さて、「お城と温泉の四国旅行記」シリーズに戻りまして、「その4」のつづきです。
お城の中心部と言えば、本丸の天守または御殿と相場が決まっているものですが、高松城の場合、天守台は残っていますが、天守は残っていません。
江戸城(記事はこちら)や二条城(記事はこちら)と同じパターンですな。
でも火事で焼け落ちた後、再建されなかった江戸城や二条城と違って、高松城の場合、
生駒時代の天守から、松平時代の寛文9年(1669年)頃に三層五階に建て替えられ、瀬戸内海にその威容を誇っていましたが明治17年(1884年)老朽化により取り壊された。
だそうな(公式サイトから転記)。
明治時代に入っても残っていたものですから、数は少ないものの、写真も伝えられています。
この天守、ちょっと変わった形をしています。
陳列館に展示されている復元模型がこちら。
一層目が石垣からはみ出しているし、最上層が尻すぼみになっています(唐造:からづくりというものらしい)。
現在、天守の復元を目指して、石垣の積み直しまで進んでいました。
登れるものなら登ってみよう ということで、登りましたよ
「マジソン郡の橋」を彷彿とさせる「鞘橋(さやばし)」を渡って、
天守台に到着
パイプで補強&補助された石段を昇ると、
ちょっと勝手が違います…
現地の説明板によれば、
石垣修理工事に伴い、天守台の発掘調査を実施しました。調査の結果、天守が建てられていた当時の地下1階の基礎構造がほぼ明らかになるという大きな成果をあげました。
天守の地下1階は東西13.6m、南北12.2mの空間の中に、「田」の字状に52個の礎石が並べられ、さらに礎石で区切られた4箇所の区画中央にはそれぞれ掘立柱が建てられていました。礎石には土台の痕跡が残っており、そこから地下1階が当時の寸法で東西六間、南北五間であることが判明しました。この寸法は『小神野筆帖(おがのひっちょう)』という文献に記された内容と合致しており、文献の記載が性格であることが判明しました。
だそうで、その様子はこんな具合でした。
石段を昇るとほぼ真っ平らだった江戸城(下の写真)や二条城の天守台とは、随分違います
かなりマニアックな世界に突入しそうですので、高松城の天守台からの眺めを載せておきましょう。
天守の最上層から眺めたら、瀬戸内海の島々まで見渡せたのでしょうなぁ…
そうそう、以前(こちらの記事)、
調べたところによると、関ヶ原の合戦を境として、壁を漆喰で塗り固めた「白い城」(姫路城、高知城、彦根城、弘前城など)が幅を利かせるようになりますが、それ以前または豊臣系の武将が建てたお城は「黒い城」(熊本城、松江城、広島城、松本城など)が主流なのだとか。
と書きましたが、この高松城の場合はどうだったのでしょうか?
Wikipediaによれば、
創建時の天守は下見板張りの黒い外観であったが、寛文11年(1671年)の松平氏による大改修の際に、白漆喰総塗籠の天守に改築されたと見られている。
だそうで、いかにも…といった感じです。
というわけで、書き尽くせないのではありますが、この日の玉藻公園(高松城趾)探訪記はこの辺にしておきましょう。
つづきのようなもの:2013/10/24 「Back In Love Again」は再点火スイッチか?
旅行記のつづき:2013/10/25 お城と温泉の四国旅行記(その6)