映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

清須会議

2013年11月22日 | 邦画(13年)
 『清須会議』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作を制作した三谷幸喜監督の前作『ステキな金縛り』がまずまず面白かったこともあり、映画館に足を運んでみました。

 本作で専ら描かれるのは1582年6月の清須会議で、それは織田信長が本能寺の変で急死した後、織田家の継嗣問題と領地再分配問題を解決するために開催されたものです。
 でも、その帰趨については皆がよく知るところでしょうから(注1)、本作に対する関心は、むしろどの俳優がどんなメイクや衣装、それにどんな演技で主な登場人物である4人(柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉池田恒興)を演じるのかとなるでしょう。



 そうなると、やはり柴田勝家の役所広司が抜きん出ていて、佐藤浩市の池田恒興、小日向文世の丹羽秀長はまずまずといったところ、大泉洋の羽柴秀吉については意見が別れるところではないかと思います(注2)。
 確かに、大泉洋の秀吉もありとは思えるところ、なんだかこれまでのイメージも被ってきて、随分と軽っぽい感じがしてしまうのが問題であり、例えば、元々耳がとびきり大きい瑛太ならどうかなと思ったりしました。



 ただ、総じていえば、華々しいチャンバラ・シーンのない至極真面目な時代劇ながらも、要所要所に笑いの要素を散りばめ、さらには中谷美紀とか鈴木京香剛力彩芽といった女優陣も張り切っていて(注3)、なかなか見応えのある作品になっていると思いました。



(2)本作では、三谷幸喜監督が様々な工夫を凝らしています。
 例えば、
イ)日の進み具合については、「一日目」「二日目」……という具合に字幕が入るものの、肝心の武将たちの名前については、他の時代劇のような字幕は入りません。
 とはいえ、信孝信雄については、その発音が近いために(「ノブタカ」「ノブカツ」)音声だけでは紛らわしく、字幕の必要性が高いでしょうし、また信孝・信雄・信包・秀信(三法師)らの関係についても系図的な説明がある方が、観客にとって随分とわかりやすくなるものと思います。
 でも、三谷監督は、この映画を見に来るほどの観客ならばそんなことは予めよくわかっていることだろうとして、敢えて煩わしい字幕を挿入しなかったのでしょうし、それは一つの見識だと思います。

ロ)本作に登場する人物は、大体が現代語でしゃべっていますが(注4)、これは本作の原作である小説『清須会議』(三谷幸喜作、幻冬舎文庫)が、当時使われた言葉で作られたであろう文書の「現代語訳」として作られていることからくるものと思います(注5)。
 他方、三谷監督は、インタビュー記事では、「ビジュアルには相当こだわり」、例えば「頭頂部の髪を剃った部分「月代」」について、「肖像画で見ると、髪の生え際はかなり後ろな」ので、「既製の鬘ではなく、特殊メイクで作ってもら」ったんだ、と述べています(注6)。
 そこまでビジュアルにこだわるのであれば、話す言葉についても、当時を再現する方向でやってもらったらどうか、という気もしてきます。
 としても、そんなことをしたら、現代の観客は到底理解できなくなってしまうでしょう。
 逆に、ビジュアルも喋り方に合わせて現代風のものにするといったことも考えられるかもしれません。例えば、ジーパンを履いた羽柴秀吉という具合に。
 でも、そんなことをしたら、浮ついた現代の新劇でも見ている感じになってしまい、おそらく受け入れられないことでしょう。
 様々の選択肢があるとはいえ、本作のやりかたは、三谷監督の歴史に対するこだわりと理解ノシやすさ・面白さをミックスさせたものとして、適切なものと思います。

ハ)上で触れたインタビュー記事において、秀吉には「指が6本あったという伝説」があり、本作では「その再現にも挑戦し」、「劇中で秀吉は常に手袋をしてい」るが、「ワンシーンだけ、手袋を外しているシーンがあ」る、と三谷監督は述べています(注7)。
 見終わってからこのインタビュー記事を知り、予告編を見直したりしてみると、大泉洋の秀吉は確かに右手に手袋をしています。



 ですが、クマネズミは、映画を見ている最中はそんなことに露ほども気が付きませんでしたから、手袋を外している「ワンシーン」がどこにあったのか気付くわけもありません!

 それはともかく、昨年出版された『河原ノ者・・秀吉』(服部英雄著、山川出版社)(注8)を見ると、その著『日本史』において「フロイスは秀吉には一つの手に六本の指がある(注9)と書いた」と述べられています(P.571)。
 さらに、同書では、「前田利家の伝記である「国祖遺言」に、秀吉は六本指であると記述されていた」と述べられ、該当部分(「太閤様は右之手おやゆひ一ツ多、六御座候」云々)が引用されています(P.571~572)。
 その上で、服部氏は、多指症についての情報もあり、「同時代人による証言が複数揃った以上、もはや疑ってはならない。六本指だった秀吉は、大道芸でそれを活用したのかもしれない」と結論づけています(P.573)。

