原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

いっそ今から学歴をゲットすれば?

2011年06月30日 | 自己実現
 「原左都子エッセイ集」に於いて、久しぶりに朝日新聞“悩みのるつぼ”から題材を得て今回の記事を綴る事にしよう。

 6月25日の朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談は、40代女性による「周囲が私の学歴を気にしてます」だった。
 原左都子がこの相談を読んだ直後の感想及び結論とは、(学歴を気にしているのは周囲の人々ではなく、あなた本人だよ。 40過ぎて尚自分の学歴がそれ程気になるのなら、いっそ今からあなたのお好みの学歴をゲットしても全然遅くないよ。)である。

 それはともかく、相談内容を要約して以下に紹介しよう。
 40代の女性だが、約20年前に高校を卒業し銀行に就職して10年以上窓口で働いた。 ある時知り合いから紹介された大学助教授の男性に「お付き合いをして欲しい」と言われ何回か食事をしたが、相手と学歴の話になり私が高卒だと知るとその後音信不通になった。 その後も銀行の同僚から高卒なのによくうちの銀行に就職できたわねと言われ、劣等感を持ち人間不信になった。 悔しかったので英語を勉強して海外の大学に留学し卒業した。 帰国後は派遣会社に登録し通訳として働いている。 派遣先の一部上場企業で社員の女性に昼食に誘われるが、必ず私の学歴を含む経歴に探りを入れるので嫌でたまらない。 その結果他人と話すのも嫌になった。 せっかく頑張って留学して劣等感を克服したつもりなのに、これから一生いじいじと人を避けて働くのかと思うとうんざりだ。 どうしたらこの劣等感から解放されるのか?
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談より要約引用)


 原左都子の結論は既に上記に述べているが、引き続き相談内容を詳細に分析していくことにしよう。

 相談内容を読んだ範囲内で分析するに、確かにご本人がおっしゃる通りこの相談女性は大いなる“劣等感”を抱えているようだ。 それは“劣等感”と表現するよりもはや“被害妄想”の域に到達しているとも捉えられる。

 まずは相談の冒頭に、「大学助教授」の男性から“お付き合いをして欲しい”なるオファーがあり何回か食事をしたとの文面がある。 相談女性としては自分が高卒だから相手から音信不通になったとのことなのだが、これに関しては今回の回答者であられる経済学者の金子勝氏も「音信不通になった理由を相手に確かめたのですか? それはあなたの思い込みではないですか?」との回答をしておられる。 原左都子もまったく同感である。
 それよりも何よりも、この相談において相談女性こそが相手男性の肩書にこだわっているらしき点がまずは気にかかる。  「大学助教授」ねえ~。 私自身の過去の職業・学業環境としてその手の肩書を持つ人種は周辺に少なからず存在したが、自分が付き合う相手を判断する場合肩書などあくまでも付随事項のはずだよ。 要するにこの女性こそが、相手男性の人物像に優先して学歴や肩書を第一義としている様子がこの文言から見て取れてしまうのだ。

 そしてもっと気になるのは、相談女性の海外留学の実態、及びこの女性の通訳能力に関してである。
 海外留学と一言で言っても様々な形態がある。 もしもこの女性が海外の大学に正規入学して専門の学問に励み卒業しているならば、今になってこのような相談をする必要もなかったのではあるまいか?
 この原左都子とて、今から40年近く前にわずか1ヶ月足らずであるが米国州立大学へ“エクステンション留学”した経験がある。 英語の道で就業を志した訳ではない私にとってはそんな些細な事を履歴書に記載しようとも思っていないし、単なる若き日の一つの思い出の位置付けでしかない。  相談女性の“留学歴”も要するにこの程度の短期英会話習得目的ではなかったのか? そうだとすれば、それは到底留学などとは言えないよ。
 大変失礼ではあるが、加えて相談女性の通訳力の程が職場で疑問視されているのではなかろうか?、との懸念すら抱いてしまう私である。 派遣先で正社員女性から昼食時に経歴を尋ねられるのは、最悪の場合、派遣社員としての相談女性の働きが芳しくないのを正社員の立場で何気なく監視した発言であるのかもしれないのだ。  その実態に関してはこの相談内容からは不明であるが、もしもこの女性が派遣社員としてバリバリの通訳力を発揮しているならば、個人情報保護法が施行した現状において、一部上場企業内で、たかが一派遣社員の過去の経歴に正社員の立場から探りを入れるようなことはあり得ない話である。 
 
