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駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

どんじゅうの問題 

2011年03月15日 | 旨い物

 どんじゅうと聞けば鈍重かとびくっとされる方が居られるかもしれない。私が話題にしようとしているのは丼汁である。鰻丼天丼カツ丼が三大丼であろうか。何が三大丼かはともかく、汁というかタレがご飯のどの辺りまで染みこんでいるのが、正しいのだろうかと考えている。

 そんなものは好みだ。正しい正しくないの問題ではない。それに丼汁などという紛らわしい言葉を持ち出すなと言われる方も居られるだろうが、技術というか洗練というか、やはり料理にも微妙にして奥深い卓越があると思う。

 山小屋で友人に昼飯をご馳走するのに簡単で美味しく食器が少なくて済む丼物を作ることが多い。大抵「旨い」と評価してもらえるのだが、どうも汁が多すぎるのではないかと秘かに反省している。カツ丼は一ランク下だから、鰻丼と天丼で考えてみよう。カツ丼派にけしからんと言われそうだが、カツ丼は上座には座れない。せいぜい前頭筆頭である。

 横綱大関の鰻丼と天丼と喩えながら、いつまでこの表現が生きているだろうかと相撲が心配になる。それはさておき、誰が何と言っても私見では鰻丼も天丼どちらもタレや汁が丼の下まで浸みているようではメシランの星は付けられない。米飯の味を殺してしまうからだ。白米の味が残っていないと鰻や天麩羅の旨さが半減すると味巧者は思う。

 自らを食通のように言って気恥ずかしいが、生きるためでなく飲食のために生きている?私の感覚である。そしてそれが鰻丼天丼が横綱大関である所以だ。カツ丼や牛丼はやや下品に汁まみれの飯に合う所があって、これでなくっちゃとかき込む御仁も多かろうと推測する。

 私見では蒲焼きや天麩羅などの具の下に汁が僅かに沁みた炊きたてのご飯があり、底には素の白いご飯が控えているのが理想と思う。噛みしめた具と適度な汁が口中で白いご飯と混ざり合う旨さを味わえるのが三役格の丼物と考えている。如何なものだろうか。

コメント (2)
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