原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

高齢域に達したあなた、自分が目指した理想の人間像に近づけていますか?

2021年03月31日 | 自己実現
 表題は、昨日のテレビ対談番組の最終場面に於いて、司会の黒柳徹子氏がゲストの美輪明宏に投げかけた問いである。


 私は当該番組を日々視聴している訳ではないが。
 NHK午後1時のニュースが終了した後チャンネルを変えてみて、ゲストや話題が面白く対談内容に惹き付けられるとそのまま最後まで見る習慣がある。

 司会の黒柳氏(87歳)は外見こそ年齢を重ねたが、そのご年齢にしての変わらぬ流暢な司会ぶりや、ゲストに対する配慮・気遣いの姿勢、そして何より耳がよく聞こえておられる事実に感嘆申し上げる。

 昨日のゲストの三輪氏(85歳)に関しては、私的には近年朝日新聞“悩みのるつぼ”回答者として接することが多い。 歯に衣着せぬ(最近はそうでもなく多少軟弱になっておられるようでもあるが。)ズバッと繰り出す辛口回答が我がお気に入りでもある。
 テレビ映像で拝見するのは久々だったが、黒柳氏同様にそのご年齢にして会話の反応が素早く、しかも端的に談話を繰り広げるそのパワーに脱帽の思いだった。 そしてこれまた黒柳氏同様、耳が良く聞こえておられること!


 参考だが、原左都子がご両人の“耳の聞こえの良さ”に心より羨望するのには私なりの切羽詰まった事情がある。 私が保証人を努めている義母(89歳)の老化による難聴に、もう何年も前より日々辟易とさせられているが故だ。
 本日午前中にも明日の耳鼻科付添いに関して、義母より電話があったのだが。 義母とは電話では会話が一切成立しない故に、介護施設事務所を通してその件を連絡済みなのに、どうしても自身が電話で確認したい様子で必ず電話を寄越して来る。 こちらが何を応えても、“聞こえない!”と叫び返してくる始末… それが分かっていてどうして電話を寄越したがるのか、本日も義母の電話の後胃痛が起こってしまい、今尚痛む… )


 黒柳氏と三輪氏の耳の聞こえの良さと、我が義母の高齢期に入って比較的早期からの耳の聞こえの悪さの差異に関しては、ずっと前より分析済みだ。

 要するに、元々の能力や経験値の差が一番の理由であろう。
 加えて、黒柳氏・三輪氏ご両人は80代後半に至る今尚売れっ子タレントとして現役ご活躍中であられる事実こそが、耳の聞こえの良さを維持する一番の秘訣でもあるのだろう。

 そういう事実に義母がもっと早くに気づき、自身の日々の精進により日頃の会話を充実させる等の方策で耳を鍛えてよかったものを、その努力を一切怠ってしまった結果が義母の現状であると分析する。 

 そんな義母の保証人を既に9年程努めている私としては、高齢域に達した今からこそがその努力の正念場なのであろうと自覚している。 

 義母の老齢難聴の話題が長引いたが。


 昨日の黒柳氏・三輪氏ご両人の対談の最後に、黒柳氏が三輪氏に投げかけたテーマが。
 表題の、「高齢域に達したあなたは、自分が目指した理想の人間像に近づけているか?」だった。

 その細かい部分の三輪氏回答を、正確には記憶していないのだが。
 30分間に渡るご両人の談話を聞かせて頂いた私が思うに、回答は「yes」に決まっているものと判断する。 そして、司会者側の黒柳氏も同様だったことであろう。


 
 私見に入ろう。

 まさに人間とは、(黒柳氏や三輪氏程の80代後半期に達した暁に)「自分が目指した理想の人間像に近づけているか?」とのテーマに回答するべくノルマを背負いつつ、この世に生き永らえているように私も感じる。

 その感覚を私の場合ラッキーにも既に20代後半期に自己のテーマとして掲げることが叶ったのではないか、とも自己分析する。
 当時まさに、私は自身の人生の大転換期を自分の意思で迎える決断を下した。
 (その前に20代前半期にて過疎地郷里より単身上京するとの選択・決意をしたのは、今思えばその“前哨戦”だったようにも振り返るが。)

 当時の詳細に関しては当該「原左都子エッセイ集」にて再三再四綴り公開している故に、ここでの重複は避けるが。

 
 何故私が若くして人生大転換とも言えそうな決意と実践を試み続けたのか??

