
『セカンドバージン』を渋谷シネパレスで見ました。
(1)これは、予告編で見て良い作品かもしれないと思ったのですが、NHKドラマを全然知らずに見たせいか、その出来栄えに疑問を持たざるを得ませんでした。
出版社で辣腕を振るっている女専務・るい(鈴木京香)は、証券業界の寵児・行(長谷川博己)に本を書かせたことから不倫に陥ったものの、違法取引で逮捕された彼は、2人の家に戻ってきた後、失踪してしまいます。5年後、彼女は彼とマレーシアで再会しますが、その直後彼は銃弾に倒れ、病院で寝たきりに、そして……。
といったような粗筋ながら、鈴木京香が長谷川博己と恋に落ちてセカンドバージンをなくすに至る過程が全然描かれずに、いきなりベッドシーンになってしまうのは、「るい」が、“女がセカンドバージンをなくすのは大変なこと”とまで映画で言っているのですから、どうしてという気にさせられます〔それに、前田有一氏ではありませんが、件の「お色気シーンはなし」なのです!(注1)〕。
さらに、こんな関係になれば会社にいられなくなるとも「るい」は言っているのですが、その過程もつぶさに描かれずに、鈴木京香はいきなりマレーシアに現れるのです。
こんなところから、この作品は、物語の前半部分は軽く流して、むしろ後半部分に焦点を当てて描きだしたもの、と考えられます(それなら、タイトルも、それに合わせて替えるべきだと思われますが)。
でもその結果、長谷川博己については、ズット病院のベットで横たわっているだけの映像となってしまいます(といっても、離れの別棟に一人でいますから、日本の病院とはまるで違った雰囲気ですが)。

鈴木京香の方も、効験があるとされる水を汲みに近くの水場に行くくらいが日課という、何とも変化に乏しい映像が映し出されるに過ぎません(注2)。

時折、回想シーンがあってこれまでの経緯が説明されるわけながら、上で述べたようにおざなりのものにですから、全体として山場のない至極退屈な映画となってしまっています(注3)。
一時、長谷川の妻(深田恭子)が日本からやってきて、病室で鈴木と鉢合わせして悪態をつき、さぞや物凄い女の戦いになるのかしらと期待していたら、随分と簡単に引き下がってしまうのでこれも拍子抜け。

これで、鈴木京香の魅力が発揮されていればまだしも(むろん、ベッドシーンなどどうでもいいのですが)、彼女もこれだけアップに晒されるとチョットなあという感じの映像のため、見ている方は困ってしまいます。
長谷川京子の『七夜待』も、マレーシアに行って転けていますから、どうも邦画にとってマレーシアは鬼門のようです(日本では余り見られない森の光景に囚われてしまうのでしょうか)。
とはいえ、病院にいるスタッフたちが、ポルトガルの古い歌をギターの伴奏で歌うのには驚きました(注4)。
(2)この映画は、鈴木京香が主演と言うことで見に行ったわけですが、彼女については、このところ『Flowers』、『サイドウエイズ』、『沈まぬ太陽』、『重力ピエロ』といった作品でおめにかかったものの、それほどはかばかしい印象を残していないのです。
ですから、今回の作品は期待したのですが、やはり『助太刀屋助六』(2002年)とか『真昼ノ星空』(2004年:注5)といった作品で味わうことのできた彼女の魅力は、残念ながら最早失せてしまったような感じです。
(3)渡まち子氏は、「この映画版はなんとも薄味で、TVドラマのダイジェストにちょこっとおまけをつけたかのよう。ドラマ未見のファンもそこそこ理解できる作りだが、ディープなドラマファンはこの内容では納得できないのではないか。マレーシアくんだりでも実現する妻との対決という修羅場は、あっさりと終了。姿を消した行の衝撃の真実もセリフだけでさらりと説明。時間の都合とはいえ、拍子抜けしてしまう」などとして45点をつけています。
また、福本次郎氏は、「映画は年齢の離れたカップルのすれ違いを通じて、世代的な価値観が異なる者同士が愛し合うことの難しさを描く。会社では有能でも男女の機微には疎い中年女の一途な愛が痛々しい」としながら40点をつけています。
