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危険なプロット

2013年11月01日 | 洋画(13年)
 『危険なプロット』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い映画館に行ってきました(注1)。

 高校の国語の教師・ジェルマンファブリス・ルキーニ)が主人公。
 彼は家で、生徒が課題(「週末のこと」)で書いた作文を読みますが、出来が悪いものばかりでうんざりします(「彼らの無知よりも将来が心配だ」)。
 その中で、ある家庭の内情を描いたクロードエルンスト・ウンハウアー)(注2)の作文が目に止まります(「綴りのミスもなく語彙も豊富だ」)。



 次々と書いてくるクロードの作文を読み、その才能に惹かれたジェルマンは、個人的に彼に文学の指導をします(注3)。
 さらにジェルマンは、その作文を妻のジャンヌクリスティン・スコット・トーマス)にも見せますが(注4)、2人は次第に、その作文に書かれているジェルマンの生徒・ラファ(クロードの友達)の家庭の様子自体に興味を持ちだしてしまいます(注5)〔特に、ラファの母親のエステルエマニュエル・セニエ)とクロードとの関係に〕。
 ジェルマンは、クロードが作文を書き続けられるよう、とんでもないことをするハメになり(注6)、他方で、クロードが書いていることが現実のことなのかフィクションなのかも判然としがたくなってきます。
 さあ、事態はさらにどのように展開していくのでしょうか、………?

 クロードという美少年にかき回される2つの家庭の様子(注7)が、主人公の国語教師ジェルマンの生徒に対する作文指導というやや変わった角度からユーモアをもって描かれていて、なかなか興味深い作品となっています(注8)。

(2)とはいえ、問題点もあるように思います。
 ジェルマンやラファの家の中を描き出しているシーンなどは、原作が戯曲(注9)であることを引き摺っているように感じられます(注10)。
 また、ジェルマンは、生徒を指導する教師という立場でありながら、生徒であるクロードに思うがまま引きずられてしまっているのは、随分と主体性のないつまらない人物のように思えてしまいます(注11)。
 さらには、ジェルマンの妻・ジャンヌの人物造形がイマイチよくわからないところです。
彼女は、「ミロタウロスの館」というところで画廊を営んでいますが、うまくいかずに気が焦っている面もあるとはいえ(注12)、いとも簡単にジェルマンの元を去ってしまいます(注13)。



 もっと言えば、文学がフィクションであることは、ジェルマン自身がよく理解しているはずにもかかわらず(特に、西欧人なのですから)、そしてクロードに文学理論を教えているにもかかわらず、クロードが書いてきた作文をなかばリアルな話として受け取ってしまっているのは、まるで日本の自然主義文学(「私小説」)が取り扱われているような感じがして、ちょっと戸惑ってしまいます。

 でもまあ、そんなところはどうでもよくて、クロードの目を通して(まるでクロードがビデオカメラをもってその家庭に入り込んだかのように)、別の家庭の内情を覗き見てジェルマンらが興奮するというのが本作の構図だと受け止めるのであれば、こんなこともあるのかなといった感じになります。

(3)中条省平氏は、「その作為がまったく不自然に感じられないのは、オゾン監督が一切のこけおどしを排して落ち着いた演出に徹し、丹念で確実な編集を積み重ねているからだ。またルキーニ、トーマス、セニエの見事に対照的な大人のアンサンブルに加えて、新星の美少年エルンスト・ウンハウアーの危うく、同時にしたたかな存在感もドラマをひき立てている」と述べています。
 また、秦早穂子氏は、「才気あふれるあまり、心に響かぬ憾みはあるが、冷静な語り口、緻密な作り、実に巧い。ふたりの主役も魅力的だ。結末は手痛いにしても、所詮、書くとは危険と背中合わせで生きること。その悦びとおそれがある限り、人生と物語は“続く”のであろう」と述べ、さらに櫛田寿宏氏は、「上質のユーモアを含んだ、皮肉たっぷりの知的なサスペンスに仕上がっている」と述べています。



(注1)原題は「Dans la maison」(英題In the House)で、本作にピッタリです。

(注2)クロードは転校が多い生徒で、母親は7年前から不在で、父親も病身です。

(注3)例えば、誰に向かって書くのかを考えるべきだとか、読者を飽きさせないように次に起こることに読者の興味をもたせるようにする、などといったことを、ジェルマンはクロードにアドバイスします。