 これぞ昨日の黒柳徹子氏発言である、「高齢域に達して自分が目指した理想の人間像に近づき」たかった故に他ならないと、現在結論付けることが出来そうだ。

 そういう私は未だ、高齢域の入口に入ったばかりの若輩者に過ぎない。

 今後の我が歩みこそが肝心な事など重々分かっているよ!
 と、あくまでも“若気の至り”で言いたいものだが…

 考えが甘いと、真の高齢者の皆様から叱られそうだ…😵 
 

再掲載 「忘れ去られる勇気を持とう」

2021年03月30日 | 人間関係
 冒頭から、2008.07.10公開の表題バックナンバーを再掲載しよう。



 2008.7月6日(日)朝日新聞朝刊のコラムで「忘れ去られる恐怖」と題する朝日新聞編集委員による記事を見つけた。
 興味深いコラム記事であると同時に、本ブログの前回の記事「正しい携帯電話の持たせ方」の内容にも通じるエッセイであるため、前回の続編の意味合いも兼ねて今回の記事で取り上げることにする。

 それでは早速、上記コラム記事「忘れ去られる恐怖」を以下に要約しよう。

 “死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です”こんな堀口大学訳の「月下の一群」に収められた画家マリー・ローランサンの詩「鎮静剤」の一節が頭から離れない。 あの秋葉原の悲惨な事件の容疑者が、現実にもネット上でさえも孤独であったと述べている。 近年、この“忘れ去られる恐怖”が静かに広がりつつあるように感じる。携帯電話への過剰な寄りかかり、ネット上で過熱する自己主張…。
 浅羽道明氏著「昭和三十年代主義」という本がある。昭和30年代が多くの人がノスタルジックに讃えるほど明るくて前向きでいい時代だとは思ってはいないが、なぜこの時代がブームになったのかと言うと、この時代は、不便だから仕方なく成立していた、人が誰かのために体を動かして働いていることが目に見える「協働体」のような関係の広がり、いわば、お互いの存在が“忘れられない”世界であったためという。
 便利さや豊かさとは、そんな人の働きを機械や見知らぬ人々のサービスに置き換えていくことだった。そして、働く人々は効率化のため機械の一部品のように使い捨てられていく。誰のために、何の役に立つのかわからない働き…。(自分の存在が)忘れ去られたと思い込む人々が増える世間なんて、あまりろくなものでもない。
 以上が、朝日新聞コラム記事「忘れ去られる恐怖」の要約である。
 
 本エッセイ集前回の記事「正しい携帯電話の持たせ方」には多くの反響コメントをいただいた。 そのコメント欄で、奇しくも上記コラムと同様の議論を読者の方々と展開させていただいている。

 昔、電話さえもなかった時代は、人と人とのかかわりのすべてが“生身”の人間同士のかかわりであった。科学技術の発展と共に文明の利器が次々と登場するにつれて、“生身”の人との間に距離感が生じてくる。今や、パソコン、携帯を経由したネット上での人とのかかわりが日常茶飯事に展開される時代と化している。この現象は人間関係の希薄化に追い討ちをかけ、希薄化を決定的なものとしている。そして、子どもまでもが人とのかかわりを携帯等を通じたネット社会に依存する時代となってしまった。

 “出会い系”というサイトが存在する。なぜネットを通さなければ人と出会えないのか、私には理解し難い世界である。普段の普通の生活の中で生身の相手に出会い、かかわれば済むはずなのに…。もちろん、ネット社会には普段出会えるはずもない遠方の相手等とも瞬時にして出会える等のメリットもあることは認める。 だがその背景には、生身の人間同士のコミュニケーションの希薄化という病理が現代社会に蔓延りつつあることは否めない。それでも人間とは本能的に自分の存在を“忘れ去られ”たくない生き物なのだ。誰でもいいから手っ取り早く出会える相手をネット上で見つけてでも、自分の存在を認めて欲しいのであろう。 
 メール交換も同様だ。大した用件もないのにむやみやたらとメールを送り、相手に強迫観念を抱かせる程の返信を要求するのも“寂しさ”のなせる業、すなわちやはり“忘れ去られ”たくない心理を物語る行為である。

 ネット上でさえも孤独であったと言う秋葉原事件の容疑者。だがそもそも、ネットというバーチャル世界で真の人間同士のコミュニケーションがとれていつまでも“忘れ去られない”関係が築けるのがどうか、それ自体が疑わしい。
 加えて、どのような人間関係であれいつかは終焉が訪れるものでもある。自分の存在を“忘れ去られ”てしまう恐怖に怯えネット社会をさまようことよりも、忘れ去られる勇気を持って現実社会で人とかかわり人の温もりを感じていたいものである。



20 Comments


依存症 (カズ)2008-07-10 16:26:24
ネット依存症の人は忘れられる勇気を持たぬ人ということなのですね。タイムリーなテーマですね。


カズさん、大人のネット依存症の人は確かに… (原左都子)2008-07-10 16:48:48    今回のカズさんのコメントは私にとっては少し重いです。と言いますのが、私自身がネット依存症どころか、ネット世界をほとんど知らない立場にもかかわらず今回の記事を書いたためです。
少なくともまだ未熟な子どもがネット世界にどっぷり漬かってしまうことは懸念しますが、大人にとってはどうなのでしょうか。もちろん、大人の年齢や人それぞれのバックグラウンドにもよるのでしょうが…。


