原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

何故、才能ある美しき少女達を自殺に追いやる?

2017年05月31日 | 教育・学校
 一昨年、茨城県取手市で女子中学生が自殺した問題で、市の教育委員会はこれまで「いじめの事実は確認できなかった」としていたが、昨日5月30日一転して自殺との関係性はわからないものの、友達から悪口を言われるなど、「現在はいじめはあったと認識している」と釈明した。
 2015年11月、茨城県取手市で当時中学3年生で15歳だった少女が自殺し、両親は女子生徒が残した「いじめられたくない」と記した日記や同級生の証言などから、自殺の背景にいじめがあったと訴えている。
 この問題で市の教育委員会は「いじめの事実は確認できなかった」として、去年3月いじめ防止対策推進法に基づいた「重大事態」に該当しないと議決したが、30日の教育委員会の臨時会で当該議決を撤回し、遺族への配慮に欠けたものだったと謝罪した。
 さらに、これまで「いじめの事実は確認できなかった」と一貫して主張してきたが、一転して自殺との関係性はわからないものの、女子生徒から悪口を言われるなど「現在はいじめはあったと認識している」と認め、釈明した。
 市の教育委員会は本日5月31日、文部科学省からヒアリングを受けることになっていて、その中では「当初いじめの事実は確認できなかった」とした経緯や、「重大事態に該当しない」という議決に至った判断などについて説明するものと見られる。
 (以上、ネット情報より引用。)


 冒頭より、私見に入ろう。

 学校教育現場に於ける「いじめ」による子どもの自殺事件は数多く、いつまで経っても文科省や地元教委及び学校現場がそれを撲滅出来ないどころか、むしろその事件数が増加しているような感覚すら抱かされる。

 そんな中、今回のいじめ自殺事件に関して、同じく女子を産んだ母親の立場から少し“特異的な無念さ”を抱かされる私だ。

 この“特異的”無念さは、昨年8月に青森県の女子中学生がいじめにより自殺に追い込まれた事件発生の際にも、我が脳裏を過った。
 先程、昨年夏発生した上記自殺事件に関するネット情報を発見したため、以下に要約して紹介させて頂こう。
 青森市立浪岡中2年の女子生徒(13)が列車にはねられ死亡した問題で、遺族が29日生徒の遺書の一部を公開した。「もう生きていけそうにないです。いじめてきたやつら、自分でわかると思います。二度としないでください」といじめ被害を訴えている。いじめたとする複数の生徒の名前もあった。 
 同級生の話では、生徒は中学1年のころから教室にいる時や体育の授業中に、無視されたり暴言を吐かれたりしていた。 1年の3学期ごろからは、週に数回しか学校に来なくなった。 生徒の父親らは8月29日、いじめの有無などを調査するよう学校に要請した。
 生徒は1年の1学期に学年生徒会の会長を務めた。 入学当初はバレーボール部で、途中で美術工芸部に移ったという。 津軽民謡に合わせて踊る「手踊り」の学外チームにも所属していた。
 生徒は新学期の始業式翌日の8月25日午前、青森県藤崎町のJR北常盤駅で列車にはねられ、死亡した。ホームから飛び込んだとみられる。
 (以上、昨年夏に発生した女子中学生いじめ自殺事件に関するネット情報より引用したもの。)


 原左都子の私見を続けるが、冒頭の茨城県女子中学生と下の青森県女子中学生には“特異的共通項”があるのだ。
 その一つは、ご両人共外見的容姿に恵まれていた、という事。
 そしてもう一つは、わずか中学生にして“特異的”に優れた才能を開花させていたとの点だ。

