目が不自由と耳が不自由、どちらが不自由になっても辛く困ることは多いだろうと想像する。情報は勿論目から入る方が多いし、実際目が見えなくなった方が辛い気はするのだが、診察する側からは耳の不自由の患者さんの方が困る。
コミュニケーションを取るのが大変なのだ。勿論、診察時間が十分例えば三十分あり字が読めて理解できる人なら耳の不自由な患者さんにも紙に字を書いてやりとりできるので満足の行く診察ができると思う。しかし一人五分くらいの診察時間だと、断片的な情報で済まさざるを得ず不全感が残る。
幼少時から耳の不自由な人は手話ができるのだが、私は手話ができない。一時覚えようとしたが手話ができる患者さんは三ヶ月に一人くらいで、使う頻度が少なく根気も続かず直ぐ止めてしまった。高齢で難聴になった人は手話は出来ないし、聞こえていないのに分かったような返事をするし時々大声は聞こえるので大声で話さねなければならないしで中々骨が折れる。
幸い重大な病気はハッキリした所見や訴えがあることが多いので、難聴の患者さんでもそのために大事に至ることは殆どない。しかし、お互いに話が通じたという満足感がもう一つで、大声を出して疲れるし、大歓迎とは言いがたい。補聴器は眼鏡ほどは効果がなく使いこなせなかったり高価で持っていなかったりで難しい。