これも現代病? (凛)2008-07-10 18:23:04
20年前高校生でしたが今とは全然違いますよね
若い頃は携帯なんてなかったから、好きな人に電話するのにも親が出るかもしれない自宅の固定電話にかけるしかなかったし、メールは手紙だったし…
忘れ去られる恐怖って、やっぱり怖いけど
依存しすぎてる現実社会ももっと怖いな…
出会い系や異常なまでのメール交換は私も理解不能です


ネット依存か? (カズ)2008-07-10 18:39:24
秋葉事件の容疑者で注目されるネット掲示板の機能は、ネットを象徴するものと扱われるようですが、その全てとは言えないと考えます。また、仮想現実の世界と現実の世界とは無関係に存在するものとは言えない以上、ネット世界を理解するには現実世界と仮想現実との往復が必要であると思います。この容疑者に限らず、自分が無視されたと考えるかどうかの理由づけをネットにのみ見出すことには賛成しかねます。すいません、まとまりのないことを、また書いてしまって。


凛さん、共通点がありますね。 (原左都子)2008-07-10 19:12:24
私は凛さんよりずっと前の時代から生きていますが、昔はまさに凛さんがコメントに書いて下さったような世界でした。
電話は家族で共有でしたので、こちらからかけるにしてもあちらからかかってくるにしても、家族経由でしたね。そういう周囲の目が届いている事がフィルターになっていましたね。だからこそ、安心して人との関係が築けたようにも思います。
凛さんが出会い系サイトや過剰なメールに理解不能だということを聞かせていただいて、何だかとてもホッとしている私です。


カズさん、貴重な情報をありがとうございます。 (原左都子)2008-07-10 19:35:04
私自身はネット社会の経験が乏しいのですが、今回のカズさんのコメントを拝見して、やはりネット社会とかかわる人間次第でその世界はどんな風にも解釈、展開できるのだと感じることはできます。
推測のみで勝手で失礼なことを申し上げますが、おそらくカズさんはすっかり大人でいらっしゃるので、現実社会もネット社会もオールマイティに渡っていらっしゃるのだと感じます。
秋葉原の容疑者の場合、事情が大きく異なったのかもしれません。彼の身近に誰かひとりでも彼の存在を“忘れ去らずに”いることを伝えられたならば、結果は違ったのかもしれないですね。


出会いと別れが人生そのもの (こまねちちゃん)2008-07-10 21:38:51
原さん、こんばんは。
リアルな人付き合いには、たいてい別れが訪れますよね。
リアルな付き合いしか経験していない私のような人間には、匿名性の高いネットでの出会いと別れは、無責任で淡白なものに感じられます。
リアルでの学生時代からの友人とは、今でも親交を深めていますが、これは個人情報どころか、お互い生身の自分をさらけ出して付き合ってきた結果だと思っています。
仰るように、ネット上で無視されたり中傷されて犯罪を犯すようになる人たちは、現実世界における出会いと別れの経験に乏しく、友人から忘れられてもへこたれずに新たな出会いを探す勇気が無いのかもしれませんね。
大人でも中毒になりやすいネットですが、子供の頃はスキンシップが人格形成上大切ですから、ネットに長時間費やすのは問題です。
やはり、現実社会での人との出会いを大切にすることから、別れも含めて全ては始まるような気がします。


Unknown (環)2008-07-10 22:12:17
リアルとネット、私は、結局どちらもその人自身でしか存在できないのではないかと思っています。
リアルで人との関わりから逃げていると、ネット上は、逃げやすいという点ではとても住みやすいでしょう。反面、きちんと人と向き合える人には出会いの場が広がるというメリットもありますね。
ネットの存在そのものは、○でも×でもない気がします。
話が少しずれましたが……。
「忘れ去られる恐怖」は、自分も相手のことを都合よく忘れよう(逃げよう)としていることからくるのかも知れない、そんなことを考えます。


こまねちちゃん、生身の人間は暖かい… (原)2008-07-10 22:16:02
こまねちちゃん、ありがとうございます。
私もまったく同意見です。
私も今、こうやってネット上でブログを綴っていますが、できれば生身の人と会って語り合いたいのが本音です。今自分が置かれている立場上、独身時代のようには自由に羽ばたけませんのでこういう手段をとっていますが、ペンを置いて無性にリアルで語り合いたい思いによく駆られます。
相手が生身ですと、予想だにしないような事態にも直面します。突然ぶつかり合ったり喧嘩したり…。でも、そういう経験が人間を育てると私も思います。
その究極が“別れ”です。この“別れ”だって人間を大きく育ててくれます。とことんすったもんだして付き合った結果の別れは、必ず次のステップにつながります。
人間って本当に愛おしい存在ですよね。
若い世代の人達にこそ、そんな生身の人間とぶつかり合ってすったもんだして付き合って欲しいと思います。
上の返答コメントは原左都子が書きました。
 