 茨城県女子中学生の場合、ニュース報道によればピアノの腕前が素晴らしいとのことで、大舞台にてピアノ演奏する場面がニュース内で映し出された。 高校は音楽科を志望しているとの事で、誰が見ても既に趣味範囲を超越し前途有望であることが歴然なのだ。
 片や青森県女子中学生の場合、ニュース報道にて舞台で津軽民謡「手踊り」を踊る姿が放映されたのだが、その「手踊り」との専門分野で既に卓越した技能を磨いていて、これまた前途有望であった事だろう。
 青森県少女の場合、「手踊り」の姿を映した写真がコンテストの最高位受賞に輝いたが、被写体本人が自殺したとの事で、一旦グランプリ受賞が却下された事態がニュース報道された。 これに対し、何ら却下する必然性が無いとの世論により、再び受賞が復活したニュースも流れたため、皆様もご記憶かと推測するが。


 いじめ自殺に追いやられた少女達と「女子」という事のみが共通項である娘を23歳半まで育てて来た私は、今後も続くであろう我がサリバン業を思い起こさざるを得ない。 おそらく普通(この言葉も変だが)の母親が抱く感想とはまったく異なるであろう、何とも言えない“無念感”に駆られるのだ。

 今でこそ大学を卒業してやっとこさ新入社員として就職にありつけ、社会人2年目に至っている我が娘だ。 その点に関しては我が娘としては大いなる“快挙”であり、親の立場からもどれほど嬉しく思っていることか。

 ただ、その23年間の道程は容易いものではなかった。
 2歳から音楽を嗜ませ4歳からピアノを始めさせたものの、家で母の私が付きっ切りで指導しようが、発表会では誰よりも一番下手な演奏をするのがやっとこさの事実。  あるいはクラシックバレエを習わせても、いつまでたっても舞台では下手(しもて)の端っこが我が娘の定置。
 それならば小学3年生から習わせている造形・美術分野はどうかと親の私が必死になったところ、一度はこれを自分の専門とせんと頑張った娘だった。 だが、美大受験に際し「デッサン」につまづき、高3直前に「もう、やめたい…」と娘に泣きつかれた時には、母のサリバンも「もう、やめよう!」と覚悟を決めたものだ。
 その間ずっとサリバンの私が二人三脚で学習指導を徹底していた事が功を奏して、娘は私立中学受験合格も大学公募制推薦合格も果たしたのは良かったが… 
 結果として、大枚叩き時間をかけた割には、我が娘にはピアノもバレエも美術分野に於いても何らの専門力が身についていないのが正直なところだ……  (参考だが、クラシックバレエに関しては現在“観賞”趣味に繋がっているのに加え、サリバン母のダンス好きの影響か、娘も現在“ヒップホップ”に形を変えて余暇時間にプロの指導を受けるに至っている。)


 それを思うと、上記のいじめ自殺にて命を落とさざるを得なかった娘さん達ご家庭の親御さんなど、素晴らしい子供さんに恵まれ、今までそのフィードバックを貰いつつ幸運な日々を過ごされたはずだ。
 どうして、その素晴らしい才能ある娘さんをいじめ自殺から生前守ってあげられなかったのだろう。
 (この議論に関しては、今回はあえて素通りする事とするが。)
 
 出生時のトラブルにて不具合を抱えてこの世に生まれざるを得なかった愚娘(いえいえ、私にとっては誰よりも立派に成長してくれたかけがえのない娘だが)の世話を23年半もして来ているサリバン母の私にとっては、そんなにも優秀な娘さんを何故死に至らせたのか…  と実にもったいなくて“無念”でいたたまれない話題なのだ……


 最後に、私論でまとめよう。

 学校が小中義務教育制度を貫いている以上、そこに通う子供達の生命を守るのは教育制度側の責任だ!
 それを第一義とする事を忘れる事無く、文科省、地元教委、学校現場は、原点に立ち戻って「いじめ問題」等々子どもの生命を脅かす事態に誠心誠意対応し続けて欲しいものだ。  

「ブラック求人」「求人詐欺」を若き求職者が打破するには

2017年05月29日 | 仕事・就職
 毎月25日が給料日の職場は数多いだろうが、社会人2年目となる我が家の娘が5月25日の夜 “満面の笑み” にて帰宅してきた。