 さらに、この相談女性はせっかく高卒で就職をゲットし10年以上も成し遂げてきた銀行窓口業務を何故に放棄してしまったのか。
 これに関しても同僚から“高卒なのに”と言われ劣等感を持ったから辞めたということのようだが真実はどうなのだろう??  そこを頑張り抜いて、銀行員正社員としての道を歩み抜くとの人生の選択肢もあっただろうに…


 いやいや、30歳にして医学関係の仕事を一旦休止し再び学業の道に邁進する等の紆余曲折した人生を歩んでいる原左都子とて、この相談者の気持ちが分からなくはない。
 ただ私の場合その行動のエネルギー源が“劣等感”にあった訳ではないという点において、相談女性とは大いに異なるのだ。
 
 それに加え、せっかく今まで積み上げたキャリアを一旦休止して新たな分野の学問領域に入ろうとする場合、その選択肢の矛先こそが重要であろう。
 その選択肢を海外留学に求めたとの相談女性であるが、結果としてその留学経験が自らの劣等感の払拭には繋がらなかった様子である。 これは実に辛い。 そのまま留学先の国で生き延びる程の英語力を成就できたならばよかったのに、何故かこの就職難の日本に帰国して派遣社員の身分でその能力を現在疑われるレベルの方向転換は、実にまずかった…。


 それでは最後に、この相談女性は今後如何なる行動を取ればよいのであろうかについて原左都子なりに考察してみることにしよう。

 どうやらこの相談女性は、独身であられると推測する。
 40歳を過ぎて尚“学歴”や“肩書”に翻弄されていると察するこの女性の結婚は、この後も困難を極めることであろう。

 この相談女性の劣等感の場合、“学歴”こそがその根源であると私は分析するため、その克服を目的として今後重点目標を掲げてはどうであろうか? そうしないと、どうもこの女性は一生に渡って歪んだ劣等感を引きずり続け、つまらない人生を送りそうである。
 そのためには中途半端に海外になど行っても無駄だよ。 その手の輩はこの国にごまんと存在する。

 そうではなく、今後日本で生きていこうとするのなら日本の大学に再入学してみてはどうなのか?  ただしこれにも条件がある。 少子化が進んだ今の日本の大学事情とは、巷の大学では社会人入試制度(2部に多い)が乱立し、ほぼ無試験状態で誰でもいいから社会人を入学させてその学費収入に頼っている現状だ。 そんな大学にまかり間違っても“劣等感”払拭目的の社会人が迷い込んではならない。
 必ずや入試に関して高いハードルを越えねばならない大学を目指して地道に受験勉強に励み、その合格を自力でゲットし、そして入学後は4年間に渡り自らが選択した専門分野の学問を立派に成し遂げられたならば、この相談女性の“劣等感”はその時点でやっと払拭できるのではないかと私は思うのだ。
 人間とは自らが地道に努力を重ね実力を身に付けてこそ自信に満ち溢れることができる事に身をもって気付けば、その時初めて“学歴”や“肩書”が付随的なものと真に理解できるであろう。

 ただし今の時代その努力が就業に繋がらない事も視野に入れておく必要があるし、その後の人生こそが長いことに思いを馳せるべきなのは、私が言うまでもないよ。
                      
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蓮舫さん、1位か2位かはっきりしてよ!

2011年06月27日 | 時事論評
 6月20日、独立行政法人 理化学研究所は神戸市にある次世代スーパーコンピューター「京(けい)」が演算速度世界一を獲得したと発表した。

 このスーパーコンピューターに関しては一昨年、民主党政権の参院議員蓮舫特命担当大臣が新政権の売り物である“事業仕分け”において「日本が世界一でないとけないのか。2位じゃダメなのか。」等々と発言し、世の科学者達の間で物議を醸したことに関しては皆さんも記憶に新しいであろう。