わかってください (こまねちちゃん)2008-07-10 23:09:23
因幡晃さんのヒット曲です。
なぜか浮かんできました(^^)
では、また。


人に忘れられても (ドラ猫)2008-07-11 01:06:31
自分が忘れなければ、それで済む事だけなのですが。


環さん、自分自身での存在でありたいと思います。 (原左都子)2008-07-11 07:46:53
環さん、私どものブログによくお越し下さいました。コメントをありがとうございます。
環さんのコメントを拝見し思ったのですが、私はもしかしたら欲張りな人間かもしれません。
私の場合、ネットの利用はこのブログだけなのですが(メールは用件の連絡にしか使用していませんので)、ブログに核心に触れたコメントを頂きますと、その方に是非お会いしたくなります。ネットの世界を脱出して直接相対してお話(議論)させていただきたくなります。文字による意見交換のみではなく、その方の人となりを知りたくなります。現実的にはそうやすやすとお会いできませんので、ネット上でのお付き合いの範囲は超えられないのですが。
環さんのおっしゃる、リアルであれネットであれその人でしか存在できない、その通りなのだと感じます。
それでも、やはり私にとりましてはネットは少々物足りない世界です。文字だけではなく、生身の姿形のある“人”に相対したいです。
また、是非お立ち寄り下さいますように。


ドラ猫さん、子ども達には忘れていない事を伝えてあげたいです。 (原左都子)2008-07-11 07:57:55
私も既に年寄りですので、“忘れ去られる”ということ事態にはさほど敏感ではありません。
むしろ、年配者の果たす役割は、未成年者等のまだ未熟な存在の子ども達に“忘れていない”すなわち、その存在を認めていることを伝えることだと思います。
今の時代、大人自体がネット社会をさまよいその余裕を忘れてしまっているような懸念もあります。


Unknown (ろぷ)2008-07-11 12:37:53 
 なんていうか。
 語るだけの自分の中身がないくせに、ただ単に「語りたい」と思う人間がとても多いような気がします。
 自分のなかに主張したい確乎としたものをもっていないくせに、ただ単に主張するという行為のみをほしがっている。話題の事件の犯人を見ていると、僕はそんなふうに思えるんです。
 そこに内容がなければ、どんな言語やツールで叫んでみても、だれの心も打たないし交流なんて起こりようがありません。そして、興味を抱かせる内容というのは、「コレを書いたらどう思うかな? じゃあこうしてみよう」という想像力から生まれるものなんですよね。
 相手のことをきちんと想像できるひとは、まわりから忘れ去られるということはありません。それは会話ができるから。
 ホント、よく言われることですが、
 ここでも想像力の欠如が一因にありそうですね。
 小学校から英語教育うんぬんいわれていますが、まず想像力をどうにか教えないと、こういう事件は続きそうですよね。


ろぷさん、それでも自分の思いを言葉にして語ることは大切です。 (原左都子)2008-07-11 13:19:44
ろぷさん、私どものブログによくお越し下さいました。初コメントありがとうございます。
ろぷさんの素直な気持ちをこのブログにぶつけて下さってうれしく思います。
確かに私も含めて語りたいことは沢山あるけれど、拙い言葉でしか伝えられない人達も多いかと思います。
それでも、人間は自分の思いを言葉にして人に伝えていく事はとても大切な事だと思います。
秋葉原事件の容疑者も誰かを相手にそういう行動が少しでもできたならば、このような残虐な犯罪を犯すには至らなかったのかもしれません。
確かにブログは公開性が使命ですので、ろぷさんがおっしゃるように、ブログを公開している皆さんは大なり小なり自己主張がしたくて開設しているのでしょうね。
私は皆さんが書かれているブログをよく訪問させていただくのですが、その趣旨や文章力にかかわりなく、訴える力のあるブログをしばしば発見し、感動を頂いております。
そして、記事にコメントを頂いてさらに意見交換(会話)をしていけるブログという世界を、私は肯定的に捉えて楽しんでおります。
記事本文で書きました様に、本当は姿形のある生身の相手の温もりを感じながら語り合うのがもっと好きなんですけどね。
ろぷさん、よろしければまたお越し下さいね。