 「給料が多かったんだね!?」 と私が尋ねると、娘から返って来た答えは「今年の8月から昇給することが決まった!」とのことだ。  (参考だが、我が娘が勤務する職場は中小企業のため、大手企業とは昇給制度が大幅に異なっている。)
 「それは嬉しいね! で、いくら位昇給するの?」と私が問うと、「〇万〇千円也!」と娘が応える。
 「ええーー。凄いじゃないの! 普通、新卒入社で2年目にしての昇給など、今時千円単位が相場じゃないかなあ。 まあ、貴女の会社と大手企業とは給与体系がまったく違うから、どうこう言えないけどね。」

 実際問題今回の我が娘の昇給とは、決して「基本給」部分の話ではなく、あくまでも「業績給」の昇給に過ぎない。 すなわち、企業大本の経営が苦しくなったり本人の働き力がダウンすれば、自ずと今後業績給を下げられる事態も有り得るのだ。
 それを娘に告げつつ、「それでも、昇給は嬉しいものだね。 これでますます働く意欲が上昇したでしょ!?」と私が言うと、娘も相変わらず笑顔でまんざらでもなさそうだ。
 娘の今後はともかく、とにかく「昇給」との何にも勝る“吉報”を娘と我が家にプレゼントしてくれた勤務先に感謝だ。


 我が娘が大学新卒正社員採用の身とはいえ、中小企業勤務状況にある娘の口から出た一時の吉報に“糠喜び”している立場でもない事は、親として重々承知している。

 そんな折、朝日新聞昨日(5月28日)付経済・総合面にて、娘と同じ年代の若き職業人達の嘆きの報道記事があった。
 早速、以下に一部を要約して紹介しよう。
 非正規社員は今や労働者の4割程を占める。 低賃金で雇用も不安定なのに正社員と同じ仕事を任されたり、長時間労働を迫られる。 「何とかして、正社員として働きたい」と考えるのは無理からぬことだ。 しかし、労働界においては新卒一括採用が尚主流で、転職して正社員の職を得るのは簡単ではない。 
 実際の労働条件と異なる「好待遇」で誘う「ブラック求人」も横行している。 その現場で頑張り抜いて精神的・肉体的に追い詰められたり、最低限の賃金すら貰えなかったりとの悲惨な事例が後を絶たない。
 安倍政権は格差是正に向けて「同一労働同一賃金」を掲げるが、「非正規社員の待遇を正社員に近づける」だけでは解決出来ない問題があるのは明らかだ。
 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)


 一旦、原左都子の私論に入ろう。

 まったくもって一国の首相の身にありながら、我が身息災に「国政私物化」騒動を繰り返す安倍氏の身勝手な政策談話など聞きたくもないが…。
 上記の安倍政権による労働弱者に対する「同一労働同一賃金」あるいは「非正規社員の待遇を正社員に近づける」論理など、一体如何なるご自身のバックグラウンドをもって政府政策として発表したのか!?? 
 安倍氏ご自身には子供さんがおられないようだが、日本社会の若き世代の就業実態に一度でも触れての発言なのか?  奥方であられる昭恵氏の知人・友人団体トップ就任が国費を投じて叶っている事実に甘んじ、誰しも苦労せずして「就労が叶う」とのほほんと考えているとは思いたくもないが……


 上記朝日新聞記事に戻ろう。

 こうした労働契約上の「悲劇」を無くす提案をしている学者氏がおられるようだ。
 当該学者氏によれば、「最低賃金や労働時間等労働条件や、求人情報の正確性に関する法令を企業に守らせることが大前提」。 これに対し「ブラック求人」の取り締まりを強化するは当然との朝日新聞解説。
 上記学者氏は、「働き手が自らの意思で転職し易い環境を整える必要がある」と主張しておられるとの事だ。
 片や、政府の働き方改革実行計画は「官民一体となって転職・再就職者の採用機会を広げる方策に取り組んでいく」と明記しながらも…。 転職ハードルを大幅に引き下げる方策は見当たらない。
 

 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 我が子の就職は、やはり親の責任としてはどうだろうか?

