『屋根裏部屋のマリアたち』を渋谷のル・シネマで見ました。
(1)物語の舞台は、1962年のパリとされます(注1)。
主人公のジュベール(ファブリス・ルキーニ)は、証券会社を営む中年男性で、先祖から伝えられているアパルトマンで暮らしています。
先代の奥方から働いているメイドは、今の奥方シュザンヌ(サンドリーヌ・キベルラン)の言うことに反発して辞めてしまったため、新しいメイドが雇われることに。
その際の重要な条件は、ジュベールの朝食に出す茹で卵の茹で時間を3分半とすること(「正い固さでないと我慢ならない」と主張します)。
そんな条件に、たまたまスペインからやってきたマリア(ナタリア・ベルベケ)が合格。
まだ若くて美しく、仕事をてきぱきと片づけるマリアに、ジュベールは次第次第にいい感じを持つようになってきます。
彼女は、同じアパルトマンの屋根裏部屋(最上階の6階←日本的には7階)に、他の家で働くスペイン人メイド達5人と一緒に暮らします。その中には、共産主義者のメイドも入っていますが(注2)、彼女達は、当時まだスペインを支配していたフランコの独裁政権(~1975年)を嫌ってフランスに移り住んでいた模様です(注3)。
さて、ジュベールは、誤解がもとで妻に家を追い出され(注4)、メイドらが暮らす屋根裏部屋の一つで暮らすことになります(注5)。
そんな中でマリアは身の上話をしますが(注6)、彼女を憎からず思っていたジュベールは、ある夜ベッドをともにし、ここを離れてスペインに近いところで一緒に暮らそうと約束を取り交わします。さて、その約束はうまく守られるでしょうか、そして、……。
夏目漱石の時代ならいざしらず(『坊ちゃん』に登場する下女キヨ!)、今では海外生活でも送らなければ、家にメイドを置くといった経験はおいそれとできませんが(クマネズミは、ブラジルにいたときにブラジル人のメイドを使っていました)、この映画に登場するメイドたちとなら愉快に過ごせそうだなと思わせるものがあり、全体としてまずまずの仕上がりの楽しい作品です。
本作に出演している俳優については、『しあわせの雨傘』でカトリーヌ・ドヌーブの相手役を演じたファブリス・ルキーニくらいしか知りませんが、マリア役を演じるナタリア・ベルベケをはじめとしてなかなか芸達者な俳優ばかりで映画を盛り上げています。
(2)メイドを使う暮らしといえば、先に見た『ヘルプ』を思い出すところ(注7)、そして、本作でもフランス人の奥様族はスペイン人を田舎者と下に見下している感じながら(注8)、むろん『ヘルプ』ほどの激しい人種差別は見られず(注9)、むしろ彼らの間に入って人間性を取り戻すジュベールの姿には、随分と微笑ましいものを感じます。
といって、ジュベールは、証券会社という現代資本主義の最先端の一つを突っ走る企業を営んでいるにもかかわらず、それほど人間性が失なわれた仕事をしているようにも見受けません(注10)。
また、奥方との関係がそれほど冷たくなっているわけでもなさそうにも見えます(注11)。
なんとなく、奥方が誤解した点を解かなかったら家を追い出された感じで、またなんとなく証券業の経営を投げ出して、マリアと一緒の生活をしようという感じになったようにしか見えません(注12)。
そんなぼんやりしたところが、この映画の良さでもあり、また欠点でもあるといえるのではないでしょうか?
(3)渡まち子氏は、「恋愛至上主義のフランスならではの大人のラブストーリー」として60点をつけています。
(注1)冒頭で、主人公のジュベールは、朝起きると、ドゴール大統領(1958年~1969年)の動静を伝えるラジオ放送を聴いています。
(注2)彼女(自分の両親はフランコ派に殺されたと言います)は階級意識が強く、資本家階級の所属するジュベールが6階に移り住むことに反対したりします。
(注3)マリアの話では、生まれた村を16歳で出て、1日15時間労働もしたとのこと。当時のスペインはかなり貧しかったようです。
(注4)奥方は、夫ジュベールとその顧客の未亡人との浮気を強く疑い、彼の方も、なぜかその疑いを積極的に解こうとはしないために(面倒くさくなったのでしょうか)。
(注5)屋根裏部屋に住むことになって、ジュベールは、一人暮らしの自由を満喫します。彼の言によれば、寄宿舎→兵役→結婚と、いつも誰かと一緒の生活ばかりだったとのこと。
(注6)マリアは、8歳になる息子がいる未婚の母なのです。そして、その息子は養子に出して、今どこにいるのか分からないとも。
(注7)『ヘルプ』では、子供の養育を黒人メイドに任せっ切りの様子が描かれていたところ、本作においてもそのようで、寄宿舎から戻ったジュベールの2人の息子は、自分たちを育ててくれたメイドが辞めたことを知ると酷く残念がります(『ヘルプ』でも、主人公のスキーターは、自分を育ててくれたメイドのコンスタンティンを解雇したことについて、母親を非難します)。
(注8)『ヘルプ』でも南部の金持階級の奥様族がトランプをする場面が描かれていましたが、本作でも、パリのブルジョワ階級のマダムたちが、トランプをしながら、「メイドに雇うなら、フランス人は駄目で、文句を言わないスペイン人がいい。スペイン教会が紹介所になっている」などといった情報交換をします。
(注9)メイドは、いくら重い荷物を持っていようとも、エレベータを使えず、最上階まで階段を登って行かなくてはなりませんが(『ヘルプ』でも、メイド用のトイレを別に設けることが問題となります)。
(注10)リーマンショックを経た今日からすれば、たとえどんなアコギなことを当時の証券マンがしていたにしても、児戯に等しいようにしか見えないのかもしれません!