コンテンツとイマージネーション (ガイア)2008-07-11 20:13:14
原さんのこのエッセイに多くの方がコメントを寄せられています。顔も見知らぬ方々同士ですが、そこにはコミュニケーションが成立していると考えます。
生身の人間同士のコミュニケーションが望ましいのですが、コミュニケーションを成立させる為に必要なのはそのコンテンツ、内容の濃さ、それにイマージネーションだと考えます。
遅ればせながら、私もコメントを投稿させていただきます。
朝日新聞コラムの「忘れ去られる恐怖」の要約を読みますと、この内容は、私が前回のコメントで指摘した「機能の外在化」と「共同体の崩壊」(コミュ二ティの崩壊)と重なる部分が多いのではないかと思います。ここでは「協働体」という言葉が使われていますが・・・。
さてコミュニケーションですが、これを成立させるには当然、情報の送り手と受け手が要ります。ネット上での真の人間同士コミュ二ケーションは築けるか否か、これに関しては様々な論議があろうかと思いますが、要はコンテンツとイマージネーションの問題であり、私は可能だと考えます。
生身の人間同士のコミュニケーションが望ましいでしょう。しかし、例えば、コミュニケーションを拡大解釈すれば、私たちは文学作品を通してその作家とコミュニケーションをする事が出来ます。残された偉大な芸術作品を通して過去の芸術家とコミュニケーションする事も出来ます。遺された遺物・遺構を通して死者とコミュニケーションをする事も出来ます。更には異文化を理解する事で、異なった文化を持つ人々とのコミュニケーションも可能であり、ここに異文化コミュニケーションが成立します。拡大解釈すれば、異種間コミュニケーションも可能でしょう。コミュニケーションに可能性と限界があるものの、それらの根源にあるものは、究極的には人間のイマージネーション、つまり想像力です。これが一番大切だと思うのです。人間の人間たる所以だと考えます。
私のコメントが原さんのこのエッセイへのコメントとして整合性があるか否か、一寸自信がありませんが思いつくままに記しました。


ガイアさん、コミュニティの出発点は家庭であり、親子の絆かと考えます。 (原左都子)2008-07-12 08:16:04
当ブログの最新の3記事が不思議と関連しています。
昭和30年代頃の話題が出て、ガイアさんからも既に数本のコメントをいただいております。
コミュニケーションにも多様性があるのでしょうね。ガイアさんがおっしゃるように、様々な対象と様々な手段によりコミュニケーションをとることが可能です。
一応本記事では人間同士のコミュニケーションについて、特にリアル世界とバーチャル世界でのその違いについて取り上げました。
これに範囲を絞りますと、記事に書きました通り、リアル世界のコミュニケーションこそ大切にしたいというのがあくまでも私見です。
この思いは私にとりましてはやはり根強いのです。私のネット経験はブログのみなのですが、これはこれで有意義です。ただ、これ以上の(あくまで自己の範囲内の)発展性は望めないのかという不安定感とでもいうべき観念が常に脳裏によぎっています。
ブログはひとつの趣味、書き続ける事が第一義である、と位置づけて割り切ればよいのでしょう…。
で、リアル世界でのコミュニティですが、その出発点は家庭であり、親子関係だと私は考えます。子どもは親から生を受け人として成長していく訳ですが、その過程で人としての存在を親から家族からどれ程認めてもらえるかが、その後の人間関係の鍵になると思います。
親の立場としては、子どもの存在を認めていくこと、そのような環境作りをしていくことが使命でしょう。その親自体が子どもの前で不安定な(あるいは安定を演じられず地で生きてしまう)存在であるのが今の時代の病理の根源かもしれません。
長くなるので、この辺にします。

 (以上、本エッセイ集2008.07公開バックナンバーとコメント欄を再掲載したもの。)



 2021.03時点の私見に入ろう。

 上記バックナンバーを公開して後、13年程の年月が流れている。

 本文中に、私は次の記載をしている。
 「私も既に年寄りですので、“忘れ去られる”ということ事態にはさほど敏感ではありません。」

 これを記した当時の私は、50代前半期だった。
 娘がまだ中学生の頃だ。 
 現在に比すとまだまだリアルの人間関係が息づいていた時代だ。 腹心の友もいたし、50過ぎて着手した仕事関係や娘を通しての人付き合いも好む好まざるにかかわらず日々こなしていた。
 その頃から私は、“忘れ去られる”という事態にさほど敏感では無かったのだと、今更ながら気づかされる。 

 あの頃から13年が経過した今となっては、まさに“忘れ去られてばかり”の我が人生… と言って過言でなかろう。😪 

 冒頭引用文中にある、「“死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です”こんな堀口大学訳の『月下の一群』に収められた画家マリー・ローランサンの詩『鎮静剤』の一節…」。
 そのような感傷に浸れるハートを温存しておきたいものだと、多少の空虚感を持って思いつつ… 

 人間関係を切り捨て、また切り捨ててるのも、「終活」の一つなのだろうとの結論に至りそうだ。
 (なんてキザぶってみたって、実は未だに“夢見る少女”のごとくのハートも我が心に健在しているなあ…)😍 😋 