 いえいえ、決して我が家のように娘が就職した暁まで親が責任を持て、とは決して言わない。
 私が言いたいのは、親として将来我が子に安定就業して欲しいのならば、それなりの学業投資が不可欠ではあるまいか? との範疇の話である。
 子供さんが中卒でも高卒でも大卒でもよいのだが、その時点で自ら産んだ子供が社会人となり社会的生産力を発揮出来る程の実力を身につけさせるのは、まさに親の責任と私は思う。

 何分、歪み切った政権下で生きてゆかねばならない庶民の私達であるが故に、これさえ困難であろうことは想像が付いている。

 それでも、人生経験浅き若き我が子を「ブラック求人」や「求人詐欺」から守り抜くのは“親の責任” (親からの適切な助言と言い換えるべきか)と位置付けねば、この時代背景に於いて自分が産んだ我が子を親が守る責任が果たせないと私は考えるのだが。

NHK連ドラ 「ひよっこ」 の視聴率が低迷を続けるワケ

2017年05月27日 | その他オピニオン
 とにかく、とことんダサくダレるドラマだ。

 これぞ、NHK連ドラ「ひよっこ」を4月から2ヶ月足らずの期間視聴した時点での原左都子の“一言まとめ”感想である。


 今回の連ドラ「ひよっこ」はNHKとしては大勝負を賭け、ヒロインに今を煌く若手超売れっ子大人気女優 有村架純氏 を抜擢し、視聴率大勝利!を目指し作成しているとの前評判だった。


 以下に、5月中旬頃発表されたと思しき当該ドラマに関するネット情報を紹介しよう。
 女優の有村架純さんが主演するNHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ひよっこ」が、17日の放送で平均視聴率20.9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・以下同)を記録。 13日の放送でマークした20.9%と同じ自己最高タイ記録だった。
 「ひよっこ」は96作目の朝ドラで、「ちゅらさん」などの脚本家・岡田惠和さんのオリジナル。 大家族の農家に生まれ、のんびりした少女に育った谷田部みね子(有村さん)が、出稼ぎで東京に行っていた父が行方不明になったことをきっかけに、集団就職で上京する……というストーリー。 高度経済成長期に集団就職で上京した“金の卵”が、殻を破って成長していく姿を描く。
 17日の第39回は、テレビ局のオーディションに向けて練習に励む時子(佐久間由衣さん)のため、みね子(有村さん)たちは寮で模擬オーディションを行う。 そして本番当日、「緊張する」という時子にみね子は付き添うことに。 2人は寮のみんなから盛大に送り出されるが……という展開だった。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)

 上記のネット情報に記されている通り、「ひよっこ」はここに来てやっとこさ2日間のみ視聴率が20%越えした!とメディアが騒がねばならない程に、ずっと視聴率が低迷を続けている有様だ。

 ちょうど上記ネット情報内に、主役のみね子の友人 時子が女優オーディションを受けた場面に関する記述がある事に便乗して、一旦我が私論を述べよう。
 あの場面では時子をオーディションに合格させるべきだった、と我がシナリオには書いてあるぞ。 何故ならば、時子の口から咄嗟に出た茨城弁にての演技に大いにインパクトがあったし、複数のおっさんども審査員達の前で見事に堂々とオーディション内の役柄を演じ切れた故だ。 特に茨城弁との“特異性”により十分勝負出来たと評価するからだ。
 まあおそらくドラマの時代当時は未だ女優と言えば“標準語”を使うべきとの時代背景だったのだろうし、あるいは、あの時点で時子を女優として採用してしまったのでは、その後のドラマ展開が意味を成さない故だろう。
 で、まあ要するに、今までのドラマ内でこの時子のオーディション場面が一番人気を博したとは、確かにドラマの本筋が如何に貧弱化を彷徨っているかを物語っている、との結論に至ろう。


 再び、原左都子の私論に戻ろう。

 何故、連ドラ「ひよっこ」の視聴率が低迷を続けているのだろう??