 おそらく、三谷監督は、こうしたことも背景にして秀吉のビジュアルを作り上げているのではないかと思われます。

(3)渡まち子氏は、「有名な会議とはいえ、派手なアクションや情熱的なロマンスがあるわけでもない、本作の清須会議は、映画としてはすこぶる地味な題材。それを日本映画が誇る豪華キャストを集めて、抱腹絶倒の歴史エンタテインメントに仕上げてみせた」として70点をつけています。
 また、前田有一氏も、「時代劇ファンが求める「本格」とは、ルックスではなくそこで描くテーマにこそある。それをこの、おバカしたての時代劇は実証して見せた。この時代と武将についての予備知識はある程度必要で、かつ思い入れが強い人ほど楽しめる。三谷監督らしい、年末年始にぴったりな良質な時代劇である」として85点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「何をおいても、138分間じっくり歴史喜劇を堪能させてもらった。結構でござんした」と述べています。



(注1)尤も、信長や信忠、明智光秀がどこを所領していてそれが誰のものになったかまで詳しく知っている人は少ないと思いますが、映画でもその点は余り突っ込みません(ただ、原作小説では、「四日目」の「十六 前田玄以による本会議議事録二(現代語訳)」において、P.229以下17ページにわたって詳しく記述されています)。

(注2)最近では、役所広司は『わが母の記』、佐藤浩市は『人類資金』、小日向文世は『アウトレイジ ビヨンド』、大泉洋は 『探偵はBARにいる2』で、それぞれ見ました。

(注3)最近では、中谷美紀は『リアル~完全なる首長竜の日~』、鈴木京香は『セカンドバージン』で、それぞれ見ています。
 なお、剛力彩芽は、テレビドラマでは見ているものの、映画としては『カルテット!』以来です。

(注4)例えば、「五日目」のお市様と秀吉との会話は、概略次のようです。
 お市様「私は、柴田と祝言をあげます。お祝いの言葉は?」、秀吉「おめでとうございます」、お市様「私にできることはこれしかない」、秀吉「そこまでして私を苦しめたいのですか?」、お市様「私は生涯あなたを許せない。夫を殺し、息子を殺したお前を。あなたが嫌がる相手に嫁ぐのです」、秀吉「そこまで嫌われたら私も本望です」。
 (原作小説のP.281に同じシチュエーションが描かれていますが、映画ではずっと簡略化された会話になっています)

(注5)同小説は、冒頭の「燃え盛る本能寺本堂における、織田信長断末魔のモノローグ(現代語訳)」の節から始まり、末尾の「秀吉の妻、寧の日記。六月二十八日分抜粋(現代語訳)」の節で終わります。

(注6)さらに、例えば、鈴木京香のお市様と剛力彩芽の松姫(三法師の母)は、眉毛がなくお歯黒をしています。

(注7)原作小説では、「二日目」の「二十一 秀吉の妻、寧の日記。続き(現代語訳)」において、「夫は本来暗い人間である。生まれながらに右手に障害を持っていたこともあり」云々と述べられているくらいです(P.120)。

(注8)本書は、昨年の毎日出版文化賞(人文・社会部門)を受けていて、選考委員の白石太一郎氏は、「中世史料に多くみられる河原ノ者、、声聞師などについてその実相を明らかにするとともに、秀吉を被差別民から天下人にまで上りつめた脱賤の具体的な事例として取り上げている。さらに秀頼誕生の謎についても、大胆だが説得力のある推論を提起する」などと述べています。
 また、法政大学教授の田中優子氏も、「本書では、被差別民が多くの分野での職人として社会を支えてきたことが見えて来る。ヨーロッパ人宣教師を始めとする当時の人々の記録を重要視することで、見事に人間を浮かび上がらせた」などとして高く評価しています。
 他に、東大の五味文彦氏は、「大胆な論と丁寧な史料の検討がなされており、読み応えがあるとともに、今後に大きなインパクトをあたえる本となるであろう」と述べています。

 ですが、歴史に驚くほど該博な知識を持つクマネズミの友人は、服部英雄氏について、「的確な史料批判ができない人」であり、本書で「ルイス・フロイスの『日本史』を同時代史料として信頼しすぎるのも、同書が伝聞書きのものであるだけにどうかと思う」などと言っているところです。
 〔前者の点については、例えば本書のP.42に「(佐々木哲氏の著書によれば、近江の六角氏には)系図には記されないけれど、義久―義秀という当主がいた」との記載があるが、まともに認める歴史学者や系図研究者のいない沢田源内の『江源武鑑』が主張するところに従う佐々木哲氏の見解を無批判的に受け入れるものであり、これでは服部氏は史料批判ができないと判断されても仕方がない、と友人は言っています。〕
 「若き日の豊臣秀吉、すなわち木下藤吉郎は賤の環境にあった」(P.561)とか「秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロである」(P.600)といった服部氏が本書で提起する仮説は、単なる一つの考え方と受け止めておいた方がいいのかもしれません。

(注9)原文のポルトガル語では、「Tinha seis dedos em uma mão」。



★★★★☆



象のロケット:清須会議