あられの日記

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徳川家茂と和宮のお墓

2009年04月05日 08時51分54秒 | 墓所巡り
徳川将軍達のお墓は東京は上野と芝増上寺と谷中霊園にある。
かつては日光東照宮と同じく壮麗かつ絢爛豪華だったらしい。
でも焼けたのね。
第二次世界大戦の時に東京が空襲をうけ、その時に徳川家の墓もお寺も焼失したのだ。
焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでした。
が、現在はご覧の通り。
上の画像は左が静寛院和宮こと皇女和宮様のもの。
右は徳川14代将軍、徳川家茂公のものです。
二つは上の画像のように仲良く並んでます。
本当は1枚の写真で写したかったのですが、霊廟内は人で一杯で、せめて写真の中に人を写り込まないようにするので精一杯でした。
配布の紙によりますと、
『静寛院宮(和宮)の宝塔は当時のもので、実際家茂公と並んで祀られてました。宝塔はご夫妻同じ物でしたが、家茂のが石塔に対して青銅製であり、明治になってから作られた墓は、将軍の墓に対し、すべての点において荒削り、不揃いであることからこんなところにも時代の変遷を感じることができるでしょう。特徴として菊のご紋章が掘り出されています』とある。
ちなみに、歴史好きなアナタに解説。
14代家茂は11代家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり14代将軍となった。
しかし、世継ぎ問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾の為に公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。
尊王攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第一次長州征伐を指揮し、第二次長州征伐中、大阪城で病没した。
慶長2年(1866)、享年21歳であった。

静寛院和宮は14代将軍家茂の正室。
和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。
和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立したが、婚儀間近になって前述した公武合体策により降嫁。時に15歳。
和宮は家茂死後、落飾して静寛院と称した。
明治10年(1877)、31歳で逝去。
この辺、去年のNHK大河ドラマでやってましたね。

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