(注1)例えばこんなブログ記事がありました。
(注2)一番の山場は、概略次のように2人が言い争うところでしょうか。長谷川が、鈴木に向って「あんたの強さにウンザリだった」と言うと、鈴木の方は、「どこが強いの?」と聞き返します。長谷川はそれに対して、「そう言うところが強いんだよ」と言うと、鈴木は、「あんたに出会うまではそうだった。でも、あんたに出会ってから、誇りも自身もなくなった。自分の年齢が辛くなり始めた。あなたと暮らし始めてから不安だった」と答えます。これに対して、長谷川は、「あんたはそうやって、いつも先回りをする。俺はあんたから逃げたかったのだ。こんな俺のどこに未練があるのだ。俺はもう空っぽだ。一人で死にたい」と大声で答えます。
それを聞くと、鈴木は泣きながら病室の外に飛び出します。
(注3)ラストは、飛び出した鈴木が再び長谷川のもとに戻ると、長谷川は、「忘れないでほしい。ずっと「るい」さんを愛している」と言うと、鈴木は、「死に打ち克つことはできない。でも、ずっと覚えていることはできる。それが死に対するささやかな思いでなの」と応え、それとともに、床に落ちていたマレー蝶が蘇り、窓から飛び去ると、周囲からたくさんの蝶が現れ、一緒に飛び去っていきます。
おそらく、長谷川が死んだことを表しているのでしょう。
それにしても、銃撃され、病院の医師から時間の問題だと言われてから、随分と時間が経過したようにみえ、最後はベッドを起こしてもらうまでになったのは驚異的です。あるいは、「るい」が汲んでくる水にそれなりの効能があったのかもしれません!
(注4)Wikipedeiaの記事によれば、1511年から1641年までポルトガルがマラッカ(ムラカ)を占領し続け、東南アジアにおける同国の拠点となっていたようです(フランシスコ・ザビエルもここから東アジアの不況に出発しています)。
現在でも、ポルトガル人によって建てられた教会跡とか砦が残っているようです。
(注5)この映画は、中川陽介監督の沖縄3部作のうちの一つだということで見に行きました。台湾の殺し屋が、毎土曜日の夜にコインランドリーで鈴木京香に出会い、彼女は仕出し弁当屋で働いている年上ながらも魅力的な女性、との設定はすごく面白いと思いました。
ちなみに、中川陽介監督の『Fire!』(2002年)も沖縄を舞台とするものですが、亡くなってしまった歌手・柴理恵の存在感にすばらしいものがありました!
★★☆☆☆
象のロケット:セカンドバージン
(1)これは、予告編で見て良い作品かもしれないと思ったのですが、NHKドラマを全然知らずに見たせいか、その出来栄えに疑問を持たざるを得ませんでした。
出版社で辣腕を振るっている女専務・るい(鈴木京香)は、証券業界の寵児・行(長谷川博己)に本を書かせたことから不倫に陥ったものの、違法取引で逮捕された彼は、2人の家に戻ってきた後、失踪してしまいます。5年後、彼女は彼とマレーシアで再会しますが、その直後彼は銃弾に倒れ、病院で寝たきりに、そして……。
といったような粗筋ながら、鈴木京香が長谷川博己と恋に落ちてセカンドバージンをなくすに至る過程が全然描かれずに、いきなりベッドシーンになってしまうのは、「るい」が、“女がセカンドバージンをなくすのは大変なこと”とまで映画で言っているのですから、どうしてという気にさせられます〔それに、前田有一氏ではありませんが、件の「お色気シーンはなし」なのです!(注1)〕。
さらに、こんな関係になれば会社にいられなくなるとも「るい」は言っているのですが、その過程もつぶさに描かれずに、鈴木京香はいきなりマレーシアに現れるのです。
こんなところから、この作品は、物語の前半部分は軽く流して、むしろ後半部分に焦点を当てて描きだしたもの、と考えられます(それなら、タイトルも、それに合わせて替えるべきだと思われますが)。
でもその結果、長谷川博己については、ズット病院のベットで横たわっているだけの映像となってしまいます(といっても、離れの別棟に一人でいますから、日本の病院とはまるで違った雰囲気ですが)。