森喜朗氏の“女性差別暴言”問題

2021年03月29日 | 時事論評
 冒頭から森喜朗氏が近い過去に発した“暴言”に関するネット情報を引用しよう。


 日本人としてこれほどまでに「恥ずかしい」ことがあるでしょうか――。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の相次ぐ「暴言」が、海外でも波紋を広げています。
   東京五輪の開催をめぐり世界の注目が集まるなか、「(五輪中止や再延期を求める)『世論』が問題だ」「女性が会議に入ると時間がかかる」と、信じられないような発言を連発する森会長。「本当は五輪を中止にしたいのか?」と勘ぐりたくなるほどの「ドン引き」発言は海外でも大きく報じられています。
   メディアのリプライ欄には、「stupid(アホ)」「五輪は中止だ」といった声がズラリ!今回は、森会長発言に対する「海外の生の声」を追ってみました。

 「失言癖で有名な83歳」では終わらない「女性差別発言」の重さ
   それにしても、どうしてここまで「空気が読めない」人なのでしょうか? 発言が注目されているとわかっていながら、公式の場で次々と「時代遅れの持論」を展開する森会長。東京五輪組織のトップとしての発言は、「老害だ!」と苦笑する域を超えています。
   まずは、森会長の「女性が入る会議は長くなる」発言をめぐる海外メディアの厳しい見出しをご覧ください。

 (東京五輪のトップ森会長が、会議で女性差別発言をした:ロイター)
 
 Tokyo Olympics chief sparks sexism row after 'annoying' women remark
(東京五輪のトップが、女性は「迷惑だ」発言で女性差別騒動を引き起こしている:米FOXニュース)
 
 spark a row:騒ぎを引き起こす
   注目すべきは、多くのメディアが森会長の発言を「sexist」(女性差別主義者、女性差別主義)と断定していることです。「女性差別と受け止められかねない」など、玉虫色の表現をしてくれる日本の一部メディアのように「優しく」はありません。
   とりわけ、「いかなる差別をも受けることなく」と定めた五輪憲章にも反する内容ですから、どう転んでも容認される余地はないでしょう。

   仏AFP通信は森会長のことを「83-year-old former prime minister known for public gaffes」(失言癖で有名な83歳の前首相)と伝えていますが、今回の発言は「個人的な失言」では済まされません。

   米ワシントン・ポスト紙は、森会長の発言を受けて「他の委員たちから笑いが起こったとも伝えられている」と、女性蔑視的な見方が組織内で受け入れられていると暗に示しています。
   さらに、海外メディアが強調しているのは、「東京2020側にコメントを求めたが返答がない」「東京2020側はコメントを出していない」と、組織委員会や運営側が「沈黙」を貫いている点です。
   このままでは、森会長の個人的な見解ではなく、組織として容認していると捉えられてもしかたありません。東京五輪開催への「世論」はますます厳しくなることでしょう。

 (以上、森喜朗氏による“女性差別発言”に関する世界からの非難の数々をネットより列挙したもの。)



 原左都子の私論に入ろう。

 確かに森喜朗氏との人物は、一国家の首相経験者にしていつまでも“女性蔑視思想が甚だしい愚かな人物”である事には間違いないであろう。

 ただ、原左都子として感じるのは。
 森喜朗氏とはその愚かさ故に既に政財界はもちろんのこと、世間一般的にもこの世から既に“排除”された人物ではなかろうか?

 そんな輩をいつまでも取り上げて騒ぐメディアにこそに問題があるようにも感じる。 とっととメディアこそが、こんな奴を世から撲滅すれば済む話かと私など思うのだが。
 それは、森喜朗氏が未だ世に影響力を及ぼしている余韻があるとメディアが捉えている故だろう。

 繰り返すがまさにこんな奴、メディア界から追放すればすぐさま世間から忘れ去られて済む事と。
 過去に於いて「女」であったが故で(各種産業界より)何らの性差差別を経験していない、と未だかつて自負している原左都子は思うのだが…
 

ブラボー! ネイサン・チェン!! 世界選手権3連覇 in Stockholm

2021年03月28日 | 芸術
 (冒頭写真は、我がスマホより転載したフィギュアスケート世界選手権ストックホルム大会 男子フィギュアフリー、ネイサン・チェン選手の演技。)


 引き続き、先程我がスマホに転載したネイサン・チェン選手による昨夜のフリー演技写真を列挙しよう。
 
            

            

            

            

            

            

            

            
  
            
            

            

            

            



 原左都子が、米国代表ネイサン・チェン選手のファンである事は知る人ぞ知ろう。


 本エッセイ集2019.03.24付バックナンバー「ブラボー! ネイサン・チェン!!」にそれに関して記載しているため、以下に一部を振り返らせていただこう。


 私は、伊藤みどり氏が3回転半ジャンプを五輪にて女子としては初めて成功させた時期以前よりフィギュアスケートファンだ。
 あれ以来、大抵の大規模フィギュアスケート大会をテレビ放映にて観賞して来ている。