 「原左都子エッセイ集」のバックナンバーにおいても、その物議の様子を取り上げているためここで少し復習させていただくことにしよう。

 新政権の元タレントでもある蓮舫特命担当担当大臣が、事業仕分け担当議員だった時に残した有名な“格言”、「世界一になる理由は何かあるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」
 この蓮舫氏の発言に関して、例えばノーベル賞受賞者であられる野依良治氏は「全く不見識であり、将来歴史と言う法廷に立つ覚悟はできているのか」とのさすが!と唸るような文学的かつ普遍的コメントを述べられた。 また同じくノーベル賞受賞者であられる利根川進氏も「世界一である必要はないと言うが、1位を目指さなければ2位、3位にもなれない」と反論された。 歳費削減を目指す政治家と世界の第一線で活躍する研究者という立場の違いはあれども、原左都子はこの論議において研究者側の発言に軍配を挙げたいのだ。 世界の最前線で業績を残そうとする人材には、そもそも2番でいいなどとの発想はあり得ないのである。そんな甘っちょろい思いが脳裏をかすめた時点で、凡人研究者の道しか残されていなかったことであろう。
 これは教育論にも繋がる議論である。 どうも今時の公教育は生徒を“横並び”させておきさえすれば表面上安泰であるし教育が施し易い故に、それを「平等」に置換して安易な教育に走っているのではないのか? との論評を、本ブログのバックナンバー「横並び教育の所産」(2007年9月著)において既述している。
 この公教育の所産なのか、まさにSMAPが歌うように「私は生まれながら“オンリー1”の存在なんだから、(努力なんかしなくても)世の中で認められるんだ!」と勘違いする若者が量産されているように日頃私は感じるのである。 これこそが、現在の日本の衰退と国際競争力の喪失を創り上げている元凶なのではないのかとの危機感さえ抱くのだ。  もちろん「弱者」は保護したい。 だが決して、公教育が正面切って「弱者」を量産することを正当化してはならない。 公教育とは、努力する国民性を育て続けるべきなのだ。 これこそが今後この国を建て直すべく公教育が担う課題であり役割であると、原左都子はここで断言しよう。
 国の財政健常化のためには、蓮舫氏がおっしゃるように“2番”であってもいい分野もあるかもしれない。 それは分からなくもないが、選挙で当選さえすればにわかに代議士になれ、その後ひょんな発言から名前さえ売れれば大臣にまで上り詰めてしまう国会議員と比較して、科学分野研究者達の幼少の頃よりの長年に渡る日々の尋常ではない努力の程を思うと、私にはどうしても研究者側の味方以外の選択肢はあり得ない。
 (以上、「原左都子エッセイ集」複数のバックナンバーより引用、要約)


 さて、ここでスーパーコンピューターなるものの我が国における歴史に関して簡単に説明しておくことにしよう。 
 日本に於けるスパコン開発の歴史には、官学主導による国策、及び産業界による実生活上におけるスパコンの利用や設置という二つの流れが存在するようだ。
 この二つの流れのうち、文科省が推進する日本の科学技術政策において2006年より「次世代スーパーコンピュータプロジェクト」を開始した。 この頃は我が国のスパコン研究開発力は世界一を誇っていたとのことだ。 だが2009年には米国のスパコン開発の更なる躍進により、日本はこの分野において一位奪還が出来ない見込みとなった。 
 そして一昨年の“事業仕分け”において、当プロジェクトは蓮舫氏の発言をきっかけとして民主党政権により「予算計上見送りに近い縮減(事実上の凍結)」と判定されたため、その後多数の議論が交錯することと相成ったのだ。 
 ところがノーベル賞レベルの世界的科学者達から痛烈な批判を受けた政府は、軟弱にも結局この判定を見直す方向転換をした結果、2010年度予算として227億円をスパコン開発に計上したとのいきさつのようだ。

 ここで一旦原左都子の私論に入ろう。
 
 蓮舫氏による「2位じゃダメなんですか?」の軽薄発言で世界的科学者から痛烈な批判を受けたからといって、政権のマニフェスト主要項目である“事業仕分け”会議における決定事項を、いとも簡単に翻すその国政の軟弱さとは一体如何なるものであるのか?

