッドメインの演技に取り込まれましたね。
健常者が、ホーキングを演じるのは難しいでしょうし、だんだん動かなくなっていく過程や、それに伴い強烈なストレス。
ジェーンに対する様々な感情、それに対するある種天才的な着地点、それが凄かったですね。
ただ今回の主演男優賞候補は激戦だったと思いました。
こちらからもTBお願いします。
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二人の演技合戦 (すぷーきー)
2015-04-14 22:47:05
TBありがとうございます。
スティーヴンの病状がどんどん進んでいく様子、ジェーンがどんどん疲れていく様子、すごかったですね。
お互いを裏切った汚さではなく、仕方がないと思える結末でした。
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Unknown (クマネズミ)
2015-04-16 06:21:40
「atts1964」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、「主演のエディ・レッドメインの演技に取り込まれま」すが、それを受け止めるフェリシティ・ジョーンズの演技も素晴らしかったと思います。
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Unknown (クマネズミ)
2015-04-16 06:25:56
「すぷーきー」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、「仕方がないと思える結末でした」が、この映画の作成時には2番目の奥さんとも別れているようですね。
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Unknown (ふじき78)
2015-08-30 07:14:35
> ジェーンが「あなたを愛している。一緒にいたい」とキスをし、ホーキングの汚れた眼鏡を拭いてあげ、ついに結婚式に到達します。

こう言葉にしてしまうと、キス(SEX)と、彼女が博士の外界に向けての窓になることを表わしている、みたいな象徴表現に凄く見える。彼女が博士に対して恋人でありながら母みたいになってしまうのはとても痛々しいけど、これ日本人の夫婦だったらSEXを捨てて、単に母親になっていくからホーキング博士は日本人妻を娶れば良かったかもしれない(おそらく奥さん側は幸せじゃないと思うが)
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Unknown (クマネズミ)
2015-08-30 09:58:05
「ふじき78」さん、コメントをありがとうございます。
そういえば、昔DVDで見た邦画『まぼろしの邪馬台国』では、盲目の夫・康平(竹中直人)を支え続けた妻・和子(吉永小百合)が描かれていますし(半世紀以上昔のことです)、『柘榴坂の仇討』も、妻(広末涼子)が夫(中井貴一)を献身的に支えます。また、見てはおりませんが、『武士の一分』も盲目の主人公(木村拓哉)を妻(檀れい)が献身的に支える物語とのこと。ただ、女性の社会的進出が著しい昨今のことでもあり、そのような献身的な日本人女性が容易く見つかるとも思えないのですが?
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