「半年前の信州旅行記(その14)善光寺編⑥」のつづきです。
寛延3年(1750年)に完成したという堂々たる山門(三門)をくぐると、
いよいよ善光寺の本堂
本やTV
や七味唐辛子の缶で見知った形ながら、これまたデカい
最近は数少なくなりましたが、銭湯のスタンダードなファサード(「宮型造り」とよぶらしい)を連想
いたします。(下の写真は江戸東京たてもの園にある旧子宝湯
)。
Wikipediaによると、銭湯の宮型造りは、
神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りに合掌組を反曲させた曲線(写真建物の上端部)は、宗教性や権威を誇るディテールであり、また、極楽浄土へいざなう入り口を示すシンボリックな側面を合わせ持っている。そこには一般在来建築とは様式が違うというだけでなく、非日常性という側面も垣間見える。当時の主な銭湯の利用客である市井の人々には「お伊勢参り」や「金毘羅山参り」、「日光東照宮参り」 など日本各地の神社仏閣への「お参り」旅行は参詣本来の目的に加えてイベントであり娯楽であったことも鑑み、人々の平凡な日常にとって宮型造りの銭湯に足を運ぶことはいつかの「お参り」にいざなう魅力的な装置としても機能した。
だとか。
そこまで深読みしますか…
さて、もうもうと紫煙が立ち上る香炉に、私もお線香をお納めして、本堂へ
本堂の内部は当然の様に撮影禁止なので写真
はありませんが、その広さもさることながら、天井が高い
ここで疑問がひとつ。
本堂の外観は、正面も全体も堂々
としたシンメトリーなのに、ご本尊
の一光三尊阿弥陀如来が安置されている瑠璃壇は、左(西)にオフセットしています
どうしてなのでしょうか…
出雲大社が、本殿の入口も、神座も本殿の中心から右(東)にオフセット(かつ神座は本殿の正面ではなく左(西)向き)いていましたが、相通ずるものがあるのでしょうか?
よく判りませんので、先にすすみます
善光寺の名物、いわば体験型アトラクション(失礼)に「お戒壇めぐり」というものがあります。
お戒壇巡りは、御本尊の安置される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、中ほどに懸かる極楽の錠前を探り当てて、秘仏の御本尊と結縁する道場です。右手で腰の高さの壁を伝ってお進みください。
だそうで、私もやってみました。
すると、これが面白い
一方通行の真っ暗闇の廊下を手探りで進むだけなんですが、あれほどの暗闇はそうそう体験できるものではありません
他の人の声と足音がする中、ただ自分の右手
の感触だけを頼りに、そして、必ずここから出られるという確信
のもとで、まったく光のない空間をソロソロと歩く
ことは、いろいろ考えさせられること
があり、素晴らしい体験
でございました。
いや、きれい事を言っているのではなく、私の本心です
無事に「極楽の錠前」を探り当てることもでき、「秘仏の御本尊と結縁」できましたので、よかった、よかった…
善光寺本堂は、入母屋切妻屋根の「妻」側(三角に見える側)が正面(妻入り)です。
またまた登場「出雲大社本殿」は「妻入り」ですが、お寺の場合、「妻入り」は、客殿や庫裏を除けば珍しい気がします。
ところが、善光寺本堂をちょっと斜めから見ますと、
本堂の南側(入口側)と北側(内陣側)とで、棟が直交しています。
説明板から引用しますと、
本尊を祀る仏堂に、参拝者のための礼堂(らいどう)が繋がった特殊な形をしており、棟の形鐘を撞くT字型の道具・撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれます。
だそうで、神社でいえば、本殿と拝殿がくっついた形になっていて、本殿(仏堂)が「平入り」で拝殿(礼堂)が「妻入り」になっていると解釈すればよいのかもしれません。
この善光寺本堂は、
皇極天皇元年(642年)の創建以来十数回の火災に遭っており、現在の建物は宝永4年(1707年)の再建です。間口は約24m、奥行は約54m、高さは約26mあり、江戸中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。
だそうです。
ところで、善光寺の縁起は、
『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇13(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(642年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。
というもので、長ぁ~い歴史を誇っています。
善光寺の寺紋は、「立葵」で、
同じく「立葵」を家紋にしている徳川譜代の本多氏を連想します
「御開山」の本田善光さんと本多氏とは関係があるのだろうか? と調べてみましたが、本田善光さんは飛鳥時代の人であるのに対して、本多氏は、
藤原氏北家兼通流の二条家綱(家満)の後裔と自称した右馬允秀豊が豊後本多郷を領したことから本多氏と称したことから始まるという。南北朝時代に助定の代に足利尊氏に従い、戦功で尾張横根郡と粟飯原郡の地頭となり、室町幕府の奉行衆も兼ねた後に三河に移住したのが定説とする。(Wikipedia)
だそうですから、あまり関係はなさそうです。
ちなみに「家紋」が使われ始めたのは平安時代のようですから、善光寺が「本田(本多)」にあやかって「立葵」を寺紋にしたと考えるのが自然でしょう。
ただ、この説だと、本多氏がを家紋にしたとすると、
右馬允秀豊以来、古くから三河に土着した松平家(徳川家)と同じく賀茂神社を司る賀茂氏の系統である。(Wikipedia)
だそうですから、「神仏習合」状態になってしまいます。
もっとも、明治時代までの日本では「神仏習合」当たり前ですからねぇ
ということで、
家に帰るまでが遠足です
といいますが、私の場合は、
ブログに書くまでが旅行です
って感じでございます。
つづき:2016/01/26 半年前の信州旅行記(その16)善光寺編⑧
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