 国策巨大プロジェクトに関する議論に於いては、研究開発目的や産官の提携のあり方、その波及効果等々の諸課題において掘り下げるべき様々な論点があったはずである。
 そして技術研究開発における費用分担に関しても、今後も国が負担し続けるべきか、あるいは今後は民間活力に委ねるべきかとの議論も両者間でとことん重ねた末にその答を導くべきではなかったのか?  もしも民間に委ねる結論を下した場合、そもそも国家予算外として“事業仕分け”対象から外すとの選択肢も存在したはずである。


 今回、理研と富士通が約1120億円をかけて開発中のスパコン「京」が世界一の名誉に輝いたことを受けて、理研理事長の野依良治氏は「我が国の産業技術が健在な証しでうれしい。やはりトップを目指さなきゃいけない」との談話を公開したそうである。

 これを聞いた蓮舫行政刷新相氏曰く、「心から敬意を表したい」との返答をしたらしい。
 
 ところが、蓮舫氏による追加コメントがこれまた感情的かつ貧弱で何ともいただけないのだ……
 「極めて明るいニュースで関係者の努力に心から敬意を表したい。国民の税金を活用しているので、ナンバーワンになることだけを“自己目的化”するのでなく、どうやって将来の明るい夢につなげるか期待したい」とのコメントを述べたらしい…。

 再び原左都子の私論に入るが、今回のスパコン一位に輝いた研究が官民共同研究であることを鑑みた場合、今後はこの種の研究を国税に頼るのではなく完全民間委託するという選択肢にそろそろ思いを馳せてはどうなのか?

 それから、科学技術の開発において現場の研究者の「自己目的化」のスタンスをお上の一大臣氏から全面的に否定されてしまったならば、世の科学者達は誰しも世界に名立たる業績など残せないのではないかと、元科学者の端くれの原左都子でさえ懸念するのである。
 
 蓮舫さんにお聞きしたいのだが、あなたは何故に政治家になられたのであろうか? 
 その政治家への道程において「自己目的化」の裏心が一切なかったのだろうか。 もしもその種の魂胆が少しでも内心に漂っていたことを認めるならば、今回のスパコン研究に関する「自己目的化」発言も撤回して欲しいものである。
 目先の利害を争う政治家とは異なり、常に長期展望で研究に励んでいる学者研究者の「自己目的化」を完全否定するとしたなら、それは科学者の人格否定でもあり、この世の科学の未来は無いに等しいのではなかろうか?

 歴史的大震災が発生したこの期に及んで、国政を担う政権幹部及び野党こそが「自己目的化」のために彷徨う日々を見るにつけ、忍びない思いの国民が大多数であることを政治家どもは少しは自覚した発言をしてはどうなのか! 
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独身のオーラ

2011年06月25日 | 自己実現
 一昨日(6月23日)のNHK昼間のトーク番組「スタジオパークからこんにちは」のゲストは、宝塚出身の女優 真琴つばさ氏であった。

 クラシックバレエ観賞を趣味とする原左都子にとって、我が国において絢爛豪華な舞台を世に展開して歴史が長い宝塚歌劇団に興味がないという訳ではないのだが、宝塚出身の女優が世に溢れている現状においては、誰がどなたなのやら把握できていないというのが正直なところである。
 今回のゲスト真琴つばさ氏に関しても、「宝塚出身者の中にはそういう人もいるのだな」程度の認識でこのトーク番組を見始めた。

 ところが、真琴つばさ氏のトークの世界ににどんどん惹きつけられるのだ。 トーク内容が特段物珍しいという訳でもなく内容濃いトークを展開しているという事でもないのだが、司会者とのやりとりのテンポが小気味よく、何よりもご本人が至って自然体なのがよい。 「私言葉が分からないの」とのご謙遜の言葉とは裏腹に頭の回転が速いことを見て取れる聡明感が漂い、会話にズレがなく人を惹きつけるオーラを番組終焉までの50分間放ち続けたのである。

 原左都子はこの番組を昼間在宅している時に見聞する機会が結構ある。
 この人のトークこそは聞きたい!と前もって期待していたゲストに限ってその内容の薄さに失望することもよくあり「あ~~、この程度のレベルの人物だったんだ…」との落胆感と共に途中でテレビを消したりもする。 あるいは、トークはまあまあかな?の範疇だが、司会者の質問を聞かずして自分勝手に喋り続けるゲストの客観性の無さに失望して、辟易としたりもする。
 そんなこんなで、この番組を最後まで見続けるのは私にとっては稀な事なのである。


 それに耐える対談を展開してくれたのが、一昨日のゲストの真琴つばさ氏であった。
 宝塚歌劇団において男役トップの座を手中にしつつ輝かしい現役を全うした後退団し現在に至っているというその外見からして、私の好みの“高身長スリムタイプ”であられる。

 それよりも何よりも、真琴つばさ氏が現在40歳を過ぎて尚独身を貫いておられるその何気ない日常に関するトークこそが、原左都子にとっては何とも素晴らしかったのだ!
 