 今回のエッセイを「芸術」カテゴリーに位置付けたのは、特に昨今は私にとってフィギュアスケートとは「芸術」的色彩が強いと解釈している故だ。
 (中略)

 さて、世界選手権男子フリーに話題を移そう。
 実は私は、米国ネイサン・チェン選手がフィギュアスケーターとしてデビューした頃よりのファンである。

 以下に、ウィキペディアよりネイサン・チェン氏に関する情報の一部を引用紹介しよう。
 ネイサン・チェン(英語: Nathan Chen、中国語: 陳巍、1999年5月5日 - )は、アメリカ合衆国出身の男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。  2018年-2019年世界選手権二連覇。2017年-2018年グランプリファイナル二連覇。2017年四大陸フィギュアスケート選手権優勝。2017年-2019年全米選手権三連覇。2015年ジュニアグランプリファイナル優勝。 FSにおいて、ISU公式大会及びオリンピックで史上初となる6本の4回転ジャンプに成功した。  (途中大幅略。)
 1988年、父が中国から留学生として渡米して科学の博士号を取得。母は医療系の通訳で中国北京出身。
 3歳でスケートを始め、バレエや体操、ピアノといった習い事も行っていた。 特に10代半ばまで続けていた体操の経験から来る空間認識能力、体幹、力の使い方は、軸のぶれない回転を生み出し、ジャンプやスピンに大いに役立っているという。 (ジュニア期に関しては省略。)
 2016-2017シーズン。 スケートカナダで4位入賞。 全米選手権ではSP、FSともに1位で優勝。 NHK杯では銀メダルを獲得し、シニア1年目でグランプリファイナルの出場が決定。 グランプリファイナルでは、SPで2本入れた4回転ジャンプにミスが出てしまい5位となったが、FSで4本入れた3種類の4回転ジャンプを含むすべてのジャンプを成功させ1位となり、総合2位で銀メダルを獲得した。 四大陸選手権では、SPでISU公式大会史上3人目となる100点超えを果たし、FSでは5本の4回転ジャンプ全てを成功させて優勝。
世界選手権ではFSで4回転ジャンプ6本という構成に挑むも転倒などのミスにより表彰台を逃した。
 2017-2018シーズンでは。 USインターナショナルクラシックでSP、FSともに1位で優勝。FSでは自身初となる4回転ループを成功させる。 ロステレコム杯ではSPで1位発進、FSでは羽生結弦に次ぐ2位になるが、SPの点差で逃げ切り優勝。 続くスケートアメリカでも優勝。今季GPシリーズは2連勝でグランプリファイナルも初制覇。 更に全米選手権では2位に40点以上の大差を付けて優勝し、連覇を果たす。
ュイナードが共同制作した作品。 GPシリーズ第1戦スケートアメリカは合計280.57点で、2位に40点以上の差をつける圧勝。「演技の完成度を高めてほしい」というルール改正の意図をしっかりと読み取って、SPの構成は4回転ジャンプはフリップの1本のみ。フリーでも、3本跳んだ4回転ジャンプを含むいずれの要素もプラスが付く出来栄えで悠々と制した。
 (以下略すが、以上ネイサン・チェンに関するウィキペディア情報より一部を引用したもの。)

 私が、ネイサン・チェン選手を初めて見た時に感じたのは。
 この人、クラシックバレエの基礎が十分に出来ている!、との印象だった。
 (我が娘にも幼少の頃より中2の終わりまでその鍛錬を積ませ、今でも娘共々クラシックバレエ観賞趣味があるからこその感想だが。)
 それもそのはず上記ウィキペディア情報を読むに、やはり幼少期よりバレエ・体操そしてピアノの鍛錬を積んでいるとの経歴がある。
 他の選手と一線を画しているように我が目に映るのは、やはり幼少期よりのこの分野経験有無の差異故ではなかろうか?

 2019年の世界選手権でのネイサン・チェン選手は、ショート・フリー演技共に実に芸術的で素晴らしかった。
 チェン選手の場合、それに加えて4回転ジャンプの精巧さも大いなる加点要素であるのは私が言うまでもない。

 上記朝日新聞記事によると。
 今回のチェン選手の勝利は「4回転ジャンプに於いて高得点を稼いだ故だ」と結論付けているのだが。 
 私の評価はやや異なる。
 4分間に及ぶチェン選手の“演技構成力”に於いても。 (我が視点では)チェン選手は誰にも勝る実力の持ち主である事を再確認させてもらった今回の世界選手権大会だった。

 (以上、本エッセイ集2019.03バックナンバーより一部を引用したもの。)



 実は今回の世界選手権ストックホルム大会のテレビ中継を私は見ていない。
 夜遅い時間帯の放映だったため、既に就寝していたからに他ならないが。😖 

 本日朝のネット報道にて、今回の世界選手権男子総合優勝者がネイサン・チェン選手であることを初めて知った。
 本大会の男子ショートプログラムでは、チェン選手は(大変珍しいことに)ジャンプで転び3位に付けている事実を把握していて、少しがっかりしていたところ。
 昨夜のフリーでは、自身の本来の実力を発揮して大逆転にて総合優勝をゲットしたとのことだ!