むしろ、本作において、例えばジュベールが、貯めたお金を箱に入れて仕舞っていると言うメイド達に向かって、株式運用の有利なことを説くのは、まさに彼の善意からのアドバイスにしか思えません(マア、彼の会社は、長期運用を専らにしていて、投機的な運用はしていないということですから、比較的安全ではあるのでしょうが)。
(注11)ジュベールと奥方とはセックスレスの関係だったようですが、ジュベールが偶然マリアの裸体を見て発奮してコトに及ぼうとしたところ、奥方の方もまんざらではないように見受けました。
なお、奥方の方こそ、夫はパリジェンヌが好きで、田舎出の自分のことはあまり好みでないのでは、などと言ったりしています。
(注12)マリアとの約束を鵜呑みにして、ジュベールは、証券会社の社長の地位を番頭に譲り渡してしまします。荷物をトランクに詰めて彼はマリアの部屋に向かいますが、彼女はスペインに帰国していてもぬけの殻。というのも、その直前に、彼女の息子がいる場所が分かり、その息子に会いに彼女は帰国してしまうのです。
★★★☆☆
象のロケット:屋根裏部屋のマリアたち
(1)物語の舞台は、1962年のパリとされます(注1)。
主人公のジュベール(ファブリス・ルキーニ)は、証券会社を営む中年男性で、先祖から伝えられているアパルトマンで暮らしています。
先代の奥方から働いているメイドは、今の奥方シュザンヌ(サンドリーヌ・キベルラン)の言うことに反発して辞めてしまったため、新しいメイドが雇われることに。
その際の重要な条件は、ジュベールの朝食に出す茹で卵の茹で時間を3分半とすること(「正い固さでないと我慢ならない」と主張します)。
そんな条件に、たまたまスペインからやってきたマリア(ナタリア・ベルベケ)が合格。
まだ若くて美しく、仕事をてきぱきと片づけるマリアに、ジュベールは次第次第にいい感じを持つようになってきます。
彼女は、同じアパルトマンの屋根裏部屋(最上階の6階←日本的には7階)に、他の家で働くスペイン人メイド達5人と一緒に暮らします。その中には、共産主義者のメイドも入っていますが(注2)、彼女達は、当時まだスペインを支配していたフランコの独裁政権(~1975年)を嫌ってフランスに移り住んでいた模様です(注3)。
さて、ジュベールは、誤解がもとで妻に家を追い出され(注4)、メイドらが暮らす屋根裏部屋の一つで暮らすことになります(注5)。
そんな中でマリアは身の上話をしますが(注6)、彼女を憎からず思っていたジュベールは、ある夜ベッドをともにし、ここを離れてスペインに近いところで一緒に暮らそうと約束を取り交わします。さて、その約束はうまく守られるでしょうか、そして、……。
夏目漱石の時代ならいざしらず(『坊ちゃん』に登場する下女キヨ!)、今では海外生活でも送らなければ、家にメイドを置くといった経験はおいそれとできませんが(クマネズミは、ブラジルにいたときにブラジル人のメイドを使っていました)、この映画に登場するメイドたちとなら愉快に過ごせそうだなと思わせるものがあり、全体としてまずまずの仕上がりの楽しい作品です。
本作に出演している俳優については、『しあわせの雨傘』でカトリーヌ・ドヌーブの相手役を演じたファブリス・ルキーニくらいしか知りませんが、マリア役を演じるナタリア・ベルベケをはじめとしてなかなか芸達者な俳優ばかりで映画を盛り上げています。
(2)メイドを使う暮らしといえば、先に見た『ヘルプ』を思い出すところ(注7)、そして、本作でもフランス人の奥様族はスペイン人を田舎者と下に見下している感じながら(注8)、むろん『ヘルプ』ほどの激しい人種差別は見られず(注9)、むしろ彼らの間に入って人間性を取り戻すジュベールの姿には、随分と微笑ましいものを感じます。
といって、ジュベールは、証券会社という現代資本主義の最先端の一つを突っ走る企業を営んでいるにもかかわらず、それほど人間性が失なわれた仕事をしているようにも見受けません(注10)。
また、奥方との関係がそれほど冷たくなっているわけでもなさそうにも見えます(注11)。
なんとなく、奥方が誤解した点を解かなかったら家を追い出された感じで、またなんとなく証券業の経営を投げ出して、マリアと一緒の生活をしようという感じになったようにしか見えません(注12)。
そんなぼんやりしたところが、この映画の良さでもあり、また欠点でもあるといえるのではないでしょうか?
