新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

お城と温泉の四国旅行記(その5)

2013-10-23 23:29:52 | 旅行記

さて、「お城と温泉の四国旅行記」シリーズに戻りまして、「その4」のつづきです。

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お城中心部と言えば、本丸の天守または御殿と相場が決まっているものですが、高松城の場合、天守台は残っていますが、天守は残っていません。
江戸城(記事はこちら)や二条城(記事はこちら)と同じパターンですな。
でも火事で焼け落ちた後、再建されなかった江戸城二条城と違って、高松城の場合、

生駒時代の天守から、松平時代の寛文9年(1669年)頃に三層五階に建て替えられ、瀬戸内海にその威容を誇っていましたが明治17年(1884年)老朽化により取り壊された

だそうな(公式サイトから転記)。
明治時代に入っても残っていたものですから、数は少ないものの、写真も伝えられています。

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この天守ちょっと変わった形をしています。

陳列館に展示されている復元模型がこちら

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一層目が石垣からはみ出しているし、最上層が尻すぼみになっています(唐造:からづくりというものらしい)。
現在、天守の復元を目指して、石垣の積み直しまで進んでいました。

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登れるものなら登ってみよう ということで、登りましたよ
「マジソン郡の橋」を彷彿とさせる「鞘橋(さやばし)」を渡って、

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天守台に到着
パイプで補強&補助された石段を昇ると、

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ちょっと勝手が違います…
現地の説明板によれば、

石垣修理工事に伴い、天守台の発掘調査を実施しました。調査の結果、天守が建てられていた当時の地下1階の基礎構造がほぼ明らかになるという大きな成果をあげました。
天守の地下1階は東西13.6m、南北12.2mの空間の中に、「田」の字状に52個の礎石が並べられ、さらに礎石で区切られた4箇所の区画中央にはそれぞれ掘立柱が建てられていました。礎石には土台の痕跡が残っており、そこから地下1階が当時の寸法で東西六間、南北五間であることが判明しました。この寸法は『小神野筆帖(おがのひっちょう)』という文献に記された内容と合致しており、文献の記載が性格であることが判明しました。

だそうで、その様子はこんな具合でした。

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石段を昇るとほぼ真っ平らだった江戸城(下の写真)や二条城の天守台とは、随分違います

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かなりマニアックな世界に突入しそうですので、高松城の天守台からの眺めを載せておきましょう。

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天守の最上層から眺めたら、瀬戸内海の島々まで見渡せたのでしょうなぁ…

   

そうそう、以前(こちらの記事)、

調べたところによると、関ヶ原の合戦を境として、壁を漆喰で塗り固めた「白い城」(姫路城、高知城、彦根城、弘前城など)が幅を利かせるようになりますが、それ以前または豊臣系の武将が建てたお城は「黒い城」(熊本城、松江城、広島城、松本城など)が主流なのだとか。

と書きましたが、この高松城の場合はどうだったのでしょうか?
Wikipediaによれば、

創建時の天守は下見板張りの黒い外観であったが、寛文11年(1671年)の松平氏による大改修の際に、白漆喰総塗籠の天守に改築されたと見られている。

だそうで、いかにも…といった感じです。

というわけで、書き尽くせないのではありますが、この日の玉藻公園(高松城趾)探訪記はこの辺にしておきましょう。

つづきのようなもの:2013/10/24 「Back In Love Again」は再点火スイッチか? 

旅行記のつづき:2013/10/25 お城と温泉の四国旅行記(その6)

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