鈴木京香の方も、効験があるとされる水を汲みに近くの水場に行くくらいが日課という、何とも変化に乏しい映像が映し出されるに過ぎません(注2)。

時折、回想シーンがあってこれまでの経緯が説明されるわけながら、上で述べたようにおざなりのものにですから、全体として山場のない至極退屈な映画となってしまっています(注3)。
一時、長谷川の妻(深田恭子)が日本からやってきて、病室で鈴木と鉢合わせして悪態をつき、さぞや物凄い女の戦いになるのかしらと期待していたら、随分と簡単に引き下がってしまうのでこれも拍子抜け。

これで、鈴木京香の魅力が発揮されていればまだしも(むろん、ベッドシーンなどどうでもいいのですが)、彼女もこれだけアップに晒されるとチョットなあという感じの映像のため、見ている方は困ってしまいます。
長谷川京子の『七夜待』も、マレーシアに行って転けていますから、どうも邦画にとってマレーシアは鬼門のようです(日本では余り見られない森の光景に囚われてしまうのでしょうか)。
とはいえ、病院にいるスタッフたちが、ポルトガルの古い歌をギターの伴奏で歌うのには驚きました(注4)。
(2)この映画は、鈴木京香が主演と言うことで見に行ったわけですが、彼女については、このところ『Flowers』、『サイドウエイズ』、『沈まぬ太陽』、『重力ピエロ』といった作品でおめにかかったものの、それほどはかばかしい印象を残していないのです。
ですから、今回の作品は期待したのですが、やはり『助太刀屋助六』(2002年)とか『真昼ノ星空』(2004年:注5)といった作品で味わうことのできた彼女の魅力は、残念ながら最早失せてしまったような感じです。
(3)渡まち子氏は、「この映画版はなんとも薄味で、TVドラマのダイジェストにちょこっとおまけをつけたかのよう。ドラマ未見のファンもそこそこ理解できる作りだが、ディープなドラマファンはこの内容では納得できないのではないか。マレーシアくんだりでも実現する妻との対決という修羅場は、あっさりと終了。姿を消した行の衝撃の真実もセリフだけでさらりと説明。時間の都合とはいえ、拍子抜けしてしまう」などとして45点をつけています。
また、福本次郎氏は、「映画は年齢の離れたカップルのすれ違いを通じて、世代的な価値観が異なる者同士が愛し合うことの難しさを描く。会社では有能でも男女の機微には疎い中年女の一途な愛が痛々しい」としながら40点をつけています。
(注1)例えばこんなブログ記事がありました。
(注2)一番の山場は、概略次のように2人が言い争うところでしょうか。長谷川が、鈴木に向って「あんたの強さにウンザリだった」と言うと、鈴木の方は、「どこが強いの?」と聞き返します。長谷川はそれに対して、「そう言うところが強いんだよ」と言うと、鈴木は、「あんたに出会うまではそうだった。でも、あんたに出会ってから、誇りも自身もなくなった。自分の年齢が辛くなり始めた。あなたと暮らし始めてから不安だった」と答えます。これに対して、長谷川は、「あんたはそうやって、いつも先回りをする。俺はあんたから逃げたかったのだ。こんな俺のどこに未練があるのだ。俺はもう空っぽだ。一人で死にたい」と大声で答えます。
それを聞くと、鈴木は泣きながら病室の外に飛び出します。
(注3)ラストは、飛び出した鈴木が再び長谷川のもとに戻ると、長谷川は、「忘れないでほしい。ずっと「るい」さんを愛している」と言うと、鈴木は、「死に打ち克つことはできない。でも、ずっと覚えていることはできる。それが死に対するささやかな思いでなの」と応え、それとともに、床に落ちていたマレー蝶が蘇り、窓から飛び去ると、周囲からたくさんの蝶が現れ、一緒に飛び去っていきます。
おそらく、長谷川が死んだことを表しているのでしょう。
それにしても、銃撃され、病院の医師から時間の問題だと言われてから、随分と時間が経過したようにみえ、最後はベッドを起こしてもらうまでになったのは驚異的です。あるいは、「るい」が汲んでくる水にそれなりの効能があったのかもしれません!