 その第一要因とは、ドラマヒロインの有村架純氏の外見があまりにもダサい故ではなかろうか?
 前情報によれば、有村氏はこのドラマ出演のために体重を5㎏増やしたらしい。 それは奥茨城の農家で農業に励む姿が板について映るよう、本人の意思で敢えて体重を増やす決断をしたと聞く。 その必要はなかったのではあるまいか? ドラマのヒロインとは、如何なる場面であれ何を演じているのであれ美しくあって欲しいと私は思うのだが。
 その意味では母親役の木村佳乃氏など、あのスリム体型で演技にてきちんと農作業に励んでいた印象がありマイナスイメージは無い。
 何故、有村架純氏は顔が“しもぶくれ状態”になるまで体重を増やしてしまったのだろう。 その“しもぶくれ顔”を隠さんと、食事時までも髪を下げている姿こそが視聴者視線としては実に鬱陶しく、食事中シーンだけでも「髪の毛をまとめろさせろ!」、と老婆心を発揮したくもなるというものだ!

 第二の要因として挙げられるのは、このドラマがまるで“少女学園物語”と化してしまっている事態ではなかろうか。
 昭和40年代のトランジスタラジオ工場を描いている真っ最中だが、その女子寮の一室を描く風景がしつこ過ぎやしないだろうか?
 ここ1ヶ月程、女子寮一室に暮らす女子6名(プラス女子長の愛子さん)の姿しか描かれていない。 いやまあ、女子それぞれの個性を描こうとシナリオ面で苦心している様子は少し伝わるのだが、皆がいつ何時でも仲良しとの結論に無理があり過ぎるし、女子長愛子さんがこれまた優し過ぎるのも嘘っぽい。 
 私など既に4月中からダレていると、今度はお盆休みに海へ海水浴に行くと言い始める。 貧乏工員女子6名に水着まで買わせるシナリオに加え、買って来た6枚の水着を敢えてドラマ場面で大っぴらに見せたのには仰天させられた。 あれなど、もしかしたらアパレル企業とNHKの間に癒着でもあったのだろうか!?? と勘ぐっている。
 
 加えて、工場内で披露される「合唱」場面もどうにかならないものか。
 単に放映時間潰しでしかなく、ドラマ監督氏の“手抜き”ではなかろうか!?? とすら、歌愛好者の私でも疑っているぞ。

 更には、主人公みね子の口から発せられる「おとうさん」との言葉もいい加減にして欲しい感覚だ。
 これに関しては、当時の昭和時代に田舎から上京して蒸発する「出稼ぎ労働者」の実態を綴りたいとのドラマ制作者の意向であることは理解している。
 それにしても、ドラマを4月から見ている身としては、みね子が発するべきは蒸発して行方知れずの「おとうさん」ではなく、いつも変わらぬ目線で郷里からみね子を見守っている「おかあさん」であるべきだろう。
 現在の我が身(就職して2年目の娘の事を一日も欠かさず影より見守り続けている母親の私だが)に照らして、みね子の口から出る言葉がいつまでも「おとうさん」とはどうしたんだ?? と、これぞ違和感を抱かされる場面だ。


 ただし、来週からはドラマが大展開する模様だ。
 どうやら、みね子が勤務していたラジオ制作会社が倒産の運命を辿りそうだ。

 工場女子寮に暮らしていた一室6名女子がバラバラになりそうな本日の予告だったが、各々のその後の人生がNHKの脚本により “丁寧に” 綴られ放映される事に期待したいものだ。

野党よ、今度こそ「加計学園」への “総理のご意向” を暴こう!