 例えば、真琴つばさ氏は日頃“おひとり様”の立場でファミレスやカウンター中心のラーメン屋や立ち食い蕎麦店にもよく立ち寄られるのだと言う。
 これに関して現在50代半ばを過ぎている原左都子の場合、この年齢に至って“おひとり様”を満喫できる立場にようやく辿り着いたという現状だ。
 独身が長かった私の独身時代とは、つばさ氏のごとく“おひとり様”を堪能しようとて周囲の目が許してくれない時代背景だった。  そのため、それが昼飯とて(昼飯くらい一人でさっさと食べたいのに)普段の行動は不本意にも交友関係を頼る事が無きにしもあらずだったものだ。

 我が長き独身時代には上記のごとくの“周囲の目を気にせねばならない”との時代背景により、「外食」を志す場合はやむを得ず“どなたかと一緒”との形態を取らざるを得ないのだが、その多くは当時付き合っている彼氏であり、仕事帰りに誘いを受ける職場仲間との付き合いであったりしたものだ。

 それに加えて私の場合、一般人から見れば“一種特異的”であろう人間関係が存在したことも、今回の真琴つばさ氏のトークにより懐かしく思い出させてもらえたものである。
 当時の私には大先輩年上独身女性の知り合いが存在した。 その女性とは生き方もタイプも全く異なるのだが何故か仲がよかった。 彼氏や職場の仲間との会合がない夜は、“合鍵”をもらっているその独身女性の部屋を訪れ夜遅くまで滞在したり、2人で外で飲み食いする日々だったものだ。
 そんなこんなで、特に30代を過ぎて後は仕事の帰りにまっすぐ我が家に帰ったことがない私の独身時代とは、様々な周囲の人々にバックアップされつつ成り立ち充実していたと言えるのだ。

 そのような我が思い同様の趣旨発言を真琴つばさ氏もこの番組において発したのである。
 NHKアナウンサーの質問に答えて曰く、「なぜ私が日々“おひとり様”を堪能できるのかというと、それは背後で支えてくれている様々な人物が存在するから故です!」

 その通りであろう。
 人間がある程度健全に独身を貫ける背景には、それを支えてくれる人物が必ずや背後に存在するはずなのだ。

 それだからこそ、真琴つばさ氏は“あと(後)フォー”(40歳を既に通り過ぎているという意味)である今尚輝きを放たれているのであろうと、“前還”(還暦に近づきつつある年齢)の私は同感するのである。 


 今回NHK「スタジオパーク」で真琴つばさ氏の談話を聴かせていただいた原左都子は、今に至って改めて、結婚を急ぎ過ぎたか??との感覚すら抱いたものである。
 番組において70歳が結婚適齢期と断言された真琴つばさ氏の「独身志向」に、私も独身時代には同じ思いだったからに他ならない。
 (私の場合は女性の“出産限界年齢”が頭の片隅に過ぎったのが、晩婚にして結婚に至った理由の第一だったものと振り返るのだが…)

 もちろん子どもが存在する今現在の日常も捨て難く、私に大いなる幸せを届けてくれている事を認めつつ日々を暮らす原左都子である。

 だが、40歳を過ぎて素晴らしい独身を貫いておられる真琴つばさ氏のオーラを放つトークに触れた今、私は遠い日に我が輝かしき独身時代を捨て去って今に至る過ちを犯しているのか??との無念感も、正直なところ少しばかり漂うのである…。  
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原発賠償の基幹は未来に渡る健康保障であるべき

2011年06月22日 | 時事論評
 本日(6月22日)昼のNHKニュースによると、福島第一原発において汚染水抑制目的で水の注入量を減量した結果、3号機の原子炉内の温度が上昇しているとの報道である。