(3)渡まち子氏は、「恋愛至上主義のフランスならではの大人のラブストーリー」として60点をつけています。
(注1)冒頭で、主人公のジュベールは、朝起きると、ドゴール大統領(1958年~1969年)の動静を伝えるラジオ放送を聴いています。
(注2)彼女(自分の両親はフランコ派に殺されたと言います)は階級意識が強く、資本家階級の所属するジュベールが6階に移り住むことに反対したりします。
(注3)マリアの話では、生まれた村を16歳で出て、1日15時間労働もしたとのこと。当時のスペインはかなり貧しかったようです。
(注4)奥方は、夫ジュベールとその顧客の未亡人との浮気を強く疑い、彼の方も、なぜかその疑いを積極的に解こうとはしないために(面倒くさくなったのでしょうか)。
(注5)屋根裏部屋に住むことになって、ジュベールは、一人暮らしの自由を満喫します。彼の言によれば、寄宿舎→兵役→結婚と、いつも誰かと一緒の生活ばかりだったとのこと。
(注6)マリアは、8歳になる息子がいる未婚の母なのです。そして、その息子は養子に出して、今どこにいるのか分からないとも。
(注7)『ヘルプ』では、子供の養育を黒人メイドに任せっ切りの様子が描かれていたところ、本作においてもそのようで、寄宿舎から戻ったジュベールの2人の息子は、自分たちを育ててくれたメイドが辞めたことを知ると酷く残念がります(『ヘルプ』でも、主人公のスキーターは、自分を育ててくれたメイドのコンスタンティンを解雇したことについて、母親を非難します)。
(注8)『ヘルプ』でも南部の金持階級の奥様族がトランプをする場面が描かれていましたが、本作でも、パリのブルジョワ階級のマダムたちが、トランプをしながら、「メイドに雇うなら、フランス人は駄目で、文句を言わないスペイン人がいい。スペイン教会が紹介所になっている」などといった情報交換をします。
(注9)メイドは、いくら重い荷物を持っていようとも、エレベータを使えず、最上階まで階段を登って行かなくてはなりませんが(『ヘルプ』でも、メイド用のトイレを別に設けることが問題となります)。
(注10)リーマンショックを経た今日からすれば、たとえどんなアコギなことを当時の証券マンがしていたにしても、児戯に等しいようにしか見えないのかもしれません!