2017年05月26日 | 時事論評
 先程ネット上で、「加計学園」問題に関する記述を見た。

 早速、以下に紹介しよう。
 安倍首相の友人が理事長を務める「加計学園」による獣医学部の開設をめぐる問題で、文科省の前川前次官が会見し「総理のご意向だと聞いている」などと記された文科省の内部文書とされるものについて「文書は確実に存在していた」と明言。
前川氏はなぜ会見に踏み切ったのか。  前川氏は周辺に対し、安倍政権への怒りをあらわにしているということで、その怒りこそが大きな理由とみられる。
 与党内には「文書を流したのは前川氏ではないか。天下り問題で退任させられた意趣返しだ」という臆測が広がっていた。
 こうした中、前川氏のスキャンダルも一部で報じられた。 関係者によると、前川氏はこれを与党サイドのリークによる報復だと考え、怒りが頂点に達したということで、政権と刺し違える覚悟で会見に臨んだとみられている。
 野党側は、さっそく本日(5月26日)前川氏の証人喚問を要求するなど、徹底抗戦の構えだ。
 与党側は今のところこれを拒否する構えだが、悩ましい判断も迫られている。 組織犯罪処罰法改正案を今国会で成立させるため会期延長も検討しているが、野党の追及を避けるには「早く閉会した方がいい」との声も広がっている。
 ただ、当事者だった前川氏が「文書はすぐに見つかるはずだ」とまで言っている限り、政府は「調査したが確認できない」「怪文書のようなもの」と切り捨てるだけでは済まない。 国会での解明が必要だと言える。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)


 この「加計学園」問題に関する本日5月26日付朝日新聞社説「前次官の証言 国会の場で解明せよ」の記述に、原左都子も全面的に賛同する。
 引き続き、以下にその文面を要約して引用する。

 現況下に於いて、なお否定し続ける政権の姿勢は政治不信を深める以外の何物でもない。
 「加計学園」問題に関して、文科相前事務次官・前川喜平氏が朝日新聞の取材に「総理のご意向」などの記載がある一連の文書は本物だと証言した。 ところが菅官房長官は怪文書扱いを変えず、さらには、今年発覚した文科相の天下り問題を持ち出し、前川氏に対する激しい人格攻撃を始めた。
 政権は問題をすり替えてはいけない。 事務方トップだった人物が「行政をゆがめられた」「圧力を感じなかったと言えばうそになる」と発言している。 国家戦略特区という政権の目玉政策に重大な疑義が生じているのだ。
 あの文書に関して解明するのは、政府の、そして国会の責務である。 にもかかわらず、野党が求めた前川氏の国会招致を自民党は拒否した。 行政府に課せられた使命を放棄したふるまいだ。
 日本獣医師会顧問の北村直人氏も、自身の発言として記録されている内容につき「事実」と述べている。 政府はこれにどうこたえるのか。
 獣医学科系大学の入学定員は40年間据え置かれてきた。 それを160人増やす構想にもかかわらず、獣医師がどの程度不足しているのか、どんな人材が必要なのか、十分なデータも説明も示されないまま認可を求められたと前川氏は話している。
 応募要件を「広域的に獣医師の要請大学がない地域に限る」としたことについても、内閣府には多くの疑問の声が寄せられていた。 結果として、応募を検討していた他大学は撤退を余儀なくされた。
 大学学部新設に関して公正・公平な行政ルールが貫徹されてこそ、人々に受け入れられるはずだ。 政権はこのままほうかむりを続けることは許されない。 国政に対する信頼の根幹が揺らいでいる。
 (以上、朝日新聞本日の社説より要約引用したもの。)


