駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

合理的のようでも

2009年08月11日 | 小考
 大人は1時間は60分、1日は24時間を当たり前に思っているが、子供は混乱するようだ。自分も混乱しながら憶えたのだろうが、今は当たり前に何でもなく時計を見ている。子供はエーどうしてと思いながら、時計の見方を教えこまれるわけだ。
 孫に何でと聞かれても、昔からそういうことになっているとしか言えず、情けないことにうーんと詰まってしまう(勿論、学者はいろいろな理由を挙げるのだが)。世の中にはそうしたことが多い。しつこく聞かれると横町のご隠居のように、とんでもないこじつけを捻ねり出してしまいそうだ。
「鵜が難儀をして飲み込むから昔はうなんぎと言ったんだが、それが短くなって鰻となった」。「ははあ、なるほど。泥鰌は小振りだから、お隣さんにどうじょですか」。「馬鹿、泥鰌は泥の中で上手に暮らしているから昔はどじょうずと言ったんだが、ずは江戸っ子らしくねえというんで詰まってどじょうになった」。とわけのわからん説明が続いてしまう。
 1週間は7日、1年は365日とこれもなんだか半端だ。1年365日には科学的な根拠があるのだが、週7日の方は神様が決めたようで、なぜといわれても人間には答えかねる。
 ややこしいのは時間だけでなく、ついこの間まで長さや重さにも尺貫法が用いられていた。
 こうした歴史的単位を合理性を誇る?フランス人がメートル原器などを持ち出して十進法に変換することを推し進めた。80を20x4などと言うフランス人がなぜと思うが、自分のことは別なのがフランス流なのだろう。
 私が年を取っているせいだろうか、何でも十進法は楽しくないと感ずる。それにm(メートル)やg(グラム)は、何となく不具合なのだ。計算する時は都合がよいのだが、見当が付けにくい。もう何十年も馴らされているのに見当が付けにくいというのはお仕着せで人間の生活身体感覚と微妙にずれているせいだと思う。
 年寄りの戯言などと言われても、不合理のようでいて実は昔からの単位には深い味わいがあると思う。 
コメント
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