(注4)Wikipedeiaの記事によれば、1511年から1641年までポルトガルがマラッカ(ムラカ)を占領し続け、東南アジアにおける同国の拠点となっていたようです(フランシスコ・ザビエルもここから東アジアの不況に出発しています)。
現在でも、ポルトガル人によって建てられた教会跡とか砦が残っているようです。
(注5)この映画は、中川陽介監督の沖縄3部作のうちの一つだということで見に行きました。台湾の殺し屋が、毎土曜日の夜にコインランドリーで鈴木京香に出会い、彼女は仕出し弁当屋で働いている年上ながらも魅力的な女性、との設定はすごく面白いと思いました。
ちなみに、中川陽介監督の『Fire!』(2002年)も沖縄を舞台とするものですが、亡くなってしまった歌手・柴理恵の存在感にすばらしいものがありました!
★★☆☆☆
象のロケット:セカンドバージン
ほんま、愚作です。
これ、レディスdayじゃなない日に観てたら、
お金を返して!って感じですよね。
1,000円の価値もないですが。。。
残念な映画でした。
しかし、計算が合いませんね。行とるいの年齢差は17歳。いくら優秀な、官僚と言っても官僚時代に仕事はやりつくしたと言うセリフから想像するに、10年でも足りないと思いますが、そこは置いといて…となると行の歳は、32歳くらい。るいは、49歳。出会ったのが8年前、付き合って3年。5年前に行が失踪。現在の歳、るい57、行40と想像するに…違和感あり。現行のるいに17歳年下を惹き付けるオーラがあるか、否か。
根本的なトコだが、セカンドバージンがテーマだが、るいは、離婚して以来、その夫以降、オトコを知らないと言うセリフが。つまり離婚以来、セックスをしていないと言う事だ。るいは美人で、かつ、出版社のバリバリキャリアウーマンで超やり手の専務と言う設定。しかし、正直、数十年もオトコの影の無い女では、些か無理がある設定だ。設定と実際の画面から醸し出す雰囲気とは、ギャップがある。ましてや、出版物(恋愛モノを含め)を扱う仕事だ、ヒトの心理を掴めなければ、成功は出来まい。るいと行との関係をあくまでも、純愛的にしたいが為か、るいを、夫以来の初めてのオトコとしたかった訳だろうが、違和感があった。濡れ場としては、男女共に、肌の露出は殆ど無く、下半身の腰をふるような性描写はなく、上半身でキスシーンくらい、おっぱい揉みもなかったかな、と。そちらに期待している方にはオススメは出来ませんな。鈴木京香さんの英語のセリフが(短いものばかりですが)あまりこなれてないかなと思いました。
ただ、「現在の歳、るい57、行40と想像するに…違和感あり。現行のるいに17歳年下を惹き付けるオーラがあるか」とか、「正直、数十年もオトコの影の無い女では、些か無理がある設定」とされ、結局「設定と実際の画面から醸し出す雰囲気とは、ギャップがある」とまでおっしゃっておられながら、、冒頭で「問題なく観れました」と宣言されておられるのが、聊か腑に落ちないところです。
結論的には、クマネズミが「その出来栄えに疑問を持たざるを得ませんでした」と申し上げているのとそれほど大差ないご意見のように見えるのですが。
いっしょに観に行ったトモダチもこのブログを読んで同感することでしょう。
ドラマを観てないせいもありましたが、
どういうくだりで、セカンド・バージンを突き破ったのとか
全くなかったし、ただ愛する人の死を迎える女性の映画だったような感じですね。
ドキドキ感を味わえると思っていたのに。
全体的にも淡々とした映画で
とても残念。
おっしゃるように、「ただ愛する人の死を迎える女性の映画」であって、盛り上がりに欠けた作品だったと思います(NHKドラマの落ち穂拾いとしても、1本の映画作品とするなら、やはりそれなりの山場を設けてほしいものです)。