 原左都子の私論に入ろう。

 獣医学部新設ねえ。
 あくまでも素人考えだが、医学部新設に比して格段にその「社会的使命」等に於ける重要度が低いような感覚を抱く。 もちろん、畜産分野や生態系に於ける絶滅種保護関連に果たす獣医分野の役割の多大さに関しては、私も重々認識しているが。 
 それで、安倍首相も「ボクのお友達の加計学園理事長が獣医学部を新設したいと言ってるから、文科相にこっそり頼んで新設出来るように口利きしようかなあ。 医学部新設の場合事が大きくなりそうだが、まあ、獣医学部だし、世間もそんなには騒がないだろうし~~。 女房の昭恵にも既に加計学園のトップの地位にかかわらせているし~~」などと、能天気に考えたのだろうか??

 冗談はともかく本日昼間に見たテレビでも、獣医学部新設を目指してきた歴史伝統ある他大学が国内に複数存在した事実が報道されていた。 まさか、加計学園理事長が安倍氏と友人関係にあるとは露知らず、それら老舗大学は政府から不認可を突き付けられるままに新設を断念して来たのだろうか。

 本筋からズレるが、文科省前事務次官であられたとの前川氏に関してだが、氏はどうして“天下り”になど甘んじたのだろうか? 今となってはその事実を反省し心を改めているとの事だが、これ、確かに国民目線からも残念ながらマイナス材料である事には間違いない。  
 加えて、氏が歌舞伎町の出会い系バーに出入りし享楽したとの話題も、確かにとてつもなく印象が悪い。
 前川氏は今回の加計問題に関し、野党よりの国会証人喚問に応じる姿勢のようだ。 是非それを実行して、政権より「怪文書」扱いされているとの加計学園獣医学部新設をめぐる「総理のご意向」等の記載のある一連の文書が本物であることを、再度国民の前で証言して欲しいものだ。


 それにしてもだ。

 「森友学園」問題に引き続き、「加計学園」問題。 ……
 何故、安倍首相は自らの知人・友人を優遇するべく政策を平然と次々に実行に移そうとするのだろう。
 これぞ、“国政の私物化”に他ならない行動だが、そんな国民を欺く身勝手な行動を繰り返して尚、自身の首相生命や政権存続が永久に繋げると安倍氏は本気で信じているのだろうか? 
 「赤信号を青と考えろと指示」し「黒を白にせよ」と省庁トップを巻き込み、官房長官には「あれは怪文書」と国民相手に発表させ、自分はタイムリーにG7会場であるイタリアシチリア島へ逃げている始末。

 もしかしたら安倍首相は、自分が帰国した頃には国民は「加計学園」の事など忘れ去っているだろう、と期待しているのかもしれない。
 そうは問屋が卸さぬぞ! との勢いで、今度こそ野党には「加計学園」問題を国会の場で徹底的に暴き切って欲しいものだ!

左都子コレクション -便箋編-

2017年05月24日 | 人間関係
 (写真は、おそらく上京後より現在に至るまで私が収集した便箋類。)


 私はかつては “手紙魔” だったかもしれない。

 思い起こせば子供の頃より文章を書く事をまったく厭わなかった私は、小学校低学年の頃より女の子友達と“手紙交換ごっこ”をしていたような記憶がある。
 その頃より文房具店に行けば、女子が喜びそうな絵柄の封筒便箋類が販売されていた。 
 一体何をテーマに手紙を書いたのかの記憶はないのだが、相手から返事が届き、またそれに応えて手紙を綴る行為がとても嬉しかった思い出がある。

