駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

脳外脳の存在

2018年09月26日 | 

            

  僅かに購入する本の数が減ってきている。仕事がらみの専門書購入もやや減っているが定期購入の学会誌やジャーナルは殆どそのままだ。歩留まりというか、実際に読む割合の減少が購入の減少を上回っているので、情報輸入過多で情報の洪水に押し流されているというのが実感だ。短絡するトランプのように輸入関税を掛ければ済む問題ではない。なぜなら、情報の圧力があるから、未だいくらか情報処理が出来ていると観測するからだ。格好良く情報輸入を絞り込んだりすると、読む総体量が減るように思う。勿論、全く読まない義理の雑誌は切り捨てた方が良い。いずれ収入も減るので年間5000-8000円の支出は大きい。臨床内科医会は辞めることにした。

 なぜ読む割合が減ったかというと、読む時間が減ったのが一番大きい。特別忙しくなっているわけではなく、仕事量はさして変わらないのだが、脳が疲れてしまい、帰宅してから専門書を読むのが大変になってきたのだ。驚くことに何もしないでぼーっと書斎に並んだ本を眺めている時間が増えた。録画しておいたテレビ番組を見ることもあるが、気が付くとうたた寝をしていることが多い。いつ頃から脳の疲労を自覚するようになったかはっきりしないが、明らかに脳力が落ちてきている。考える力そのものよりも持久力というか快復力が落ちているのだ。

 サッカーでは自分が走るよりも疲れないボールを走らせろとよく言う。書斎で二千冊近い本に囲まれている。置く場所がなくて本の前に本を置いているものだから見えない本も多い。年に一二回ほど発作的に百冊くらい廃棄するのだが中々捨てきれない。数ページしか読んでいない本も多いが、順繰りに眺めてゆくとそこに脳外脳があると感じる。二十年前、引っ越しした時に千冊ほどの本を捨てたのだが、一寸後悔している。物理的に所有は難しかったのだが、大切な脳の一部が失われたような気がしている。

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