(注4)ジャンヌは、最初のうちは「生徒にこんな作文を書かせるなんて」とか、さらには「クロードの親に言うべき」、「精神科医にみせるべき」、「ジョン・レノンを殺した男がサリンジャーの本を持っていた」などと言いつつも、その作文を読みたがります。

(注5)クロードが提出する作文の末尾に、毎回「続く」と記載されているので、どうしても次の作文が気になってしまいます。

(注6)クロードは、ラファに数学を教えるということで彼の家に入り込みますが、ある時ジェルマンに、「今度の数学の試験の成績が悪いと、その家に行けなくなる」と言い出します。ジェルマンは、「私に数学の問題を盗めというのか」と驚くものの、数学教師が作成したテスト用紙を密かにコピーしてしまいます。
 結局は、ラファが学校当局にそのことを打ち明けて、ジェルマンは停職処分を食らうことに。

(注7)クロードは、家庭のぬくもりを求めているのにすぎないのでしょうが(特に母親の愛情を求めているのでしょう)、それがエステルとの関係では恋愛感情になってしまい、エステルは「夫とラファが自分を必要としている」と言って、クロードから離れることになります。



 ついで、クロードはジャンヌに近づきますが、ジェルマンがクロードにジャンヌの秘密(不妊症)を明かしていたことがわかると、ジャンヌも離れてしまいます。

(注8)主演のファブリス・ルキーニは『屋根裏部屋のマリアたち』や『しあわせの雨傘』で、また、クリスティン・スコット・トーマスも『砂漠でサーモン・フィッシング』や『サラの鍵』でおなじみです。

(注9)本作は、スペインのファン・マヨルガの戯曲「最後列の少年」に基づいているとのことです(クロードは、教室の“最後列”の席に座っています)。

(注10)クロードがドアの陰から部屋の様子を覗き見しているシーンは、演劇において、中の様子に聞き耳を立てるよく使われる手法に通じるのではないでしょうか。
 また、クロードとラファの母親エステルとが二人きりでいるところにジェルマンが登場するのは、『ローマでアモーレ』でウディ・アレンが使っている手法(同作に関する拙エントリの「注2」を「参照)と同じように思われます。

(注11)ジャンヌが言うように、ジェルマンが「クロードに恋している」ためなのかもしれないところ、それだけでなく、ジェルマンは、クロードの作文についてのジャンヌの感想を、まるで自分のもののようにクロードに話したりもするのです〔彼は、元々作家志望で、本も1冊書いているのですが(クロードが本棚にそれを見つけます)、自分にはその才能がないと諦めています〕。

(注12)ジャンヌは「言葉による絵画」なるものをジェルマンに見せますが、彼は「売れるとは思えない」と答えますし、また、館の持ち主の双子の姉妹に、画廊で展示する絵を見せている場面がありますが、どう転んでも売れそうにない中国人の作品なのです(実際にも売れず、画廊は売却されることに)。

(注13)いくら、ジェルマンが、ジャンヌの不妊症のことをクロードに打ち明けてしまったとはいえ。



★★★☆☆



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2 コメント

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Unknown (ふじき78)
2014-03-21 09:07:22
> ジェルマンやラファの家の中を描き出しているシーンなどは、原作が戯曲であることを引き摺っているように感じられます

映画の原題は「家の中」だそうで。そして、クロードが登場しながら明確に屋外にいるシーンは二か所。友人の母との別れのシーンと、教師との再会のシーン。この二つのシーンがどちらも書かれる小説の内容では全くあり得ないことと、物語の外郭に位置づけられる事から、「戯曲」だから舞台が家の内部になってしまったというより、意図的にその構造を利用しているように思えます。
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Unknown (クマネズミ)
2014-03-22 07:21:16
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
クマネズミとしては、「「戯曲」だから舞台が家の内部になってしまった」と申し上げたいのではなく、「ジェルマンやラファの家の中を描き出しているシーン」の描き方は戯曲特有の臭みをもったものではないか、と思えたのですが(戯曲でも屋外の場面を設けることが十分可能ですし)。
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