 福島第一原発の汚染水浄化対策は、どうやら暗礁に乗り上げている模様だ。
 米国やフランスより輸入し設置したセシウム吸着装置や除染装置等が試行段階から次々に不具合を起こした。
 にもかかわらず原発事故復興作業を急いで焦る東電が試行期間を短縮して本運転を開始したものの、排出される汚染水のセシウム濃度が予想をはるかに超える高濃度であったため、セシウム吸着装置の運転がわずか5時間で停止したとの情報は先週末に得ていた。
 そして昨日(21日)にはセシウム除染装置のポンプが止まる不具合が発生し、これらのトラブルにより汚染水を浄化してそれを原子炉に戻し燃料を冷却するとの当初の計画の見通しが立たなくなっている現状である。
 やむを得ず水の注入量を減量するという方策しか打ち出せない現状では、原子炉内の温度が上昇して当然であろう。

 元科学者の端くれである原左都子は、東電が「汚染水浄化システム」を採用するとのニュースを見聞した当初より、レベル7の高放射能水を浄化できるシステムなどこの世に存在するのだろうか、との一種“いかがわしさ”を脳裏に引きずっていた。 (ふむふむ、確かに今回福島原発が放出している放射能のうち半減期の長いセシウムは粒子であるから、原理的には超高速遠心分離等の手段を用いればセシウムを水から分離することが可能なのだろうか?? などと信憑性のない昔の知識を老化した頭から引きずり出しては私なりの素人対策を講じたりもしていた。

 もちろん福島第一原発を冷却した大量の汚染水をこのまま日々溜め続けたところで、溜まった汚染水対策に関してその後の方策が何ら用意されていない現実において、汚染水から放射能を除去して循環出来るならばそれは理想というものであろう。
 ただ、その理想論とレベル7放射能汚染の現実との科学的ギャップが大き過ぎることを内心懸念し続けていた私である。  救いとしては、現在はIAEA等国際機関が事故対策に助言をしているようでもあるし、先進機器を諸外国より輸入しての汚染水対策と見聞して、個人的にはそれに最後の望みをかけたい思いもあった。

 ところがやはりこの方策は試行段階から行き詰まる結果と相成った。
 結局、何十(何百)億円かけて輸入したのかに関して私は承知していないが、放射能浄化機器類はこのまま廃棄処分となるのであろうか?? 
 そして何よりも、この国の原子力研究者や学者達はこの切迫した現状において一体何をしているのだろうかとの不審感を抱かざるを得ない現状だ。 東電にだけその対策を任せている場合ではなく、何らかの適切なアドバイスを今こそするべきではないのか!?  
 今回の福島第一原発事故はまさに未曾有の大事故であり、日本の学者研究者は元より、もしかしたら世界中において事故収拾に向けて適切なアドバイスが可能な人材が誰一人として存在しないのがもしれない。
 これぞ“レベル7”の脅威である。
 原子炉が燃え尽きるその日まで、巨量の水を注ぎつつ我々はただ待つのみなのか?
 そして、その巨量の汚染水や周辺の高濃度汚染土壌の処理は今後どうなるのか??


 そうなると、せめても原発事故発生当初より直接多大な被害を被っている原発周辺の避難者の方々に対する保障を急ぐべきである。

 と考えていた矢先、とりあえず現在強制避難を余儀なくされている福島第一原発周辺住民の皆さんの“精神的苦痛”に対する損害賠償に関して、政府は20日、事故発生から6ヶ月間に渡り一人月額10万円を基準として賠償することを決定したようだ。
 
 原左都子の私論としては、とにかくその賠償額の支給を急いで欲しい思いである。
 本日は私が住む東京地方でも30℃を超える真夏日を記録している。(現在、節電のためクーラーなしでこの記事を綴っている私の頭も朦朧としかかっている程に急激な暑さが舞い込んできている。)
 報道によると東北地方でも今日は最高気温が30℃を超えている様子だ。 体育館等に避難している避難住民の方々の今後の暑さ対策が、その賠償金により少しでも早く叶うことを願いたいものである。


 今回の原発事故の補償とは、決して一時的な精神被害に対する賠償金支給のみで国民の“めくらませ”を図ってはならないことは明白である。
 原発事故の損害賠償の神髄とは、必ずや周辺住民の皆さんの未来に渡る「健康保障」であるべきはずだ。
 