むしろ、本作において、例えばジュベールが、貯めたお金を箱に入れて仕舞っていると言うメイド達に向かって、株式運用の有利なことを説くのは、まさに彼の善意からのアドバイスにしか思えません(マア、彼の会社は、長期運用を専らにしていて、投機的な運用はしていないということですから、比較的安全ではあるのでしょうが)。
(注11)ジュベールと奥方とはセックスレスの関係だったようですが、ジュベールが偶然マリアの裸体を見て発奮してコトに及ぼうとしたところ、奥方の方もまんざらではないように見受けました。
なお、奥方の方こそ、夫はパリジェンヌが好きで、田舎出の自分のことはあまり好みでないのでは、などと言ったりしています。
(注12)マリアとの約束を鵜呑みにして、ジュベールは、証券会社の社長の地位を番頭に譲り渡してしまします。荷物をトランクに詰めて彼はマリアの部屋に向かいますが、彼女はスペインに帰国していてもぬけの殻。というのも、その直前に、彼女の息子がいる場所が分かり、その息子に会いに彼女は帰国してしまうのです。
★★★☆☆
象のロケット:屋根裏部屋のマリアたち
僕には、さすがヨーロッパ映画と特に評価はしないまでも十分満足できた。
ルキーニは相変わらずの役柄、キベルランを見るのは7本目だが、やはり
外国で見たのが大半。それでも10年以上お目にかかっていなかったので、
さすがに老けていた。
この映画で面白かったのは(僕が見過ごしていなければ)重要な2つのことを明確にさせないこと。
1つ目は妻は夫のジャン=ルイがベッティーナと浮気したと邪推し夫は
(すでに心は家庭になかったから)面倒になり認めて家を追い出される。
その“誤解”について以後一切触れられない。
2つ目もやや似ているが臨時のボーイがマリアを誘惑するのを目撃した
ジャン=ルイが嫉妬心から(?)男を仕事途中で追い出し、そのあと
マリアを激しく非難する。マリアにはまったく身に覚えがないことだが
ジャン=ルイは、自分の胸に聞け白々しい、というだけで非難の理由を
説明せず、やはり“誤解”については以後触れられない。
映画の舞台はもちろんパリで撮影も16区だがマリアの登場と退場の2回
出てくる明らかにパリの市バスではない田舎道(?)の場所が不可解。
スペインなら分かるが同僚たちが出迎え見送るからパリに違いないはず。
高級住宅地の16区に行ったことはほとんどないが、(歌舞伎座の天井桟敷
のように)使用人などが利用する専用の入り口と階段がアパルトマンにあるのを初めて知った。
余談1:
あのような(ホテルの)屋根裏部屋には何度も泊まり階段にあるトイレも
懐かしかった。牛乳などを冷やすため窓の外に吊るす場面がやはり2回
出てくるが僕も缶ビールを冷やそうと窓の外に置いて落としてしまったこと
がある。もし通行人に当たっていたら牢屋に繋がれたかも…
余談2:
ゆで時間3分半というのは沸騰して卵を入れてからという意味だろうが試す
と、すごい半熟になった。西洋では卵スタンドに置いてスプーンですくうから
半熟が普通なのだろうが…
余談3:
休みの時、屋根裏部屋の女たちが公園に集まる場面を見ていて香港の日曜日
を連想した。20万人以上いるというフィリピンやインドネシア人のメイドが
集結する壮大な(?)光景が見られる。
映画は1962年と出るが62年のパリの建物は映画と違い真っ黒だった。
マルロー文化大臣の肝いりで建物外壁汚れの清掃が始まったのが63年頃
なので62年なら真っ黒だったはず。
僕が初めて行った74年2月でも一部黒い建物が残っていた。
さらにオイルショックの影響kらメトロ構内の照明も半分でパリは暗かった。
まあ映画なので仕方のない話だが…
いつも感じることだがこの映画でも出版社の協力で“当時”の雑誌が出てくる
が、すでに“黄ばんで”いる。新刊できれいでなければおかしいのだが…
「ヨーロッパ映画が好きな」milouさんが『苦役列車』までご覧になっているのは意外でしたが、本作についてはコメントをいただけるのではと思っていました。
さすがにパリを隅々まで深くご存じだけあって、本作について「十分満足できた」とされながらも、当のヨーロッパ人でさえ気がつかないであろうような様々な点を指摘されておられます!
特に、「62年のパリの建物は映画と違い真っ黒だった」点には目を見張りました。
これからもこうした楽しいコメントをよろしくお願いいたします。
この映画では当然フランス語とスペイン語が話される。
日本語字幕では外国語(この映画ならスペイン語)には<>を付けて“外国語ですよ”ということを示すのが日本語字幕の標準文法です。
しかしこの作品(字幕翻訳は加藤リツ子)では区別せず<>は使われなかった。僕は特に必要のない限り余計な習慣だと思っているのでよかった。
まだまだ外国では吹き替えが多いので製作側が考慮したとは思えないが、マリアは(台詞でもあったように)スペインで勉強してきたから着いてすぐでもフランス語を流暢に話す。そしてジャン=ルイもスペイン語の勉強を始めていたので3年後のスペインで流暢(僕でも分かる道を訊く程度だが)にスペイン語を話すのも違和感はない。
メイド達同士の会話も(長年働いているから)フランス語中心で時々スペイン語が出る程度。
ただし教会は(そんなものがあるか知らないが)スペイン教会という設定で説教もスペイン語だったが確か字幕は出さなかったはず。
一方スペイン人の開けっぴろげなサービス精神はメイド向き。とってもバランスのいい組み合わせですね。
どの国でも、メイドという他人を家の中に入れると大変なようです。でも、本作のような「開けっぴろげなサービス精神」を持った人たちとだったら上手くいきそうですね。
クマネズミがブラジルで雇ったメイドたちも、随分と開けっぴろげで、例えば、我々が旅行中に家を空けると、自分たちの部屋でパーティーでもやったのか、冷蔵庫の中が完全に空っぽになっていました!