 早速その“勇姿”をネット動画で見ようとしたにもかかわらず、どうもパソコンでは無料視聴が不能のようだ。 
 それでは、とスマホを覗いたら。 簡単にネイサン・チェン選手のフリー演技が視聴可能だった。 (この辺の事情に関してズブの素人の私は理解不能なのだが)、とにかくネイサン・チェン選手のフリー演技をスマホにて観賞できたことはラッキーだった。

 ネイサン・チェン選手、今回の世界選手権にても“世界一”の素晴らしい演技をありがとう!!😃 
 

“JR四国”の険しい再建への道

2021年03月27日 | 時事論評
 (冒頭写真は、昨年1月に郷里へ旅行をした際に乗車した“JR鳴門線”の写真。)





           
            JR徳島駅構内

           
            JR鳴門線車内。


           
            JR鳴門線車窓から写した吉野川。


           
            吉成駅。

           
            勝瑞(しょうずい)駅。

           

 本日2021.03.27付朝日新聞朝刊に、「JR北・四国 厳しい再建」と題する記事があった。
 
 その記事内より、我が故郷の鉄道である“JR四国”に関する記述を中心に以下に要約引用しよう。

 JR北海道とJR四国への財政支援を続けるための「国鉄清算事業団債務処理法」の改正法が3月26日、参院本会議で可決、成立した。 支援額はこれまでより手厚い総額2300億円に及ぶ。 政府はその代わりに経営再建に早くめどをつけるよう迫るが、新型コロナウィルスの影響もあり道程は険しい。 (中略)
 JR四国は1987年の会社設立以来、鉄道部門はずっと赤字。 高速バスとの競争が激しく、19年度の鉄道運輸収入は224億円で30年前より35%減った。
 四国には人口100万人規模の大都市が無く、人口減が全国よりも早い水準で進み鉄道利用を増やすのは厳しい。 ホテルや不動産、流通といった鉄道以外の柱も育っていない。 (中略)
 2社の再建の足かせとなりそうなのが新型コロナだ。 鉄道各社はコロナ後も乗客が元の水準に戻らないとみている。 鉄道以外の活路を見いだせないと、自立経営どころか業績悪化に拍車がかかる恐れもある。

 (以上、本日付朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 私事及び私見に入ろう。

 私は郷里にて “国鉄”時代の鉄道のお世話になっている。
 高校3年間と19歳で運転免許を取得するまでの大学時代に、当該国鉄“鳴門線”に乗車して日々学校まで通ったものだ。
 (参考だが、運転免許取得後は大学へマイカー通学した。)

 そのため昨年の郷里旅行の際に“JR鳴門線”に乗るのを実に楽しみにしていて、それを実現させた。😃 

 上記写真をご覧頂けると分かり易いが、鳴門線を利用したこの日は平日昼間の時間帯だったが、県内一番の主要駅である徳島駅にも鳴門線車内にも人の姿が見当たらない…
 朝夕の通勤通学時間帯にはさすがに混雑が見られるが、それ以外はこのあり様だ。
 県民の皆さんは概してマイカーを利用するのが通常であり、JR線を利用するのは通学者と多少の通勤者、そして高齢者がほとんどと言えよう。

 そう言えば確かに現在の郷里は、路線バスと共に「高速バス」が幅をきかせているようだ。 近年帰省した際に徳島駅前バスターミナルにて「高速バス」をよく見かける。


 上記朝日新聞記事内に記されているが。
 過疎地ではホテル・不動産・流通といった産業育成が困難を極めて当然であろう。 
 昨年秋には、県内でたった一つ赤字経営を続けていた「デパート」も経営破綻の上に閉店した。
 そんな状況下で、政府から「JR再建」と無責任に言われてもねえ…

 いくら政府が財政支援するから経営再建に早くめどをつけよ! と偉そうに迫られても“無理なものは無理!”と、反発する以外方策が打てないように私など思うのだが。

 “コロナ禍”とて、一体いつ収束するのかまったく予想不能な実態だ。
 
 ここは政府こそが冷静になるべきではなかろうか。
 総額2300億円を過疎地に押しつける以前の問題として。
 過疎地が置かれている現実を直視した上で、物事を判断出来ないものだろうか??

 極論かも知れないが、いつまで経っても巨額赤字JR路線に無駄な財政支援を続けるよりも。
 例えば「高速バス」業界が活況であるならばそれを有効利用するべく財務支援に切り替える、等の方向転換を成す等 “思考の柔軟な転換” が政府側にこそ肝心か、と私など思うのだが…