 中高生時代に「文通」を始めた私は、元々の手紙好きに更に拍車がかかる。
 特に中学校から高校にかけて文通をしていた大阪に住む某男子との文通は、4,5年間続いただろうか。 高校生になった時、実際に会おうとの話になり、最初相手が友達を連れて我が郷里までフェリーに乗ってやって来て我が友と4人で会った。 手紙の文面そのままの真面目な好男子だった。 そして高2の夏には今度は私が大阪へ行き、2度めのご対面を果たしエキスポランドで無邪気に遊んだ。(これに関しては、既にバックナンバーにても紹介している。)
 この好男子とどういうきっかけで文通をやめたのかに関してまったく記憶がないのだが、もしも現在まで文通が続いていたとして、やはりあの文通相手は今でも好男子ではないかと年月を超えて尚確信を持って思える。 相手も私に対して同じ感覚を抱いてくれているような気がする、とも感じられるのが不思議だ。
 それ程に成長途上期に手紙との形で1対1の文章のやり取りを4,5年もの期間続行出来た事とは、類稀な奇跡だったのかもしれない。

 上京した後は、まさに郷里の友達や旧彼(?)等々と手紙のやりとり三昧だ。
 仕事にもプライベートにも超多忙な身の私にして、手紙を書く事が億劫だと感じた事など一度も無い。 常にお好みのレターセットを買い求めては、1通に付き4枚程の手紙をしたためては投函していた。 しかも必ずや相手も返信をくれる。 
 一体如何程の手紙を書き、どれだけの返信を貰った事だろう。 溢れる程の返信手紙を保存しては、引越の都度整理して始末したものだ。
 おそらくそれが叶ったのは、今の電子メールとは異なり手紙の往復には日数を要した故だろう。 直筆で綴る手紙とはいえ、たとえ相手が複数いたとしても、数日に一通の返信程度軽くこなせた事を今になって納得させられる。

 その後も、私は“手紙三昧”の日々を送った。
 特に高校教員を出産退職した後、私のファン(?)であってくれた女子生徒達より、何通もの手紙を頂いた。 今尚それらの一部を保管してあるのだが、中には“人生相談”のような内容の手紙もあった。 それに誠意を持って彼女達との手紙のやり取りに応えつつ、年月の経過と共にどうしても音信不通とならざるを得ない。 それは電子メールの発展故であり、何よりも彼女らが成長して立派な大人になった証拠であろうと私は信じている。
 


 冒頭の我が「便箋コレクション」に話を移そう。

 上記写真に撮影した「便箋コレクション」は、冒頭に記した通り上京後に収集したものである。
 何分“手紙魔”の私であり、既に使い切った便箋は破棄している故に当然ながら撮影範囲外だ。
 
 写真中段は比較的古い便箋群であり、中身が少し残っている程度だ。
 写真下段中央辺りの “水森亜土氏もの” やその左側の “内藤ルネ氏もの” 、あるいは上段右の“いわさきちひろ氏もの”は、比較的近年それらの美術展へ行った際にミュージアムショップにて買い求めた便箋類だ。
 写真上部中央及び下部左にご注目頂きたいのだが、これは私が我が娘を産んだ後に過去の“手紙文化ノスタルジー”に浸るべく、某通販業者より「100枚すべての絵柄が異なる」なる便箋を買い求めたのだ。 届いた便箋群を見てどれ程感激したことか! まさに5冊500枚に及ぶすべての便箋の絵柄が異なるのだ! 
 娘を産んだ頃は未だ電子メール時代ではなかった。 この「すべての絵柄が異なる便箋」を観賞しては、“あの人にはこの絵柄で手紙を書こうかな” “この人にはこの絵柄だな” などとの思いを浮かべつつ手紙を綴る時間こそが、我がサリバン業真っ最中にとてつもなく解放感を得られる束の間の貴重な時間帯だったものだ。


 悲しいかな、時代は変遷してしまった。
 今となっては“手紙を綴る”という文化が、この世から消え失せ果てている。
 かく言うこの私とて、日々キーボードタイピングにて当該「原左都子エッセイ集」で愚痴をばら撒いている始末だ… 

 もしも「手紙文化」が未だ生命を保っていたならば、人々の間を過ぎゆく時間間隔に余裕が持て、自分にとって大事な人とじっくり向き合える余裕を取り戻せたのだろうか、と思ったりもする……