 まさか政府は、今回の原発事故による住民の皆さんの精神的苦痛に対する一過性の賠償支払いのみで事を済ませようとしている訳ではないと信じたい。
 何故これを原左都子が懸念するのかと言えば、第二次世界大戦終盤の昭和20年に投下された米国による原爆の広島、長崎の被害者に対してすら、政府はその保障をめぐり今尚被災者と闘い続けている現状を垣間見るからである。
 瞬時にして大量の放射能を浴び多くの市民が死傷した原爆と比較すると、今回の福島第一原発事故はその放射能量が格段に少ないという意見もあろう。
 
 ただ、上記のごとく東電は放射能浄化循環システムの稼働に失敗した結果として原子炉内の温度が上昇する非常事態が続く等、未だ右往左往を繰り返すばかりである。
 放射能の人体への被害とはその積算量で考慮されるべきことについては、本ブログのバックナンバーで再三述べている。 その積算量を忘れ去ったかのごとく政府では政権争いや政権内内輪もめの真っ只中だ。
 その間にも、福島原発周辺の方々の人体に外部被爆内部被爆を積算して一体どれ程の放射能被爆量が今後もたらされるのだろう?

 原発避難者や周辺住民の皆さんには実に実に申し訳ない話だが、もしも遠い未来において福島第一原発周辺地域の方々に統計学上特異的に癌が多発するような傾向が見られた場合、戦後の原爆保障のごとく保障争いを長期化することなく、必ずや政府は “疑わしきは賠償する” 精神でその保障を行って欲しいものである。

 今混乱中の政府に対し、被災者の未来に渡る健康保障の確約を要求したい原左都子である。
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子どもも大人も、くれぐれも交通安全確認を!

2011年06月20日 | 時事論評
 一昨日(6月18日)の土曜日、我が家の集合住宅目の前の道路で交通事故が発生した。 
 実は一昨日の本エッセイ集においてその速報を綴ろうとしたのだが、負傷者の方に対する自粛の観点から速報は取り止めることとした私である。

 事故発生から2日が経過した今尚、道路には警察による実況見分のために引かれたチョークの後が生々しく残っているのが痛々しい…。

 
 今回の「原左都子エッセイ」において、その事故の詳細を紹介することにしよう。

 一昨日、NHKの連続テレビ小説「おひさま」の昼の再放送を見始めた12時47分頃のことである。
 外から  “ドーーーン!!”  との大音量が我が家の室内に響き渡ったのだ!
 咄嗟にこれは尋常ではない何事かが外で発生したと悟った私である。 何かが爆発したか、あるいは車が家屋の塀にでもぶつかったのかと思い、音の発生源の方向のベランダに出た。

 その光景を一見して  唖然!  とした私である。
 小学生位の年齢の少女が道端に倒れ身動きしていない。 傍らに少女が乗っていたと思しき自転車が投げ出されている。 そして、片側一車線の道路の真ん中にタクシーが斜めに停車しドアが開け放され、運転手が外に出て携帯電話で何処かに連絡を取っている。
 通行人か近所の住人らしき人達が既に数人集まって来ていて、それぞれが携帯電話でおそらく救急車の手配や警察への連絡をしている様子だ。 どうやら、倒れている少女に同行していた女の子がいたようだ。 その子が近所に住んでいるのか、すぐに家族と思われる大人を引き連れて来た。 その女の子の母親と思しき女性が倒れている少女の家族に連絡を取っているらしき音声も聞こえてくるのだが、不在のようだ。
 
 テレビを付けっ放しで「おひさま」を見るのも忘れた私は、とにかく倒れた女の子の無事を祈るべくその様子をベランダから見守っていた。 “早く救急車が到着しないものか!!”とイラつきつつ、女の子の様子をハラハラと観察していた。
 10分程時間が経過した頃、女の子が動き始めた。(生きてる!よかった! ただもしも頭や内臓を打っている場合、動かない方がいい。)と私が思った矢先、どんどん増える通行人の野次馬の中から「動かないでじっとしていて!」の叫び声が聞こえた事に安堵する私である。 そして泣き始める少女。その頭を「大丈夫よ、大丈夫よ」と言いつつ優しく撫でてやる友人と思しき女の子の母親。 ただ、相変わらず倒れた女の子の家族とは連絡が取れないようだ。 そして相変わらず救急車も来る気配がない。

 15分位経過した頃だろうか、ようやく救急車のサイレンが遠方から聞こえ始めた。 救急車とはそれを待つ身にとってはこれ程までに到着が遅い事を実感である。 そのサイレンが聞こえ始めた頃、やわら少女が体を起こし始めたのだ。「無理して起きない方がいい!」との周囲の説得にもかかわらず、少女は大泣きしつつ「病院には行きたくない!怖いよーー!」と叫び始めたのだ。
 この声を聞いた私は、おそらく脳や内臓への打撃は最小限であろうと安堵する反面、事故による体への衝撃の後遺症が後々出る恐れもある事を懸念し、とにもかくにも病院へ運ぶ事を急いで欲しいものである。
 結局救急車が発車するまで倒れた少女の家族は現地に来る事はなく、事故に際して同行していた友人の女の子(多少の負傷をしていたのかもしれない)も乗せて、救急車は発車した。
 
 その後、警察による実況見分が始まる。
 私は今回の事故に関しては“音”のみ認識しているだけでその発生状況を把握していないため、それを把握したい思いで救急車発車以降もその様子をベランダから見守っていた。
 どうやら、少女達の自転車が我が家の集合住宅の脇道から一旦停止せず事故が発生した道路に飛び出したようだ。 そこを直進してきたタクシーがその少女達の自転車を避け切れなかったというのが今回の事故の全貌であろう。
 
 ところが、その警察による実況見分中にも脇道から飛び出してきた2台の自転車母子が存在した。 それを警察官が説諭して曰く、「広い道路に出る時には自転車は一旦停止して下さい!」  その説諭に納得がいかない風の母親が警察官に食ってかかっている様子だ。「こちらが一旦停止しなきゃいけないのですか?!!」 
 確かに我が家の周辺の道路は「一旦停止線」が引かれていない程、普段は交通量の少ない道である。 ただ道路交通法上は狭い道から広い道に出る方が一旦停止する義務があると私は心得て、それを日々子どもにも実践させているのだが…
 そこで再び警察官が説諭して曰く「先程この場で交通事故が発生して、貴方の娘さんと同じ位の年齢の女の子が救急車で運ばれました。云々…」
 それを聞いて仰天する母親曰く、「えっ!、ここで交通事故があったのですか!? それはどんな子ですか?」 どういう訳かやわら携帯電話を取り出して実況見分中の道路上で通話を始める母親…。 その子どもに対して再び「この道に出る時には必ず一旦停止しようね」と説諭するのが精一杯の警察官…。 
 (一体どうなってるの、この国の道路交通法に関する国民への教育は??) 


 今回私が自宅前で経験した上記の交通事故のその後の成り行きは心得ていない。
 翌日新聞の地方欄で確認したところこの事故に関する掲載が一切ないことから推測するに、おそらく事故にあった少女の命には別状なく済んだようで一安心の私である。

 都会に於ける自転車の横行振りには、普段より閉口している原左都子でもある。
 子どもを自転車に乗せる場合その教育は親が成すのが当然であるにもかかわらず、その親自体が道路交通法をわきまえていない現実を見せ付けられる日常だ。
 都会の道路事情とは厳しいものがある。 歩道がある道はまだしも救われるのだが、その歩道とて人一人歩く幅がやっと確保されているのが都会の道路の実情なのだ。 その歩道を我が物顔に「そこどけ!」とばかりチャリチャリ鳴らしながら自転車に高スピードで横を通り過ぎられては、日々心臓が止まる思いである。

 今回の事故のような事例の場合、一つの解決策として道路に「一旦停止線」を引くのが手っ取り早いのかもしれない。 狭い道から広い道に出る場合、自転車とて必ず一旦停止する義務があるということを国民皆に知らしめる手段としてこれは効果があるのではないかと考察する。
 そして親がそれを子どもに教育不能と成り下がったこの国においては、学校こそがそれを本気で教育してはどうなのか。
 それしきの事は多大な予算を計上せずして今すぐ実行可能なのではあるまいか?


 小さい子どもの交通事故とは、全面的に保護者及び大人の責任であろう。
 我が国において国や自治体が親世代の真の教育を怠ってきているが故に、親が我が子に対して命にかかわる交通安全とて教育できていない現状を、今回の事故で垣間見せられた思いの原左都子である。
                
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